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36 ワンポイント

 連続リリーフ失敗の翌日は移動日だった。

 ドルフィンズは遠征先である大阪から、本拠地の湘南へ戻る。


 インターネットが普及し新聞の発刊部数が急降下する今でも、新大阪駅のキオスクには毎朝スポーツ新聞が所狭しと並べられる。


《湘南の乙女、1死も取れず粉砕》

《ドルフィンズ連敗で4位転落──女子選手の限界か》


 見出しの1文字1文字が、楓の心を蝕む。

 帽子を目深にかぶりなおして足早に新幹線に乗り込んだ。


 帰りの新幹線で隣の席になった戸高とは、結局座席に座ってから一言も口をきいていない。昨日何か意味深な行動をしたかと思えば、今日は窓際の席に座ったきり、新幹線の中でノートPCを開いて一心不乱に何かを見ていた。モニターを覗き込む気にもなれなかったが、楓がそれほど興味を持つ理由もない。

 楓は顔にタオルをかけて上を向き、ふて寝を決め込んだのだった。


 目をさますと、もう小田原駅を過ぎていた。新横浜駅まではあとわずかだ。

 楓が今度は俯き加減の姿勢をとって、もう一度眠りに入ろうとすると、俯いた視線の先に革靴が映った。顔を上げると、ホワイトラン監督が楓を見下ろしていた。


「オフに悪いんだけど、着いたら一度一緒に監督室へ来てくれるかな。」


(ほら、やっぱりきた。)


 おそらく二軍行きの通告だろう。

 私だってわかってる。こんな状態のリリーフ投手を一軍のベンチに置いておけるほど、今のドルフィンズの台所事情は甘くはない。

 でも、まさかシーズン途中で解雇とか……そんなことは流石にないよね?


 ここ数日の出来事で混乱が重なり、楓自身も平静を保てなくなっていた。ありもしない考えが脳裏に浮かび、疑心暗鬼になる。

 楓は、


「わかりました。」


とだけ告げて、楓はホワイトラン監督とともに新幹線を降りる。新横浜駅から湘南スタジアムまではタクシーでほど近い。監督とともにタクシーに乗り込むと、余計なことをあまり考える暇もなくスタジアムへ着いた。


 監督室へ着くと、応接テーブルに楓と向かい合って座ったホワイトラン監督は、開口一番こう告げた。


「やはり右打者には君のボールは通用しないようだね。」


 立て続けに起こったショックな出来事にすっかり傷心していた楓は、この辛らつな言葉にも、もはや動揺しなくなっていた。

 押し黙ったままテーブルの板面を見つめる楓をよそに、ホワイトラン監督は言葉を続ける。


「左打者を混ぜたとしても、3人打者と対戦すると、どうもその日のボールとリードの傾向が読まれる。これだと1イニング持たないピッチャーということになってしまう。」


 何よりもこれまでのデータが示していた。

 データ野球が苦手な楓も、自分の成績くらい自分でもわかっている。

 返しようのない言葉の羅列に、じわりと目に涙が浮かぶ。うつむいているのも相まって、今にもこぼれそうなくらいに。


「だが……1人の打者とだけ対戦するならどうだ。」


 言葉の真意がよく分からずにいる楓。

 流れる静寂を気にせず、言葉は続く。


「しかも、それまでの捕手のリード傾向がまったく通用しないリードとセットなら?」


 思わず楓は顔を上げてホワイトラン監督の目を見る。

 顔を上げた拍子に、一粒の涙が目から零れ落ち、頬を伝う。


「立花楓のシンカーや変化球は、毎回初対戦のような感覚で打者を翻弄することになる。」

「それって、どういう……」


 絞り出すようなか細い声で楓は聞き返す。


「ワンポイントだ。」


 答えはあまりにシンプルだった。


「君をワンポイントで起用する。それも、戸高とセットで交代させて。」

「ワン…ポイント…」

「そう。ワンポイント。つまり、一番打たれてはいけない場面で、左打者1人を抑えるためだけに君を使う。君は、『一人一殺』のためだけに肩を作り、投げる。しかし――」


 そういうと、少し何かを憂慮したような表情を見せた。


「ワンポイントというのは、試合の要所ばかりでいつも投げるということだ。もちろん、試合の要所というのはよほどの大勝や大敗でない限り、毎日訪れる。だから、戸高から進言があったとき、私も一度は反対したんだけどね……」


