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34 夢の消費期限

 8回裏、1点差。ノーアウト1塁。

 1点差になったのは自分が打たれたホームランだし、1塁にいるのも自分が出したランナーだ。

 シンカーを見極められて、カットとシュートを打たれた。


 楓は状況がよく飲み込めぬまま、バッターボックスにフェニックスの代打の切り札小松を迎える。


 レフトスタンドのフェニックスファンは、1発出れば逆転の場面に沸き立っている。先ほどよりも一層大きなトランペットの音とファンの声援が、スタジアムを小刻みに揺らす。


「立花! バッター集中!」


 声に気づいて楓が視線の少し下を見ると、ショートの新川が声をかけてくれていた。楓が動揺しているのをいち早く察知したのだろう。さすがはキャプテン、こういう時にも頼りになる。

 楓は大きく息を吸って天を仰ぐ。そして息を吐くと、右打席に立つ代打の切り札・小松ともう一度向き合う。


(アウトコースに、ボールになる真っ直ぐ)


 これは完全に様子見から入れという指示だろう。楓の動揺に乗じて一塁ランナーを動かしてくるかもしれないし、初球からうちに来るかもしれない。定石通りの堅実なリードだ。

 楓はセットポジションから、まさに「様子見」のストレートを投じる。


 打者の小松は微動だにせず、悠々とこれを見送る。カウント1-0。

 やはり、何かおかしい。


 これまでなら、一瞬打者の体が動いてから見送るなどしていたはずだ。

 いまさらだが、楓のボールはプロの中では圧倒的に遅い。そのため、ストレートが140km/h超えが当たり前のプロ野球では、130km/hに満たないストレートを投げる投手は、かえって変化球との区別がつきにくいとされている。

 それゆえ、アウトコースへストレートを投げれば、スライダーやカットを意識してバッターの体は一瞬でも動くはずだった。

 しかし、今回はあっさりと見逃された。


 よくよく考えてみれば、アレンも松田も、楓の大きなシンカーを悠々と見送っていた。


(完全に、見極められてる?)


 理由は全く不可解だったが、結論だけは何となく見えてしまった。

 だとしたら……。


(ゾーンに投げられるところがない。谷口さん、どうしよう。)


 救いを求めるように谷口の方に目をやる。いつもならテンポよくサインを出す谷口は、しきりに小松の表情を見ていた。

 しばらくそれが続き、少し思案したあと、ようやく谷口からサインが出る。


(インコースに、ボールになるカット)


 やはり谷口も楓の異変に気付いており、ストライクゾーンで勝負しにくいと考えているようだった。


(球速が近いシュートかカットか、逆方向の変化と迷わせて、ボール球を引っかけさせたいってことだよね。わかった、やってみる。)


 谷口との意思疎通ができるようになった分、谷口の苦悩も伝わってしまうのが、楓は心苦しかった。この事態を何とか打開したい。

 楓は谷口の指示通りに、インコースにボール球を投じる。

 しかし、2人の工夫もむなしく、これも悠々と見送る小松。


 小松は、かつてオーシャンリーグの千葉マリナーズでは4番打者も務めたことがあるスラッガーだった。全盛期を過ぎてから戦力外通告を受けてフェニックスに入団した後、勝負強さを武器に代打の切り札として返り咲いた。

 小松にとっては、今日の仕事はこの1打席だけだ。結果にこだわるしかないのは、小松も同じだった。

 当然、無駄球に手を出すことなどできない。


 これでカウントは2-0だ。

 さすがにこれで四球を出して得点圏にランナーを進めたくない。


(アウトコースに、ストライクになる小さなシンカー)


 考えていたことは谷口も一緒だった。

 正直なところ、どの球種をどこに投げても危ない気がする。ならば、楓の一番得意なシンカーを、プルヒッターである小松の一番苦手なアウトローに投げるのが、確率論的には正しい。

