26 最初の試練
アウトコースのスライダーで、新川に対してあの日のリベンジを果たした楓。
次に打席に立つのは、ドルフィンズの新たな4番打者・田村翔一だ。
オフシーズンにこれまで3年間にわたって4番打者を務めてきた太田一誠が、FAで球界の盟主・タイタンズに移籍した。
それによって、「太田の後継者」と囁かれてきた田村が新たな4番打者となった。
24歳とまだ若い田村にとって、今年は重圧のかかるシーズンであるはずだ。
(やっぱり一軍の4番ともなると、すごい威圧感……。)
マウンド上の楓にも田村の緊張感が伝わっていたが、それ以上に太田の後継者と言われてきた田村の放つ威圧感に圧倒される。
その威圧感に気圧されたは、どうやらマスクをかぶる徳岡も同じようだった。
(アウトローへ、ボールになるストレート)
初球のサインは明らかに、「様子見」のものだった。
この威圧感に、ましてや初対戦の打者。まずは出方を見るのは悪い手ではない。
楓はアウトローに明らかにボールとわかるストレートを放る。
田村は微動だにせずにそれを見送った。
(しまった……!)
審判がボールのコールをした後、楓は遅すぎる後悔をすることになった。
新たに4番に抜擢された若い選手とはいえ、プロの世界で実績を重ねてきた田村を警戒する投手は多い。初球の「様子見」には完全に慣れているはずである。
(結局、ボールカウント1つ損しただけじゃん……)
楓にしても、徳岡にしても、完全に雰囲気に飲まれてしまったのだ。
ベテラン捕手の徳岡をしても、初球の勝負をあえて避けさせてしまう。それだけの貫禄が若干24歳の田村にはあったということだ。
一度勝負を避けてしまうと、ペースは完全に田村のものだった。
2球目、インコースへカットボール──見逃してボール 2-0
3球目、アウトコースへスライダー──見逃してボール 3-0
4球目、真ん中インコース寄りにストレート──ストライク 3-1
雰囲気に飲まれた楓は、あっという間にカウントを悪くした。
いつもの「くさいところを攻める」という投球もできない。
(下手に勝負を避けるわけにもいかない。歩かせたくもない。)
楓にとっても結果を出すことが求められるこのマウンド。コントロールをアピールするためにも、安易に歩かせるわけにはいかなかった。
(インローへ、ストライクになる小さなシンカー)
もう、楓と徳岡の選択肢は他になかった。
田村クラスの打者を打ち取るのに、自信のある変化球を取っておきたい。
勝負球の大きなシンカーを今は使わず、ストライクをもう一つ取る必要がある。
しかし、田村の威圧感に気圧され、他の球種を投げても打たれる気しかしない。
ならば、シンカーの変化の投げ分けで打ち損じてもらうしかない。
楓の投じたボールは、インコースギリギリに入る変化で田村の膝下を襲う。
それに対して田村は、初動で一瞬直球系の球を待っていたようなスイングを始める。
しかし、次の瞬間、前に出した右ひざを柔らかく折り曲げてクッションさせると、膝が地面につくくらいの低い姿勢から、変化し終わったシンカーをすくい上げるようなスイングをした。
決して力の入ったスイングではないのはフォームから見て取れたが、明らかにバットの芯を食った音がした。
軽々とバットを振った田村の打球は、ライト方向へぐんぐんと伸び、紅白戦の行われてた球場のスタンドの向こうにある外野の芝生ゾーンもさらにこえ、その奥の場外へ消えていった。
(打たれた──読まれていたわけでもないのに、いとも簡単に──)
呆然と打球が消えた方向を見つめる楓。
楓の精神は、たった1人の打者との対戦で完全に舞い上がってしまっていた。
野球は特にメンタル面の影響が大きなスポーツだ。マウンド上で投手の精神が一度崩れると、立て直すのは難しい。
これでスコアは1対6で一軍が変わらずリードだ。
これまでのキャンプでの練習と自分のシンカーを粉砕された楓は、続く新外国人ボルトンにも初球に投げた外のストレートを、センター前に運ばれる。
そのあとも、
6番ファースト ホセ・フェルナンデス 右中間2塁打 1死2塁
7番センター 金村虎之助 センターオーバー2塁打 得点1-7 1死2塁
8番キャッチャー 谷口繁 レフト前ヒット 得点1-8 1死1塁
9番DH 吉村 雄策 左中間2塁打 1死2・3塁
と簡単に打たれ続けた。
1回3失点。まだ1アウトしか取れていない。
「やっぱり女子選手じゃこんなものか」という落胆の様子がスタンドからも伺える。
嫌だ。
こんなところで終わりたくない。
まだ試せることはたくさんあるはず。
でも、何を投げても打たれる。
一体どうしたらいいんだろう?
1軍昇格はまだまだ先の夢なの?
