22 壁
自主トレ2日目。
1月の肌寒さが身に染みる早朝7時、楓がいつも通り開始時間の2時間前にグラウンドへ行くと、そこには先客がいた。
大柄でがっしりとした体形のそばには、ドラムバッグとプロテクター類が置かれている。
昨日の自主トレで谷口からこんこんと説教をされていた戸高が、誰よりも早くグラウンドに来ていたのだ。
戸高はまだ楓の存在に気づくこともなく、背を向けたまま一塁側のベンチ前でバットを振っている。
「おはよう! 戸高くん!」
後ろから声をかけると、戸高はさして驚く様子も見せずに楓の方に向き直る。
「おはよう。」
初めて目を見て話をした。
骨ばった堀の深い顔の骨格から除く大きな瞳は、彼の意志の強さを表すかのような光を宿していた。
三冠王で、実は頭脳明晰、おまけに男前。
大学時代は試合後に戸高の出待ちをする通称「戸高ギャル」がいたというが、それも納得がいく気がする。
戸高は挨拶を楓と交わしたきり、微動だにせずに楓を見下ろしている。
「なに?」
「その……」
目をまったくそらさぬまま、数秒沈黙した後、意を決したように戸高は言う。
「聞きたいことがある。」
まるで愛の告白でも始めるかのような覚悟の表情だ。
だが、恋愛関係にはまったくと言っていいほど無頓着な楓は、ただただ戸高が何を言いたいのか疑問の表情で見つめる。
「俺のリードの……何がまずかったのか、教えてほしい。」
驚いた。
六大学野球の至宝・戸高一平が、女子選手に教えを乞うたのである。
しかし、その理由よりも先に確かめたいことが楓にはあった。
「いいよ。でも、その前に私も戸高くんに聞きたいことがある。」
いぶかしげな表情を浮かべる戸高をよそに、楓は言葉を続ける。
「無視してたよね! 私のこと。どうして? 私が女子選手だから? 戸高くんも、『女はグランドに立つな』派の人間ってこと?」
矢継ぎ早に浴びせられる言葉に、まったく表情を変えないまま沈黙した後、戸高は答えた。
「違う。」
当然、納得がいかない。
「違うじゃわからない。話しかけても目も合わせない。それに、私の時だけ投げる前のやりとりがカンタンだった。明らかに態度が違うよね?」
「それは……」
明らかに答えに窮しているが、楓は真実を聞くまで引き下がるつもりはなかった。
長い沈黙が流れる。
その沈黙は、楓以上に戸高にとっては長いものだったろう。
「力のないボールでは、プロの打者は抑えられないと思ってた。」
また少し沈黙した後、今度は淡々と話し始める。
「でも、昨日君から三振して分かった。ピッチャーの投げる球には、打てる球と打てない球しかないこと。それから、同じピッチャーが投げる球でも、打てる球にも打てない球にもなるんだってこと。」
「ふうん……じゃあ、私を無視したり目を合わせなかったのは?」
「それは……女子と話すのは、苦手なんだ……中高男子校だったから……」
「はあ?!」
あまりの予想外の答えに楓は拍子抜けした。
「じゃ、じゃああれはどうなのよ? 『戸高ギャル』! ちゃんと対応してあげてたんでしょ?」
「あれは監督命令で、それも練習みたいなものだからやれって。それに、会話しないでボールや色紙にサインしてれば終わるから。」
あきれた。毎試合来てくれていたファンの子たちと、4年間一言も口を利かなかったのか。
もしかすると、それでも4年間通い詰めた戸高ギャルたちのメンタルは、どの選手よりも強いかもしれない。
「でも……昨日谷口さんと話して、分かった。立花さんが、谷口さんのリードならいい球を放れるってこと。プロで生き残るには、どんなピッチャーの長所も引き出せるキャッチャーにならなきゃいけないってこと。」
「もうチームメイトなんだし、『楓』でいいよ。」
「それは無理!!!!!」
「なんだ、戸高くん、私の目見て話せるじゃない。」
楓に対して初めて張った声で話した言葉が「それは無理」だったことは残念だが、これでちゃんと目を見て話せた。
「だから……立花さんの球もちゃんと知っておきたい。それで、谷口さんに聞いたら、早くグラウンドに来れば会えるって言うから。」
「なるほどね。」