 昨日の試合後、戸高が楓の球を受けたのはそれを確かめるためだったのだ。

 楓が打ち込まれ始める前に、楓の異変にいち早く気付いた戸高は、抜け出す糸口もいち早く見つけていた。自分自身の変化にも気づけなかった恥ずかしさや、それを何とかしようと人知れずもがいてくれていた戸高の想いを察して、胸が苦しくなる。


「だが、戸高の言う通り、君のボールを最大限に生かす方法はそれしかない。そして、ワンポイント起用なら、ある条件下で君のシンカーは絶対的なウイニング・ショットになる。」


 そしてホワイトラン監督は、声のトーンを少し落としてさらに付け加えた。


「問題は、君にその覚悟があるかということだ。」


 まさに心の底を見透かすような鋭く、強い視線が楓の瞳に刺さる。

 思わず一瞬言葉を失う楓。


「毎日、もしかすると週6試合、1人の打者を打ち取るためだけにアップをし、毎日そのプレッシャーを克服し続ける。決して楽な仕事ではない。もしかすると、クローザーより過酷かもしれない。クローザーは9回頭からならランナーがいない状態で投げれられるからね。しかし――」

「私が投げるときは、常にランナーがいる。」

「その通り。君が投げるときは、常にチームがピンチの時だ。ランナーも、おそらく大抵がスコアリング・ポジションにいるケースだろう。チームがピンチのときに、常に他人が出したランナーを背負い続ける覚悟は、君にあるかい?」


 考える余地はなかった。


「やります!」


 楓は二つ返事で力強く答えた。

 その言葉を待っていたとばかりに満足そうに頷くと、ホワイトラン監督はさらに言葉を付け加えた。


「では、その『ある条件』を整える必要がある。」


 そういえば、監督は「ある条件下で」と言っていた。


「君には、二軍に行ってもらう。」


 さっきから続く急展開に、まったく思考がついていかず、ただ息をのむことしかできない楓。


「ミッションは2つだ。ひとつは、要所のワンポイント起用に耐える投球術を身に着けること、そしてもうひとつは――」


 ホワイトラン監督の口角が少しだけ上がった。


「新球種の習得だ。」


 ホワイトラン監督から告げられた指示はこうだ。

 ワンポイント起用を1年間を通して行っても、打者にとって予想外の球を投げ続けられるように配球と投げ分けのバリエーションを増やしてくること、そして、大きなシンカー・カエデボールを活かすための新球種を開発してくること。


 それを、2週間で。


 楓が打ち込まれた結果リーグ4位に後退したドルフィンズにとって、投手継投の勝ちパターンを再構築することは急務だった。楓に与えられた期間は、二軍に降格された選手が最短で再登録できる10日という期間をわずかに上回る2週間。


(2週間……でも、なんとかしないと……。)


 たった1人で2週間の間に、シンカーを活かす新球種を開発するにはどうすればいいのか。楓の頭の中では早くも試行錯誤が始まっていた。もう時間はない。


「安心しなさい。1人で孤独に悩む必要はない。戸高と2人でやるんだから。」

「それって……」

「戸高も二軍に降格する。といっても、これは彼からのオファーなのだけどね。いいキャッチャー(あいぼう)を持ったね、君は。感謝しなさい。」


 ホワイトラン監督はそういうと、さっさと監督室を出て行ってしまった。

 まだ聞きたいことはたくさんあったのだが、楓は混乱する頭を整理するので精一杯だった。


――ガチャ


 そこへ入ってきたのは、他でもない戸高だった。


「立花、荷物はそのまま持ってくればいい。タクシー外に止めてあるから、行くぞ。」

「戸高くん、あの――」

「聞いてるだろ、2週間しかない。話は車の中で聞くから。」


 思考が追い付かないのは、ショックの連続だけではないのかもしれない。

 しかし、楓自身、プロで生き残るためにはこの流れに身をゆだねるしかないことは、誰よりも分かっていた。


 これだけの数の人たちが、私という投手が戦力として最大限活躍できる道を探してくれている。

 プロの世界は冷たいようで、実は温かい。


 その期待に応えることができれば、という条件付きの温かさではあるが。


やっとタイトル回収しました!

これからまだまだ続きます。

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