27 約束
キャンプ最終日、楓や戸高が所属するドルフィンズ二軍と一軍との練習試合。
5回裏、スコアは1-8で一軍のリード。
マウンド上の楓は3点を失い、なおも2死2・3塁のピンチで、打席に2番打者の代打・江川希を迎えていた。
これ以上、点を失うわけにはいかない楓。
ピンチを自分のリードで脱し、首脳陣にアピールしたい戸高。
しして、あの日の三振のリベンジをして一人の「野球選手」になりたい希。
3人の思惑がマウンドからホームベースの18.44メートルの間で交錯していた。
楓は希から三振を奪ったあの日のことを思い出す。
カーブ、スライダー、そしてシンカーで三球三振に打ち取った。
文句なしで二人の対戦成績は楓の1勝0敗だ。
だが、バッターボックスを見つめる楓に慢心はなかった。
右打席の希から見える光景には、あの日と同じ、アイドルとはかけ離れた鋭い目をした希の姿が目の前にあったからだ。
戸高のサインが出る。
(インコースに、ストライクを取る小さなシンカー)
このころには、もう楓は戸高のリードをかなり信用していた。
珍しくそのサインの意図は深いところまで読み取れなかったが、言うとおりに投げてみることにした。
楓が投じたシンカーは、右打者である希のひざ元で小さく変化したが、いつもより変化が小さい。
(やば! ちょっと甘く入った!)
前回の対戦でもファウルになったものの、変化球を2回痛打された楓は、今度こそヒットを確信した。
しかし次の瞬間、希は動かしかけたバットを止めてボールを見送った。
判定はストライク。カウント0-1。
あの日の記憶からすると、今のボールは三遊間あたりを抜かれていたような気がしていた。
(打てると思ってから見送った? なぜ?)
楓の頭の中をぐるぐると思考が回るが、その暇も与えず次のサインが出る。
(インコースへ、ボールになる大きなシンカー)
さっき見送ったのに、同じ変化球のボール球?
戸高のリードは、対希に至っては完全に不可解なものだったが、自分が背負っているのは自分でこさえたランナーだ。楓はおとなしく従うことにした。
今度は打つそぶりもなくボールを見送る希。カウント1-1。
(まったく打ち気がなかった。見極められた?)
楓の思考はますます混乱した。
しかし、マスクの向こうで戸高が少しうなずいたような気がした。
何か考えがあるのだろう。その意図を推し量りながら楓はサインを覗き込む。
(インコースへ、ストライクを取る小さなシンカー)
え、また? さすがに打たれるって。
この人も女子選手を舐めてるクチ? だったら正直許せないんですけど。
不満な感情を押し殺して首を振る。
(インコースへ、ストライクを取る小さなシンカー)
まったく同じサインが出た。
あのー、人の話聞いてます? もういい、打たれたら人前で抗議してやる。
半ば自棄になって放ったボールは、1球目とまったく同じ軌道で、まったく動かぬ戸高のミットへ向かう。
審判の右手が上がる。カウント1-2。
また見逃した……。
こうなってくるともう楓には分からない。
おとなしく戸高のリードに従うしかない。
(アウトコースへ、ストライクになる大きなシンカー)
ええ……サインの出し間違い? じゃないよねえ、戸高くん。
そもそも、大きなシンカーは空振りを取るためのボールで、しかも縦の変化だ。
ストライクゾーンに入れるなど、練習でもあまり投げるコースではなかった。
実際にミットが構えられたところにボールを投げる自信はないものの、もうここまできたらやるしかない。
楓は右打者のアウトコース高めに大きく外れるところあたりを狙って、決め球・カエデボールを投じた。
なんとか思惑通り、ストライクゾーンへ向けて変化を始めるボール。
しかし、やはり投げたことのないコースをいきなり実戦で試すものではなかった。
ボールはアウトコース真ん中より、しかもベルト線あたりに向けて変化していったのだ。
(やっば!!)
