37 秘密特訓
タクシーに乗ると、戸高は運転手に「お願いします」とだけ告げた。
これから二軍のグラウンドに向かうのだろうか。
車窓に流れる景色は、ドルフィンズの練習場がある閑静な街並みを抜け、国道1号線に入る。二軍の練習場がある横須賀方面とは逆方向だ。
「戸高くん、この車って、どこに向かってるの?」
「立花の家。細かい住所は知らないから、球団職員の人にタクシーを手配してもらうときに伝えてもらった。」
なぜ自分の家に向かうのか。答えはすぐにわかった。
新人選手は原則として全員横須賀市内にあるドルフィンズ寮に入るのが通例だが、女子向けの施設がないため、女子選手のみは自宅からの通勤を許されていた。
「今日から2週間、ミニキャンプをやって新球種を習得する。家についたら2週間分の着替えとか用意しておいて。」
どうしてこのチームの人たちは、いつも突然なのか。
楓はその手法に慣れ始めている自分にも、なんとなく居心地のよさすら覚えてしまう自分にも、少し嫌気がさした。
「時間がないのはわかるけど、もう少し説明してほしかったよ……。」
「それは……ごめん。でも、俺自身も懸けてるんだ。このチャンスに。」
戸高は確かにいま「チャンス」と言った。
連続でリリーフに失敗した元セットアッパーと、鳴り物入りで入団し開幕一軍をつかんだものの、出番に恵まれない控え捕手。レギュラー争いという観点からすればむしろピンチに立たされている2人には、似つかわしくない言葉に感じる。
2人を乗せたタクシーは、三ツ沢のサッカースタジアムを横目に通り過ぎると、楓の地元である東神奈川付近へ。閑静な住宅街が広がる。最後にこの街から出かけたときは、まだ自分の活躍に心が躍っていた。
楓の案内で家族と暮らす実家の前にタクシーを停め、慌ててボストンバッグに新しい着替えや生活用品を詰める。楓も野球選手らしく、大学時代から合宿には慣れていたため、準備には30分とかからなかった。
そしてそのまま再び走り出したタクシーは、今度はJR横浜線沿いにひた走る。
見覚えのある景色が流れていくのを見た楓は、思わず戸高に問いかける。
「行先って、もしかして……」
「うん。太平洋大のグラウンド。合宿所の部屋もあけてもらった。」
「ちょっと待ってよ! 聞いてない!」
思わず楓は声を荒げた。
こんな状態で、大学野球部のグラウンドに行くの?
大学の後輩たちにあんなにおめでたい感じで送り出された後、テレビ中継でもニュースでも散々打たれまくってるところを流されて、今この姿をみんなの前にさらすの? 耐えられない。
「うん。言ってない。時間、なかったから。」
「戸高くん、ほんとこの間から何なの?! 私の意思も、気持ちも全部無視して……それで今度は大学野球部へ凱旋? 私に何か恨みでもあるの?!」
「違う。立花を……俺は立花を、もう一度返り咲かせたい。あの日のシンカーを……」
そこまでいうと、タクシーは太平洋大学の野球部グラウンド前についた。
見慣れた天然芝の外野に、きれいにならされて凹凸のない土の内野。何度見ても潤沢な資金のある私立大学らしい、いいグラウンドだ。
「行こう。」
さっさとタクシーを降りてボストンバッグを2人分持つと、先に歩いて行ってしまう戸高。それを楓は不服そうな顔をしながらも黙って後から追う。
「やあ、落ち込んでると思ったけど、元気そうだね。」
グラウンドで待っていたのは、太平洋大学・野球部の小谷野監督だった。
小柄な体型と大きく突き出した腹に、帽子からはみ出した白髪が無造作にハネた容姿は、楓の大学時と何も変わらなかった。今年で63歳になる小谷野監督は、その体型から野球のユニフォームがまったくといってよいほど似合わないが、それでも長年着てきたためか、妙な着慣れ感がある。
「監督!」
再会の喜びに駆け寄ろうとする楓を、戸高が遮る。
「すみません、突然のお願いで。」
「いやいや。六大学三冠王の戸高くんのお願いとあっては、私も断れんよ。」
楓のよく知る、いつも通りのゆったりとした穏やかな口調で話す姿は、かつて弱小だった太平洋大野球部を強豪校に押し上げた「鬼の小谷野」のイメージとはかけ離れている。とはいえ、その伝説は構成にも語り継がれており、大学野球界では陰でいつも恐れられている存在だったという。
小谷野監督は、大学野球で女子選手の活躍実績があまりなかったにもかかわらず、楓を1人の野球選手として扱ってくれた恩人だ。
決め球のシンカーを磨くことや、シンカーを活かすために持ち球の種類を増やすことを提案したのも小谷野監督だった。
「それで、さっそくなんですが……」
その小谷野監督にも、戸高は物怖じせずに話しかける。
