幕間1 サイテーのお手本
シーズンは6月半ばまで進み、交流戦を終えようとしていた。
ドルフィンズの二軍が試合を行う横須賀球場に併設された室内練習場――今日の練習が終わり、静かになった建物の一角に、煌々と灯りがついていた。そこでは1人の選手が居残り練習をしている。
江川希、23歳。背番号77。
ドルフィンズの女性選手といえば、数か月前までファンたちは彼女の名を挙げただろう。
肩甲骨あたりまで伸びたサラサラのストレートヘアと、くっきりした目鼻立ちに、日焼けした健康的な肌。
むさくるしいグラウンドの中ではひときわ目立つそのルックスは、入団当初アイドルのオーディションを受けても通用するのではないかと思えるほどだった。
しかし、ドルフィンズのアイドルの姿は、一軍にも二軍にももうなかった。
バッサリとショートボブほどに切り落とした髪と、泥だらけのユニフォーム。
女子選手向けに短く切られた裾がひらひらと動くパンツではなく、膝から下はストッキングがあらわになる男子選手と同じハイカット。そこから覗くふくらはぎは、カモシカの脚のようにしまっていたが、プロ野球選手にしては明らかに華奢なシルエットだ。
二軍でセカンドとレフトの守備位置につき、ここまで15試合にフル出場している希の成績は、打率.221。華奢な体ゆえ、もちろん本塁打は0本だ。
「その日まで約束! 私が、いつか必ず楓を勝利投手にするようなヒットを打ってみせる!そうなれるように、二軍でしっかり頑張ってくるつもり。」
そう楓に告げて、志願の二軍行きから3か月。男子選手と同じ練習メニューを毎日こなしてきた。
二軍でもなかなか結果がついてこない現状に、希は焦っていた。
少しでも練習量を増やそうと、今日から深夜特打ちを行うことにしたのだ。
心の中に現れる弱気の虫をなだめるため、とにかく必死でバットを振る。
(このままじゃ、いつまでたっても一軍に上がれない。約束だって、果たせない……でも、やるしかない。)
自分に課した最後のマシン打撃を終えると、クールダウンのためにマットのあるスペースに向かう。
すると、誰もいないはずの練習場に人影がある。
近づくと、それが藤堂剣剛の姿であることが分かった。
藤堂はプロ21年目、39歳を迎えるベテラン選手だ。
かつては1軍でクリンナップを打ったこともあるが、現在はその力も衰え、まさに現役に「しがみついている」といった様相だ。
藤堂が引退しない理由は、その素行の悪さにあった。もともと酒癖が悪く、日頃から態度も粗暴だった。大仰な名前とは対照的に169センチと小柄な体ながら、強いリストからパンチ力のある打撃で、ここ一番の場面の本塁打を量産してきた。一軍でのキャリアハイは21本。
しかし、きわどい判定に暴言を発して退場になってみたり、プライベートでは酒を飲んで暴行事件を起こし、家族が出ていってしまったり、良くも悪くも「話題に事欠かない選手」だった。
その荒れた素行のせいで、これほどの実績がありながらコーチのオファーがもらえなかったのだ。
この性格のため貯金するタイプでもなく、コーチ手形がない以上、生活のために現役を続けていた。球団としても、弱小時代を支えた功労者ということもあり、簡単に首を切れずに持て余していた。
希が近づくと、ユニフォーム姿の藤堂の横にはカップ酒とスルメ。
年頃の女子選手としてはなるべくかかわりたくないのは当然だ。そそくさと横を抜けようとする希を一瞥すると、藤堂はかまわず酒をあおった。
なるべく関わりたくなかった希は、早足でその場を後にした。
こんな素行を続ける藤堂に対し、二軍全体が「見て見ぬふり」を決め込んでいたのが、希は不服だった。
一生懸命みんな野球に打ち込んでいる。チームも強くなってきた。
あんな人がいたら、士気が下がる。
しかし、首脳陣も藤堂を咎めようとはしない。
(そんなにすごい選手だったのかな……)