同い年なのだが、楓は戸高と話しているとき、なんだか武骨な高校球児と話しているような感覚になる。それだけ野球だけに打ち込んできたということだろうか。そういえば、楓が所属していた帝都大学リーグと異なり、六大学野球にはほとんど女子選手はいなかった。
それから、ウォームアップをした後、キャッチボール、マウンドでの投球練習と二人で2時間みっちり行った。
その間、ほとんど戸高は雑談めいた話をしなかったものの、投球練習中は「次! カーブ!」などと大きな声で目を見ながら楓に話すようになった。
これでようやく普通のバッテリーらしくなったと言っていいだろう。直接ボールを手渡しするときに、戸高の手が毎回見てわかるほど震えていること以外は。
そして始まった今日の自主トレも、昨日と同じメニューで行われ、最後はフリーバッティングだった。
昨日と一つだけ違うのは、練習開始時に戸高が投手一人一人と徹底的に投球について話を聞いていたことだ。
勝負球は何か、得意なコースで撃たれた経験、カウントを取りに行くボールは何か、ボール先行時の心理状況……どれも投手によって十人十色の癖が出るものだ。それを徹底的に把握しようとするのが見てわかった。
フリーバッティングの順番も、昨日と同じだ。まず戸高がマスクをかぶる。
右打席に高橋が入り、鈴木がマウンドに上がる。
昨日の対戦で高橋は、1-2からアウトコースのフォークに空振り三振を喫している。
初球、戸高はなんと鈴木の決め球フォークを要求した。
これについバットが出て、高橋のカウントは0-1になった。
昨日の「まずアウトローから入る」という定石リードとは対照的なリードだ。
2球目は、アウトコースに外れる直球に高橋が手を出して再び空振り。カウント0-2。
一度高橋は打席をはずして2、3度素振りをする。
流れを一度切りたいという打者心理の表れだ。表情は変えないものの、打席の高橋は明らかに動揺しているように見えた。
高卒ルーキーとはいえ、甲子園に複数回出場した高校の4番打者。
それなりに修羅場はくぐってきたはずだ。その高橋にしても、「昨日と全く違うリードを同じ捕手がする」ということが予想外だったのだ。
捕手のリードというのは、どうしても性格が出る。ストライク先行を意識する者、打たせて取ることを良しとしてくさいコースを要求しがちな者、勝負する打者としない打者を峻別したがる者。
投手の癖だけでなく、そういう捕手の癖を見抜くのもまた野球技術の一つだ。
「的を絞らせない投球」といういい方はあるが、「的を絞らせないリード」もまたある。
年間144試合を戦うプロ野球で、何度も同じ対戦カードを毎年行う環境においては、捕手はこの的を絞らせないリードというのも求められるということだ。
そして、一度混乱した頭の中というのは、意図的に何かを変えない限り再び冷静にはならない。
3球目の高めのつり球にあえなく手を出して、高橋は三球三振を喫した。
高橋も、昨日の対戦から無策であったわけではなかった。
昨日よりもオープンスタンス気味に構え、変化球、特に縦の変化を早めに見抜けるように試していたのが、楓にもわかった。
こうしてそれぞれが試行錯誤と対策を繰り返しながら、しのぎを削っていく。
それがプロの世界なのだということを改めて感じさせられる。
次はグスマンがマウンドに上がる。
戸高は、今度はなんと3球連続変化球、つまりカーブとチェンジアップを要求した。
3球目のカーブがファウルになったほかは、ボール球になりカウントは2-1。バッティングカウントだ。
ここで初めてグスマンは持ち味である早いストレートを投げた。
コースは真ん中だが、わずかに低めに外れるストレートに対し、迷わずこれを振りぬく高橋。
ボールを芯から少し下で捕らえた打球は、地を這うようなゴロとなって二塁ベースにあたると大きくセンター方向へ跳ねていった。
ショートの足と技量によってはカバーできたかもしれないが、おそらくセンター前ヒットになったコースだろう。
楓の近くでこの2人の打者との対戦を見ていた谷口が、「なるほどね。」と小さくつぶやくのが聞こえた。
そして、次は戸高が谷口から散々こき下ろされた楓のリード。
楓が3人目のマウンドに上がる。