「ああ、新しい変化球ね。」
どうやら、戸高と小谷野監督の間で、大方の話はついているようだった。
楓はせっかくの再会を喜ぶ思いとは裏腹な、1人だけ蚊帳の外に置かれたような疎外感も同時に感じていた。
小谷野監督はそれを察したのか、楓の方を向くと、楓だけに話しかけた。
「実はね、戸高くんとドルフィンズの方から連絡があってね。『カエデボール』の生みの親に、楓さんの新球種習得を手伝ってほしいと。」
懐かしい呼び方に、楓の心に温かな風が吹き込むような感覚になる。
小谷野監督は基本的に、選手を「くん」付け、「さん」付けで呼ぶ。きっかけは、大学時代は先輩の選手に立花姓がいたためだったのだが、「楓さん」と呼ばれることが嬉しかった。
ちなみに、「カエデボール」の名付け親も小谷野監督だ。周囲からの「クソダサい」という反応は当然だったが、楓は恩師のつけてくれたこの呼び方が好きだった。
「監督、私……」
「まあまあ、そう焦らないで。君の様子はテレビで見てよく知ってるよ。楓さんは、今苦労してるみたいだけど、いいピッチャーになったね。」
言葉に詰まる様子を見るや、まるで実の祖父のような温かい目で楓を見たあと、小谷野監督はふと戸高の方に顔を向けた。
「それに、いいキャッチャーにも恵まれた。楓さんの可能性に、誰より早く気付けるのは、やはりキャッチャーでないとね。さすが、創大の主将を務めるだけのことはある。」
「恐れ入ります。」
楓は、2人のやりとりを見ていると、こんな状態で合わせる顔がないと思っていた自分を恥ずかしくすら思った。
ホワイトラン監督と戸高、そして大学の小谷野監督まで、私の未来を一緒に見てくれている。今は、その期待にただ応えたいという思いに変わっていた。
「時間がない。急ごう。」
そういうと、戸高はブルペンに向かう。小谷野監督と楓もそれに続いた。
ブルペンに着くと、小谷野監督はさっそく楓に結論を話し始めた。
「楓さんのシンカーは、プロだとすぐにシンカーと分かってしまうようだね。」
「そうなんです。各チームとの対戦を一巡したあたりで、急に見極められて……」
「だから、もう1種類増やしてみよう。」
楓は小谷野監督の、結論から入る指導が好きだった。何事もシンプルに考えたい性格の楓にとって、必要最小限の結論と理由を述べて選手に説明をする小谷野監督とは、性格的にも相性が良かった。
「楓さんの持ち球はストレート以外に、カーブ、スライダー、シュート、カット、それとシンカーだったね。」
卒業した楓の持ち球も全部はっきり覚えていた。
「真っ直ぐとカット、シュートあたりは初動で見分けがつきにくいけど、カーブ、スライダー、それとシンカーは今のところ初動で見分けやすい。たとえシンカーが2種類あっても、曲がる方向は同じだから、結論は同じだね。」
淡々と、かつ論理的な小谷野監督の説明が続く。
「だが、ここに1つ球種が加わるだけで、打者の予測やためてきたノウハウは振出しに戻ることになる。」
少し黙ると、楓の目をじっと見つめて告げた。
「スクリューだ。」
なぜスクリューなのか。シンカーとスクリューを投げ分ける投手は少ない。
楓は、小谷野監督の次の言葉を、固唾を飲んで待つ。
「シンカーが最初ストレートに似た軌道なのに対して、スクリューは初動がカーブに似ている。しかし、落ちる方向はシンカーと同じ。さすがに選択肢がそこまで増えると、バッターは初動でどの変化球かわからない。」
説明はシンプルだったが、それは同時に「他の変化球と同じだけのクオリティのスクリューを2週間で習得せよ」ということを意味する。
小谷野監督はその不安を察したのか、
「大丈夫。これまでだって楓さんは私の言うことを身につけてきた。それに、今回は頼りになる相棒もいる。」
といって戸高の方を見る。
「もう1種類、スクリューを覚えるだけで、劇的に投球の幅が広がる……だったね?」
「はい、おっしゃる通りです。」
「戸高くん、もっと堂々としていいんだよ。このプランを考えたのは、君なんだから。」
戸高はそこまでプランを考えたうえで、プランの実行に最適な環境を考察し、そのうえで小谷野監督の了承も取り付けていたのだ。
しかもこの短期間で。
グラウンドの中でも外でも、すっかりプロ野球選手として一流の立ち振る舞いを身に着けつつある戸高を改めて感じ、楓は彼我の差にまたしても心が折れそうになる。
だが、もうやるしかない。
ここまでお膳立てされて、据え膳食わぬは女の恥だ。
その日から、期間限定の秘密特訓が始まった。
ドルフィンズが4位からAクラスへの返り咲きを再び狙う、5月中旬の出来事だった。




