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28 開幕前夜――危機感と共感と

オープン戦を迎えたドルフィンズは、良くも悪くも例年通りの6勝7敗、12球団中6位という順位でその日程を終えた。

オープン戦では中間位の順位で終え、シーズンが始まれば途端に敗戦を重ねて最下位街道を驀進(ばくしん)するというのが、毎年の恒例になっていた。


楓と戸高は二軍に帯同しながら練習を重ねてきたが、戸高は二軍で行う他球団との練習試合に出場していたものの、楓は結局二軍でも開幕までマウンドに立つことは一度もなかった。何度かブルペンで肩を作るように指示を受けたことがあり、心躍らせて投球練習をしたものの、結局ベンチから声がかかることなく開幕を迎えたのだ。


しかし、ふたを開けてみてば、楓も戸高も開幕一軍。

他球団の打者へ1球も投げずに一軍で開幕を迎える楓にとっては、大きな不安でしかなかった。


それもあって、楓はオープン戦の日程が終了して、開幕までの一時的なオフとなってからも、毎日のようにドルフィンズの練習場に通っていた。


そして迎えた開幕前夜。

今日もいつものように練習を終えた楓だが、どうしても落ち着かなかった。

まったく出場実績がない自分を開幕一軍に置いた監督に対しても、自分自身が本当にプロで通用するかということに対しても、不安が募っていた。


このまま帰っても眠れない気がした楓は、夕方から練習場の隅にある芝生に寝転がって、落ち着くまで過ごすことにした。

数時間が経っただろうか。あたりはすっかり日も暮れて、練習場に明かりもついていないため、あたりは事務所の光を除いて真っ暗になっていた。まだ肌寒いそよ風と、しんとした雰囲気が楓を包んでいた。


楓はふと目を閉じて思いを馳せた。


ドラフトで指名されず絶望した18歳の秋の夜。

野球が好きだという思いとだけ向き合うことにした19歳の春。

仲間たちと東都大学リーグ優勝を勝ち取った20歳の夏。

就職活動に焦る周囲から目をそらした21歳の冬。

そして、突然のドラフト指名を受けた22歳の秋。


(いろんなことがあったな……でも、頑張ってきて本当によかった。)


不安はあるが、こうしてプロ野球選手でいられる。

どこまで頑張れるかわからないけれど、やれるところまでやってみよう。

そうしたら、いつかドルフィンズの中軸メンバーのように、当たり前に試合に出られるようになるかもしれない。


――ビュンッ!


と、その期待と不安が入り混じる思いを、鋭い風切り音が切り裂いた。


「!!」


楓ははっとして音のした方向を見る。


暗闇の中に、大柄な男性の姿がぼんやりと浮かんでいる。

男性は、左打席に立ち、こちらに背を向けて無心にバットを振り続ける。


(誰だろう。こんな時間に。)


楓はそう思うよりも早くその陰へ向けて走り出していた。


近づくと、その背中に浮かぶ「25」。


今年からドルフィンズで4番を任された、田村翔一だった。


「ああ。」


普段からあまり感情を表に出さない田村は、楓の姿を認めるとまったく驚く様子なく声をかけた。


「田村さん……なんで……こんな時間に……」


走った直後の少し切れた息交じりに、楓が尋ねる。


「毎年、やってるんだよね。」


そういうと、田村はまた背を向けて素振りを再開した。


なぜ毎年やってるんだろう。

今年から4番打者になって、レギュラーだって揺るがないのに。

楓の頭の中に渦巻く疑問をよそに、バットを振り続ける田村。

なんだか手持無沙汰になってしまったものの、そのまま踵を返して帰るのも気まずくなってしまった楓は、なぜかその隣でシャドウピッチングをすることにした。


バットが風を切る音と、タオルが空気を断つ音が、グラウンドにこだまする。

かれこれ1時間が経過しただろうか。

少し上気した顔で、田村が楓に話しかけた。


「ちょっと、休憩するか?」


無人のグラウンドで1塁側のベンチに並んで腰掛けると、田村はグラウンドの方を見ながらおもむろにつぶやいた。


「なんで、こんなことしてるのかって顔してたな。」

「そりゃそうですよ。今年から4番の田村さんが、開幕前日に1人でグラウンドに来て、バット振ってて……」

「1人じゃないだろ。」

「そうですけど……いや、そうじゃなくて!」

「まあ、誰でも不思議には思うか。レギュラーになる前は、毎年帰りに職質されてたしな。」


田村はこの日初めて楓の方を見てそういうと、いたずらっぽく笑った。


(こんな表情もするのか。)


