38 強い心と、弱い心と
太平洋大学の野球部グラウンドで、楓と戸高、そして小谷野監督を交えた3人だけのミニキャンプが始まった。
小谷野監督とのつかの間の再会を喜び、大学時代のような厳しい練習が待っているものと思われたが、意外にもその練習は地味なものだった。
まず前半の5日は、ひたすらスクリューの握りを体に叩き込んだ。
手元を見ずに、スクリューの形にグラブの中で握って、手を外に出す。
小谷野監督に見てもらって、ダメ出し。
またグラブの中でスクリューの握りをして、手を外に出す。
小谷野監督に見てもらって、ダメ出し。
ある程度握りが形になると、今度は腕の振り方を反復練習する。
カーブと同じ腕の出方でスクリューを投げる。
これをひたすら繰り返す。
夜は毎日、カーブとスクリューを投げ分けるイメージで、シャドウピッチング。
寝る前に、左肘のインナーマッスルを部屋でひたすら鍛える。
これはあまりに退屈なので、あかねに電話の相手をしてもらいながら続けようとしたが、話し声に気づいた戸高に、「立花! 集中して練習しろ!」とドア越しに怒られた。
(まるで修学旅行のときの教師みたいだ。そういえば、戸高くんは教育学部だったっけ。)
戸高を指名したドルフィンズに感謝すべきは、戸高本人よりも、プロになれずに体育教師になったときに受け持つことになったであろう生徒たちかもしれない。まあ、六大学三冠王を指名しない球団などないわけだが。
そして、戸高と小谷野監督が「第1クール」と呼んでいた5日間が終了した。
◆◇◆◇◆
「もーーーーーーめんどくさいよーーーーーーーーー」
楓はそろそろ反復練習に飽き始めていた。
「楓さんも、そろそろバッター相手に投げたくなったんじゃないの?」
小谷野監督が見透かしたように、優しい口調で問いかける。
「もちろん! さすが小谷野監督! 誰かと違って話が早い!」
「なんだって?」
「なんでもありませーん。」
入団から半年の月日が流れ、同期の2人はいつしか打ち解けた友人同士になっていた。
こうしている時の楓は、あの地獄のような連戦の炎上など、もう忘れているかに見えた。
「じゃあ、うちの生徒たちに、投げてみてくれるかな。」
小谷野監督の提案は、太平洋大学野球部の現役打者との対戦だった。
ちょうど実践に飢えていた楓は、喜び勇んでマウンドに上がる。
しかし────
「なんで……? また打たれた! しかもスクリューばっかり!」
学生たちは、楓のスクリューを狙い打ちした。
もちろん、これは戸高と小谷野監督の指示だ。
まだまだ学生レベルのスクリューだということもそうだが、スクリューを投げるタイミングを学生に教えていたのだ。
楓が目指すスクリューは、ウイニングショットである必要がある。
ストレートと迷ったらシンカー、カーブと迷ったらスクリュー。
打者の頭の中の選択肢を、さらに増やすためのボールだ。
変化の度合いは、学生相手なら「分かっていても打てない」レベルを目指す必要がある。
小谷野監督は、学生がヒットを打つたびに、「なぜ打てたのか」を楓に向けて話させた。
「ははーん、なるほどねぇ……キミ、大学生なのになかなかやるね!」
「こら、調子にのるな!」
「ありがとうございます! 4年の石原です! 立花さん、あとでサインください!」
「おーこの太平洋大の元女子エースに任せろ任せろ。」
「お前らも調子にのるんじゃない!」
戸高との掛け合いで学生たちに笑いが起きるのがいつもの流れになっていた。
しかし、小谷野監督からこの練習方法が提案された時、戸高は一度この練習方法については異議を唱えていた。
たしかに、プロの試合であそこまで打ち込まれたあとに、学生にもここまで打たれたら、普通イップスにでもなりそうなものだ。
だが、楓がどんな苦境からも這い上がってきたのを、小谷野監督は一番近くで見てきた。
「相棒の君が信じなくてどうするんだい。あの子は……楓さんはね、野球が本当に好きなんだよ。」
戸高も楓のボールを活かすために、そして自分も一緒に一軍で生き残るために、楓のピッチングを理解しようとしてきた。だが、付き合いの長さでは小谷野監督の方が上だ。そして、楓は小谷野監督の言う通り、この練習をいとも簡単に乗り越えてみせた。
◆◇◆◇◆
「よっしゃーーーーーー! いっちょあがりーーーーーーー!」
太平洋大学の4番打者のバットが、楓のスクリューに3回まわる。
登録抹消から13日が経過した頃、ようやく楓のスクリューは完成した。