 打者の予測を外しても反応されるのなら、読まれてでも苦手なコースに投げるのが最善の策だった。


 楓は、今日投げたボールの中で一番慎重にシンカーを投じた。

 ボールは谷口が構えた場所に向けて寸分たがわぬ変化をみせる。


 しかし、小松がフルスイングしたバットに当たったボールは、ライト方向に高く舞い上がる。


 ライトのボルトンが早々に追うのを諦めると、打球はライトスタンド上段にポトリと落ちた。これでスコアは3対4。楓の3失点で逆転を許してしまった。


 タイムがかかると、再び河本投手コーチがベンチから出てきて告げる。


「立花、おつかれ。」


 この日、楓にプロ初の1敗がついた。


「まあ、こんな日もある。次だ次!」


 試合後、谷口からは優しい口調で励まされた。逆転されてしまったため勝利が消えた先発の大久保健之も、


「いつもありがとな! こんなときもあるって!」


と声をかけてくれる。

 その優しさが逆に身に染みて、苦しくなる。


(次こそは、絶対に抑えなきゃ。)


 楓はそう誓うのだった。


◆試合結果

城南 000 100 030=4

湘南 001 200 000=3


◆◇◆◇◆


 しかし、楓は翌日も1点のリードを守れず、フェニックスに同点を許す。

 フェニックス3連戦最後のカードとなる翌々日は早々に敗戦が濃厚になったため、登板がなかった。少し休養することができた。

 が、移動日なしで臨んだ大阪ロイヤルズ3連戦の初戦も、8回裏に2点のリードを守れず3失点で降板する。

 3連続のリリーフ失敗で、もう楓には後がなかった。チームとファンの信頼を取り戻すには、次こそ抑えるしかない。


 汚名返上の機会は、早くも翌日にやってきた。

 8回裏、6対5で1点のリード。


(ビジターの笠井寺球場のマウンドで、この1点を守り切れば、きっと。)


 楓は決意も新たに、マウンドへ上がる。

 対するはロイヤルズの3番・細井だ。

 恵まれた身体能力から巧打も長打も打ち分け、さらに足もある。

 抑えないと厄介なことになる。

 それは楓も谷口も同じ考えだった。


 しかし、気持ちとは裏腹に、投げるボールも打者の反応も変わらなかった。

 楓は細井に同点ホームランを許すと、1アウトを取った後、2ランホームランを打たれ、6対8とまたしても逆転を許してしまう。


 連日の大逆転に、ライトスタンドから地鳴りのような歓声が聞こえる。

 ただでさえ地元の応援が強烈な大阪ロイヤルズのファンは、今シーズン最大の盛り上がりを見せていた。


――もう、打たれたくない。


 そのとき楓の心中を支配したのは、恐怖だった。


 どこへ投げても打たれる気がする。

 どこへ誘っても見極められる気がする。

 一体どうしたらいいの?


 救いを求めるように、この日も3塁ベンチを見る。

 ホワイトラン監督は腕組みをしたままこっちを見るだけだ。


 ライトスタンドのロイヤルズファンの声はますます大きくなる。

 流れ続ける、威圧感のあるチャンステーマ。

 ロイヤルズファンたちの怒号にも似た、「試合を決めろ!」の大合唱。


 どこか内野手から声がかけられたような気がするが、楓の耳には遠くにかすかに響くだけだった。


 その後も、楓の投げる誘い球はことごとく見極められ、ストライクゾーンに入れたボールは打たれ続けた。


「3番、センター、細井――」


 気づけば打者一巡、一気に7点を失っていた。


「もうダメだろ! 変えてやれよ!」

「おい監督何やってんだ!」


 ドルフィンズファンからも、怒りとも憐れみともとれる声が注がれる。


 苦しくて、つらくて、情けなくて、いまにも涙があふれそうだ。

 何が、女子セットアッパーだ。

 何が、カエデボールだ。

 何が、「若いからまだまだ大丈夫」だ。

 やっぱり女子選手なんて、女子高生がグラウンドでファンに手を振っていればよかったんだ。


 半ば自暴自棄になりかけたころ、遅すぎる救いの手が差し伸べられた。


「立花、交代だ。」


 ベンチから出てきた河本投手コーチがマウンドに近づき、苦しみからの解放を告げる。


「ドルフィンズ、選手の交代をお知らせいたします。ピッチャー、立花に代わりまして……」


 楓は、場内アナウンスが全部流れる前に、河本コーチにボールを渡すと、3塁ベンチ、そしてその奥のダグアウトに駆けこんだ。


◆試合結果

湘南 021 101 100=6

大阪 110 003 07X=12

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