そこへ、2軍監督の代田がタイムをかけて、内野陣が集まる。
ああ、これで交代か……と思ったのは、マウンド上の楓だけでなく、守備陣も、スタンドも、そしてマスコミもだろう。
場内に交代選手が告げられる。
「ドルフィンズ2軍、選手のお交代をお知らせ致します。キャッチャー、徳岡に変わりまして、戸高。8番、キャッチャー、戸高。背番号27。」
マウンド上で唖然として口が半開きのまま、スコアボードの表示を見る楓。
完全に流れを1軍チームに渡してしまった投手をマウンドに残して、捕手を変えるのか……。
シーズン中なら、実況スレッドに「クソ采配」の文字が踊りそうな選手交代劇に、さらに状況が飲み込めなくなる。
マウンドの円陣の中に、プロテクターを慌ててつけた戸高が加わる。
「次は1番からです。切り替えて2アウトとりましょう。」
内野陣に声をかける。
それを受けて内野守備位置へ選手たちが戻るのを確認すると、戸高はまだ守備位置につかず、楓に対して声をかけた。
「2アウト、取るぞ。」
いつもなら、特にアドバイスも告げずに守備につく戸高にツッコミをいれたくなるところだが、楓には、戸高がかけた言葉が一番のアドバイスになることがわかっていた。
「諦めるな」ということだ。
普通投手が打たれているところで捕手を変えるだけで流れが止まることはほとんどない。投手を変えるのが定石だ。
しかし、戸高は何一つ諦めていない。
ここで自分が弱気になるわけにはいかない。
場内アナウンスが、次の打者を告げる。
「1番、セカンド、内田。背番号0。」
奇しくも以前ヒットを打たれた内田との再戦をこのタイミングで迎える。
もう以前のようには打たれたくない。
内田には以前対戦した時に、外のストレートでレフト戦2塁打を打たれている。
その時に谷口から学んだ、「ボールカウントをフルに使う」という投球術。
その投球術を、自主トレとキャンプで戸高と磨いてきた。いまこそ原点に立ち戻って、それを試すときだ。
戸高からサインが出る。
(インローに、大きなシンカー)
いきなり決め球を要求した戸高の意図を、楓はすべて受け取った。
「だよね、私もそうだと思ってた。」
マウンド上で小さく声に出しつぶやくと、セットポジションに入る。
1死2・3塁。続く打者は2番以降。
これ以上の失点を避けるためには、外野フライも、本塁突入を許すゴロも許されない。
三振か早いゴロ、または内野フライでアウトを取る必要がある。
楓はこの春までに磨いてきた渾身のシンカーを投げた。
内田のバットが空を切る。カウント0-1。
内田に考える暇を与えぬよう、すかさず戸高が次のサインを出した。
(真ん中低めに、カットボール)
楓の頭にも同じ考えがあった。
この場面で、打者が最もしてはいけないことは三振だ。そして内田は打者としてはパワーのある方ではない。つまり、2ストライクに追い込まれると思い切りバットを振れず犠牲フライが打てる確率が格段に低くなるうえ、スクイズもしにくくなる。
((次のボールをゾーンに入れれば、うちに来る))
2人の心の声がユニゾンした瞬間だった。
楓が投球モーションに入る前、戸高は「低く、低く」というゼスチャーをした。
「高めに行ったら打たれるから低めに投げろ」という意味ではない。
「一見ゾーンに入るようだけど、ギリギリ外れてもいいからくさい球を投げろ」の合図だ。
(まったく、言われなくてもわかってるよ、うるさいな)
心中で愚痴をこぼしながらいら立ちを指先にぶつけたカットボールは、いつもよりも少し指に深くかかっていた。
直球よりもやや遅いボールが、内田の手元で変化してボールゾーンに流れる。
真ん中より少し外側の低めに外れたカットボールについ手を出してしまった内田の打球は、地を這うようなショートゴロになった。ボールが一塁に送られるが、ランナーは動けず。
これで2死2・3塁だ。
楓が全力疾走で1塁キャンバスを駆け抜けた内田を見ると、「やっちまったー」とその口が動くのがわかった。
戸高は「してやったり」の顔でマウンド上の楓を見る。
そう、これは楓だけでなく、戸高にとっても一軍をかけたリードなのだ。
さあ、あと1アウト。楓はマウンドのうえで深呼吸して、おのずと気合を入れなおす。
ここで一軍監督のホワイトランがベンチから出てきた。
(代走? 2アウトになったあとから?)
意図を計りかねる楓に説明するように、場内アナウンスが告げられる。
「一軍チーム、2番、宮川に代わりまして、江川。バッター、江川。背番号77。」
場内が一瞬小さくどよめいた後、ベンチから現れた華奢な選手を確認すると、大きな歓声に変わる。
今年から希は登録名を「希」から苗字の「江川」に変えていたため、場内の観客はその名を希のそれだと気づかなかったのだ。
登録名を変えたのには訳がある。
プロ野球界には、女子選手は下の名前で登録するという慣例があった。誰が決めたというわけではないが、「アイドル的に売り出そう」と考えれば誰もがそうするだろう。
しかし、ドルフィンズは楓を戦力として指名したことを宣言するかのように、楓の登録名を苗字の「立花」にした。
それを聞いて希も「自分もプロ野球選手の一人だ」と主張し、登録名を苗字に変えるようフロントに迫ったのだ。はじめは渋っていた球団側も、最後は奏子の「女子だけ下の名前でしか登録できないという慣行だとすれば、それが定着すると人格権の侵害になる」とアメリカ仕込みの仕事観で鶴の一声を唱え、結果的に希の主張に従う形になった。
現代プロ野球にとって、女子選手同士の対決はファンの期待する場面の一つだ。
実際、消化試合などでは意図的に女子選手の先発による投げ合いや、投手と打者による対決が半ば意図的に組まれていた。
しかも、女子選手は通常チームに1人しか所属しないプロ野球では珍しい。キャンプを見に来ているファンたちにとっては、オープン戦前の練習試合で女子対決を見られると盛り上がったのだ。
しかし、戸高はこの采配に不満を覚えた。
戦力として楓を取ったといいながら、興行野球のご都合主義だと考えたからだ。
一度立ち上がって指を2本立て、「2アウト!」とナインに告げると、一度楓の方に向けて拳を差し出し、守備位置に戻っていった。
「絶対に打ち取るぞ」というメッセージに、気合が入る。
楓自身は希との対決が興行目的か否かなど気になってはいなかったが、あと1つアウトを取ることに一緒に執着してくれる戸高の様子が純粋に嬉しかった。