「どうよ戸高くん、あと1日! ギリギリセーフ!」
すっかりいつもの調子を取り戻した楓に、呆れたような笑顔で答える戸高。
「今日だけは、まあ、いいか。」
そう独り言をつぶやくと、戸高も学生と戯れる楓たちの輪の中に入っていった。
その後、1日だけ簡単な調整を行って、戸高と楓に一軍召集がかかった。予定の期日通りだ。すでに5月下旬、新セットアッパーを失ったドルフィンズは、3位に返り咲くどころか5位に転落していた。
楓たちは、5月22日火曜日、湘南スタジアムでのロイヤルズ戦から合流することになった。
迎えたホワイトラン監督は、否が応でも帰ってきた楓たちに期待する。
「待っていたよ。予告通り、君たちを要所のワンポイントで使う。チームの状況は、順位表を見ての通りだ。頼んだよ。」
「もちろん──任せてください。ちゃんと決め球、増やしてきましたから。」
楓も力強く答える。
ただ、戸高には気がかりなことが1つあった。
試合が始まると、この日は打線が好調だった。
先発の斎藤武が3回表からロイヤルズ打線に捕まるが、点を取られては取り返す展開で、終始リードしたまま勝ち投手の権利を持って5回裏まで投げ切った。そこから神田、大嶋の継投で持ちこたえてきたが、8回表に昨年までセットアッパーを務めていたバワーズがついに捕まる。
◆試合経過
大阪 002 111 0 =5
湘南 102 210 0 =6
湘南の継投:斎藤武ー神田ー大嶋ーバワーズ
2アウト1・2塁からバワーズは痛恨の四球を出し、満塁になってしまう。
ブルペンの電話が鳴る。
「立花、いくぞ!」
河本投手コーチから声がかかる。
「くそっ、最悪のタイミングだ……!」
声に反応したのは、楓ではなく戸高だった。
湘南スタジアムに入ってから、楓の様子はどうもおかしかった。浮き足立っているようで、空元気のようで。戸高はいち早くそれに気づいていたが、その疑念はブルペンでボールを受けたときに確信に変わった。
ストライクゾーンにボールが来ないのだ。
これまで気丈に振る舞っていた楓も、1人の野球選手であり、人間だ。
あれだけ打たれた記憶が、同じ場所でフラッシュバックすることは十分に考えられる。
「あれ……おっかしいなあ。ごめん! もう1球!」
そういって同じボールを投げ続けてみるが、どうしてもストライクゾーンに来なかった。
すでにリリーフカーはスタンバイしている。
楓の顔はいくばくか青ざめているようにすら見えた。
もう、時間がない。
戸高は、意を決したように楓の元に歩み寄ると、左手のキャッチャーミットで楓の小さな顔をつかんだ。
「──っ!あにふるほよほははふん!」
その場にいた中で戸高にだけは、「何するのよ戸高くん!」としっかり聞き取れた。戸高はそのまま楓の目をじっとみると、
「もし打たれたら、俺がお前の負けを消してやる!」
ブルペンに静寂が流れる。
戸高はかまわず続ける。
「立花は、1人の打者しか対戦しない。打たれても、そのあと出てくるピッチャーは山内さんだ。山内さんは抑えるだろう。立花と違って、安定感があるからな!」
こんな剣幕の戸高を見るのは全員初めてだ。
その場にいた全員、あっけにとられて身動きが取れない。
「だったらとられても最大4点だ。次の回で満塁で俺に回って、俺がグランドスラムを打ったらまた逆転だ。俺は大学三冠王だからな! どうだすげーだろ! わかったか!」
あまりのキャラ違いに、あっけにとられる河本投手コーチや投手陣一同。リリーフカーのハンドルを握ったチアリーダーも口をあんぐりと開けて、声をかけるのを忘れている。
戸高は必死の演技をやってのけた恥ずかしさからなのか、顔を真っ赤にして鼻で大きく息をしている。
と、静寂を切り裂いたのは、甲高い笑い声だった。
笑い声の主は、他でもない楓だった。
ひとしきり笑うと、
「誰だよ?! ていうか女子の顔掴むとかサイテー!」
と戸高の肩をひっぱたいてツッコんだ。
そして、楓はふと何かに気づいて手元を見る。
「あ────震え、止まってる。」
場内にアナウンスがこだまする。
《ドルフィンズ、選手の交代をお知らせいたします。キャッチャー、谷口に変わりまして、戸高、背番号27。》
《ピッチャー、バワーズに変わりまして、立花。ピッチャー、立花。背番号、98。》
会場を包む、大きなどよめきと歓声。
ちなみに、前の回の打順からすると、次の回におそらく戸高の打順は回って来ないのだった。




