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40 変人の矜持

以前から読んでくださる方へ。

今回登場する「大久保健之」は、以前「鈴木健之」として登場していたキャラの苗字を変えたものです。

鈴木祥万選手も登場しており、鈴木姓が複数登場すると分かりにくいので、変更しました。

※すでに初登場シーン(23-3)などでも記述の変更を行っています。

 5月29日、ドルフィンズは移動日のため、この日の試合はない。

 明日から兵庫に乗り込み、神戸ブリュワーズとの3連戦を戦うことになる。


 初戦の予告先発は、複数球団との競合の末、大阪ロイヤルズから移籍してきた大久保健之。

 切れ長の小さな目と、投手にしてもプロ野球選手としてはかなり細身の体型が印象的な、ドルフィンズのローテーション投手だ。


 マウンドでひょうひょうと投げ、ピンチを迎えてもニヤニヤと不気味に笑う姿は、インターネットの掲示板やSNSを中心に「変人」というあだ名で呼ばれていたが、


「家系ラーメンが好きなので、湘南ドルフィンズさんにお世話になります。」


というコメントを発した入団会見により、晴れてあだ名は「変態」になった。


 大久保は、ロイヤルズからドルフィンズへ電撃移籍してから、ここまで今シーズン4勝を挙げているドルフィンズの勝ち頭だ。その不可思議だが意外に人懐っこく、関西弁で誰にでも分け隔てなく接する様子から、チームのムードメーカーになりつつあった。

 先日も、7回裏の攻撃前にチアリーダーたちが踊る後ろで、マスコットの着ぐるみと相撲を取り始めてスタジアムの注目を集めたりしていた。


 ただ、楓はその言動の不可解さや不気味な笑顔につい身構えてしまい、大久保とはあまり交流を持ってこなかった。

 何を考えているかまったく分からない大久保が、楓は正直なところ少し苦手だった。


 年に1か月間しか開催されない交流戦は、選手たちにとってやりなれない相手との対戦の苦しみと、普段訪れない土地での食事の楽しみの両方を味わう時期だ。この日は移動日だったこともあり、夕方にはホテルに到着した選手一同は、神戸の夜の街へ繰り出していった。

 助っ人外国人のフェルナンデスやボルトンに、日本自慢の神戸ビーフを食べさせるのだという。少し疲れを見せていた戸高も、高級焼肉と聞いてスキップでもするかのような軽い足取りでついていった。普段はしっかりしているのに、こういうところは子供のようなのが、戸高が先輩たちから可愛がられる所以でもある。


 一方、楓は突貫工事でスクリューを習得したことの疲れや、ここ数週間のジェットコースターのようなメンタルの浮き沈みもあり、ゆっくりと過ごすことにした。


 手持無沙汰だった楓は、ホテルでただ休んでいることもできず、ブリュワーズの練習場に向かった。ビジターチーム向けに解放された室内練習場はホテルからほど近く、歩いて10分とかからなかった。

 ビジター練習場は、全体を深緑色の壁に囲まれた箱状の建物で、二重になっている防球ネットをくぐって中に入る。さすがプロの施設らしく、どこの球団でもビジター向けの設備までしっかりしている。


 楓が室内練習場のネットをくぐると、ふと人の声と歓声のような音が聞こえる。近づいていくと、それが野球中継の実況のアナウンスであることが分かった。


《さあ、マウンド上のロイヤルズ大久保、このピンチを切り抜けられるか? 1アウトランナーは1・3塁。バッターのドルフィンズ4番太田に第5球――》


 音の鳴る方へ向かうと、そこには実況されていた選手、練習着を着た大久保の後ろ姿。大久保の練習着はシャツもパンツも半袖という簡素なものだ。

 無人のブルペンで、ホームベースに向かって、実況に合わせてボールを投げる。


 ボールがファサっという音を立てて、ホームベース後ろのネットに吸い込まれて、下に落ちる。


《さあ、マウンド上の大久保、このピンチを切り抜けられるか?》


 すると、また同じ実況の音声が流れる。

 大久保はセットポジションから、同じようにボールを投げた。ボールは再びネットに吸い込まれる。


 狙いと違うコースへ行ったのか、思わず大久保が背後を振り返った。

 楓と目が合う。


「あっちゃー……見られてもうたかー。」


 大久保は気まずそうな顔をしながらも、いつものようにおどけて見せる。


「こんなイメトレしとるなんて、みんなには内緒な。何言われるかわからへん。」


 片手にグラブをはめたまま両手を合わせて言う大久保。

 しかし、楓にはその事実をチームメイトにいうか否かよりも、確かめたいことがあった。


「大久保さん、それ……」


 楓の視線が下に向く。

 大久保の左ひざには、ぐるぐるとしっかりとしたテーピングが巻かれていた。

 キレで勝負するタイプの左投手である大久保にとって、軸足となる左ひざは生命線だ。

 その大久保が左ひざに故障を抱えていることは、おそらくチームのほとんどが知らないだろう。


「ああ、これな。」


 気まずそうに大久保が答える。

 楓の顔を見ると、


「ちょっと、休憩しよか。」


そういって歩み寄る。2人は室内練習場の端にあるベンチで、スポーツドリンクを片手に並んで座った。


「FAの一番の理由は、これや。連投に次ぐ連投で、1回ひざをいわしてもーた。でもな、俺は野球も、ピッチャーも、やめるわけにはいかへんのや。それに……」


 スポーツドリンクのキャップを見ていた視線を、ふと遠くを見つめるように上げる。


「先発は辞めへんよ。俺の生きがいや。だから、こうやって一番いい時のイメージを呼び起こしてからマウンドに立つことにしとるんや。」


 子供のようにキラキラした目で言う。室内練習場の照明が、大久保の目に映って星のように輝いていた。


「まぁ――そうか。乗り掛かった舟よな。ついてき。」


 突然そういうと、大久保は室内練習場をそそくさと出ていった。楓は訳も分からず慌てて後を追う。大久保の車の助手席に乗せてもらうと、車は付近の高速入り口から入って、高速道路をひた走る。流れていく高速道路のオレンジ色の灯りを見送りながら、大久保は独り言のように語り始めた。