投げた後、思わず眉をしかめる楓。
しかし、希のバットは一瞬出掛かると、振り切るかどうか明らかに躊躇したような力ないスイングで、ボールの下をかすめていった。
ボールが戸高のミットに収まる。
場内の大歓声で、楓は自分が3アウトをようやく取ったことを認識した。
今回りに起こっていることがよくわからないまま、かけられる「ナイスピー!」の声に愛想笑いをしつつマウンドから降りる。
「なんで全部シンカーなの?! 危なすぎでしょ!」
遅れてベンチに戻った戸高に、間髪入れず楓は詰め寄った。
一瞬たじろいだ様子で、言葉に詰まる戸高。
それにひるまずさらにぐいっと顔を近づけて戸高に迫る楓。
「まさか希が女子選手だから舐めたリードしたってわけ?! だったら絶対許さない!」
「い、いや……」
さらに言葉に詰まる様子の戸高を見て、周りの選手もなんだなんだという雰囲気になる。
この回でマウンドを降りることが決まっていた楓は、次の回に打順の回ってこない戸高を1アウトの間だけという約束でダグアウトに呼び出して、もう一度、今度は平静を装って訪ねた。
「江川は……縦の変化にすげー弱いから……」
「……どういうこと?」
「選手のデータ、全部分析したって言ったろ? そしたら、縦の変化にすごく弱い。しかも、カーブは何度か打ってるけど、シンカーは真ん中に入っても打ったことないっぽかった。」
「全部って、希のデータも全部見たの……?」
意外な返答に、楓は自分が怒りの様子で戸高にすごんだことを後悔しつつ、努めて穏やかな口調で尋ねる。
「これまでの打席を全部見たんだ。映像はあんまりなかったから、スコアシートベースだけど。」
「全部って……全部?」
「うん。」
「プロ入りしてから?」
「そう。」
「あの練習の合間に?」
「夜暇だし……。」
(野球バカだ。目の前に野球バカがいる。)
楓は自分のことを棚に上げて、戸高がさらりとやってのけた偉業にあっけにとられていた。
あの不可解なリードには、明確な理由があった。それも、スコアラーの力を借りずに、自分一人の力で割り出した理由が。
(もしかしたら、私はとんでもない怪物とバッテリーを組ませてもらっているのかもしれない。)
プロ選手のレベルの高さに驚くことは多かったが、よく考えたら同期もプロ選手なのだ。それも、戸高は7球団競合の1位指名。楓はその理由を改めて確信するのだった。
最終的に練習試合は、3-11で一軍チームが大勝を収めた。
楓は1回を投げて3失点。お世辞にもいい成果とは言えない。
戸高も途中出場で捕手としてはさらに3失点を重ね、2打席無安打だった。
希は、そのあと2回打席が回り、1安打を放っていた。
楓自身は、今回の投球に満足はしていないものの、多くの課題が見えたことで収穫を感じていた。
おそらく開幕も二軍スタートだろうが、こうして課題を潰していけばいつか一軍のマウンドへ上れるかもしれない。それを感じることができただけでも十分だった。
◆◇◆◇◆
そして、本拠地である神奈川県へ戻ると、オープン戦を経て、開幕前に一軍メンバーの発表となった。
結局、楓も戸高もオープン戦期間中、一度も一軍の試合に出ることはなかった。
まだまだ自分に課題が多いことを認識している以上、納得もしていた。
パイプ椅子が並べられた大きな会議室にすべての支配下選手が呼び出され、手元に一軍メンバーと二軍メンバーの振り分け表が渡される。
一緒に練習していた二軍メンバーで、もしかすると一軍スタートの同期がいるかもしれない。
特にグスマンくんあたりは、オープン戦に出て結構三振とってたみたいだし。
上からメンバー表を見ていく。
【一軍・投手】
98 立花 楓
【一軍・捕手】
27 戸高 一平
なんと、開幕一軍メンバーに、楓と戸高の名前があった。
隣の席に座っていた戸高と思わず無言で顔を見合わせ、もう一度手元の紙を見る。
間違いない。名前がある。
逆に、二軍メンバーの名前の中に、希の名前があった。
あの日の対戦の結果からだろうか。
アイドル的な広報の仕事は誰がするのだろうか。
分からないことだらけだ。
事態に混乱しつつも、楓は離れた席に座る希の顔を見られずにいた。
そのまま席に座ったまま、うつむいてほとぼりが冷めるのを待ちたい気分だった。
「開幕一軍、おめでとう!」
そこへかけられた透き通った声に、肩をびくっと動かす楓。
遠慮がちに見上げると、やはりそこには希の姿があった。
「私はまだまだパワーもテクニックも足りないからね。二軍でばっちり鍛えてもらうつもり。いつか楓を援護できるバッターになって帰ってくるから、待っててよね!」
人生初の開幕二軍となった5年目の選手とは思えぬほど晴れやかな顔でそう告げると、希は足早に会議室を出ていった。
一軍と二軍は、球場もスケジュールが異なるため、まったく生活圏が違う。
このまま別れてしまえば、希とはしばらく話せない。
どうしてもこのモヤモヤを晴らしておきたくて、楓は球団事務所の外で希の「出待ち」をすることにした。
楓の姿を認めた希は、ちらりと目をやって、
「ここじゃなんだから、中で話そうか。」
という。
視線の先には、メンバー発表を受けてインタビューを取りたがるマスコミの姿があった。
「実は、志願して二軍スタートにしてもらったんだ。」
人気のない食堂で、開口一番希はこう告げた。
「え……?」
戸惑う楓の様子を見て、予想通りというように表情を変えずに、穏やかな口調で希は続ける。
「これまで、私は広報の仕事をしなくちゃいけなかったから、絶対一軍に帯同させられてた。本来なら実力が足りないなら、二軍でしっかり練習して、実力と実戦経験を積んで、一軍に通用するように育成してもらえる。でも女子選手の私はそうはいかなかった。」
遠くを見つめながら話を続ける希。
「だけど、楓に出会って、私も『プロ野球選手』でいたいって思った。消化試合じゃなくて、いつかCSみたいな、しびれるような場面で打席に立ちたい。だって、プロって、そういうことじゃない? だから……」
そういうと、右手を楓に向けて差し出す。
「その日まで約束! 私が、いつか必ず楓を勝利投手にするようなヒットを打ってみせる! そうなれるように、二軍でしっかり頑張ってくるつもり。」
「うん……!」
握った楓の手を、希は一層強く握り返してきた。
その力は、出会ったあの日に不自然に感じた握りの強さよりも、さらに強くなっていた。
だが、今の楓には不自然さは残っていなかった。
その握力の強さは、希がキャンプでしてきた素振りの回数によるものだと分かっていたから。