普段仏頂面でグラウンドに現れるイメージが強い田村の意外な表情を見て、少し楓は驚いた。


「毎年、やってるんだよ。」


またマウンドの方に目をやりながら、ぼそりと田村は話し始める。


「一軍に上がってから、毎年だ。開幕前日はどうも眠れなくてね。」


田村といえば、神奈川の名門湘南高校の4番で、甲子園でも大活躍した選手だ。鳴り物入りで地元球団のドルフィンズに入団し、将来の4番を嘱望された、いわば「約束されたスター選手」のようなものだ。

そんな田村が、なぜ。

意外に思う楓を尻目に、田村は視線を変えずに話し続ける。


「一軍になっても、レギュラーになっても、4番になってもやっぱりだ。毎年思う。

 『今年は、ホームランどころか1本のヒットも打てないんじゃないか。』って。

 そう思ったら、毎年いてもたってもいられなくてね。気が付いたら、こうしてここでバットを振ってる。」

「毎年、ですか?」

「そう、毎年。で、毎年やっても、納得のいくフォームなんて生まれない。でもこうやって、なんとか結果を出して、また開幕前にバット振って……その繰り返し。」


田村は自嘲気味に笑うと、天を仰いだ。


「笑っちゃうだろ? そんで、まだまだこれから力をつけないとってときに、太田さんのFA。世間は生え抜きの若い4番打者が出たって大騒ぎ。こっちのプレッシャーなんて知らずにさ。」

「でも、田村さんの去年の成績は……」

「ホームラン36本、太田さんに次いでリーグ2位。だろ? それは太田さんの前の3番を打ってたから、ピッチャーは勝負してくれるからだよ。でも、今年からは違う。俺が4番になったら、もう簡単な勝負はしてくれない。だけど、俺にできることは、毎年のようにこうやってバットを振って不安を打ち消すことだけ。」


そして、もう一度楓の方に顔を向けると、田村は少し照れながら苦笑して言う。


「今日のことは、内緒にしといてくれな。ずっと1人でバレずにやってきたのに、まさか新人の立花にバレるとはなあ……特に谷口さん! あの人にバレたら飲み会で何言われるかわかったもんじゃねえ!」

「あー……谷口さんは確かにいじってきそう!」


そういって、2人は今日初めて声を出して笑った。


その後、楓と田村はクールダウンを兼ねてキャッチボールをしながら、話をつづけた。


田村がプロ入りした年、期待が高すぎてまったく打てなかったどころか、常に腹を下していたこと。

酒が飲めないのに、プロ野球選手なら行くべきと女子アナとの合コンに連れていかれて、緊張のあまり飲みすぎて気絶したこと。

FAする直前、太田が田村を呼び出して、「お前は俺の後継者だからな」と言った無責任さに腹を立ていること。

普段は感情を表に出すタイプではないが、タイタンズ戦でホームランを打って、思い切り目の前でガッツポーズをしてやろうと思っていること。


「今年は、少し違う気がするんだ。」


キャッチボールを終えると、最後のボールを投げた後、田村は決意したような少し低い声で言う。


「戸高や立花が入っただけじゃない。ホワイトラン監督が、腑抜けていたこのチームのメンタルを1年かけて叩き直してくれた。みんなに『勝ちたい』って思いがよみがえってきた。だから……今年は、本気で日本一を目指すんだ。」

「本気で、日本一……」

「だから立花、頼むよな。去年まで、打っても打っても点を取られるか、押さえてるときに限って打てないか。そんなことばっかだった。けど、今年は俺、勝てる試合でちゃんと打ってくから。」


そういうと、田村は荷物をまとめて足早に車に乗って帰っていった。

年頃の女子1人を遅い時間にグラウンドに残して帰ってしまうあたり、やはりこの業界の女慣れのなさに呆れつつ、楓は電車で家路についた。


3月28日、木曜日。

プロ野球開幕を前日に控えた夜の出来事だった。


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