「俺な――親、おらんねや。」


 突然始められた身の上話を、楓は黙って聞いていた。


「『子供の家』ってわかるか? 親がおらんかったり、親に捨てられたりした子供たちが、身を寄せ合って暮らしとる家があんねん。俺も神戸の子供の家で育った。正直、親の顔がどんなかもしらんし、俺にとっての実家はあそこや。」

「でも、じゃあ、どうしてプロ野球選手に……」


 そこまで言って、楓はとんでもなく失礼なことを聞いていることに気が付き、言葉を途中で止めた。プロ野球選手になるには、金も環境も必要な時代だ。なのに、そのような環境出身の大久保がどうしてプロ野球選手になれたのか。

 しかし、大久保は心底楽しそうに笑い飛ばすと、


「あいかわらず面白いな楓ちゃんは! そういうとこ、けっこう好きやで。必死で練習したんよ。無料で入れる推薦枠がある高校の野球部に入るために。」


といって、さらに話を続ける。

 たしかに、野球というのは経済力の必要なスポーツだ。用具も高ければ、高校野球で全国を目指すには、学費の高い私立に行かなければならない。地元でない高校に行くとなると、寮生活のために生活費もかかる。

 大久保が通った大阪のQS学園高校も、環境が整っているかわりに、ごく一部の特待生選手以外は高額な学費が必要となる高校だった。


「だから、結果を出すしかなかったんや。高校に特待生で入ったら、1年生からずっと1軍で結果を出さんといかん。そうせんと、高校に通うことすらできひんからな。せやけど、俺が這い上がる方法は野球しかない。だから、野球でプロになって、人生逆転してやろうって、ずっと思ってたんや。」


 そこまで話すと、車が止まる。


「さて、着いたで! ここが俺の実家や。」


 そういって案内されたのは、神戸市の郊外にある子供の家「あすなろ」。家がまばらに建つ少し寂しい住宅街にある、古びた2階建ての建物だ。

 裏口に回り、インターホンを押す。時刻はすでに22時を回っていた。


 職員に中に通された大久保は、子供たちが眠る寝室の扉を少しだけ開けて覗くと、実父が我が子を見るような優しい表情で子供たちの寝顔を見守る。そして、かすれるほどの小さな声で、


「ごめんな、今日は遅くなって、明日はテレビで見ててな。」


といって扉を閉めた。


 そのあと、職員用の事務室に通された楓は、夜中まで職員と大久保の昔話に聞き入った。


 大久保が1勝するごとに全国の子供の家に合計50万円を寄付する「大久保基金」を行っていること。

 先発にこだわるのは、けがのことだけでなく、「子供たちが起きている時間に投げている様子を見せられるから」であること。

 ロイヤルズで中継ぎを続けていたらいつか左ひざが使い物にならなくなると分かって、先発の枠を求めてFA宣言したこと。

 ドルフィンズに移籍した本当の理由は、試合を無料で見られるインターネット番組「スマキャス動画」を放送していたからだということ。


 子供の家の談話室には古い型式のデスクトップパソコンが置いてある。

 子供たちは大久保の先発試合になると、小さな子供から高校生まで、皆がモニターの前に釘付けになるのだそうだ。


「悪かったね。変なとこにつき合わせて。ほんなら、ここでね。」


 宿泊先のホテルまで楓を送ると、駐車場でそういう大久保。今日は子供の家に戻り、そこに泊まって明日の午後に球場入りするという。


「いえ、とんでもないです。」


 楓が答えると、大久保が軽く敬礼のようなポーズをとって、車の窓を閉める。


「大久保さん!」


 楓の声に、パワーウィンドウの機械音が止まる。


「明日、絶対勝ちましょう!」


 楓の呼び掛けに、いつものニヤニヤ顔になる大久保。


「楓ちゃん、勝負は時の運、やで。絶対はない。せやから……」


 少しためを作って、もったいぶる。


「明日楓ちゃんが打たれて俺の勝ちが消えたら、神戸ビーフおごりな! あすなろの子供たち全員ぶんやで!」

「え! それはさすがに無理! っていうか大久保さんの方が全然給料高いじゃないですか!」

「知るか! プロの世界は実力主義や!」


 最後の最後はいつもの苦手な大久保に戻ったのを見て、楓は確信したのだった。


(大久保さんは、きっと大丈夫。明日も、ちゃんといいピッチングができますよ。)


◆◇◆◇◆


 5月30日、神戸ー湘南・1回戦。

 ドルフィンズ先発の大久保がスマキャス動画中継カメラを見つけると、試合開始直前のマウンドから、満面の笑みでVサインを繰り出した。


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