希は1時間30分かけて通う自宅に戻った後、完全に興味本位で藤堂のことを調べてみた。
動画サイトで検索すると、藤堂の動画はこれでもかというほどたくさん出てきた。
その多くが藤堂の起こした事件のまとめのようなものだったが、それと同じか、若干少ないくらいの数は、全盛期の藤堂のバッティングに関するものだ。
《ドルフィンズの曲者・藤堂の活躍と末路》
《アル中藤堂の全盛期はすごかった?!》
気が付くと、希はそんなセンセーショナルなタイトルの動画を次から次に見ていた。
そのバッティングに完全に魅了されていたのだ。
まず目を引いたのは、藤堂の長打力だ。
169センチというのは、藤堂が活躍した18年~10年前でもプロ野球選手としてはかなり小柄だ。しかし、小さな体を目一杯回転させてコンパクトにボールを叩くと、バットの上半分に当たったボールはピンポン玉のように天高く舞い上がり、スタンドに吸い込まれていく。
曲がりなりにもプロ野球選手である希には、一見してそれが強いスピンのかかった打球であることが分かった。
(このバッティング……リストの返しが強いんだ。)
一目で分析できたのは、二軍に来てから様々な選手のバッティングを研究し続けた成果だったのかもしれない。
プロの世界には、小柄でもホームランバッターという選手が珍しくない。そして、その多くがリストの強さを武器に、瞬間的なパンチ力のある打撃で勝負していることが、希にもわかっていた。
そして、希はその動画を見続けて、ある事に気づく。
(そうか、リストには大きいも小さいもないんだ……!)
バッティングのパワーはどうしても体格の大きさと体重に影響されがちだ。しかし、手首の大きさは対格差に比べると微々たるものだ。リストの強さを武器にすれば、小柄な自分にもバッティングの活路を見出せるかもしれない。
希は自室でバットを持つと、藤堂の構えをまねてみた。
もともとコンパクトな打撃を武器にしていた自分のフォームよりも、さらにコンパクトな構えだ。どうしても大きな打球や強い打球を打ちたいときは、構えが大きくなっていた自分のフォームに比べて、藤堂のフォームは大きな打球のときも変わらずコンパクトなままだった。
狭い自室でバットを振るわけにもいかないので、そのフォームで足を踏み込むところまでの動きを繰り返してみる。
(なるほど、これなら最短距離でバットが出る!)
そしてさらに圧巻だったのは、藤堂のバットコントロールだ。
ボールが当たる位置がバットの上すぎれば、ポップフライになってしまう。バットの中央に近すぎれば、力負けして中途半端なライナーになる。
まさに「ここしかない」という角度でボールが跳ね上がり、スピンがかかるところにバットを当てて、ボールを一気にこすり上げる。
これを習得すれば、自分も一軍で活躍できるかもしれない。
期待に胸を膨らませた希は、そのフォームをただ繰り返し続けた。
ふと気が付くと、カーテンの向こうに朝日が差し込んでいた。
もう眠ることはあきらめ、希は慌てて出かける準備をする。
◆◇◆◇◆
翌日以降も、週に何度も希は深夜の練習場で藤堂を見かけた。日によっては、酒に酔って眠りこけている日すらあった。
その姿を横目に、希は我関せずで毎日練習に打ち込む。
目の前の酔っぱらっているオッサンが、自分のバッティングに光明を見出すきっかけだとはあまり認めたくないが、希には目標がある。直接の関わり合いになりたくはないが、学べるものは全部学ばせてもらう。
希はそれだけ必死だった。
するとその時だった。
「おい! お前!」
額に汗してバットを振る希は、突然背後からかかった怒声にびくっと体を硬直させた。
振り返ると、赤ら顔の藤堂が立ち上がってこっちを見ている。
「ったくよお……見てられねえな、まったく。」
ろれつが若干回らないべらんめえ口調で、藤堂は防球ネット越しに希を睨みつけていた。




