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この新婚旅行は、離婚前提。  作者: あだち


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2 秘密の婚約破棄~王子が神に寝取られた~

 二度目の眩暈で、ボックス席そのものから転げ落ちそうになったのを、テレーザはどうにか踏みとどまった。

 つくづく、今日が最新の演目で良かった。客の多くが舞台の歌手に注目していて、テレーザの様子のおかしさに気づいた人数はきっと多くないだろう。

 一方で、テレーザの動揺に最も気づきやすい位置にいるはずのカルロはどこか満足気に頷いていて、今しがた口にした自分の考えに改めて感じ入っているようである。


「テレーザ、驚くのも無理はない。だが余はもう決断したのだ。病に倒れ、生死の境をさまよったときに」

「……やまい?」


 テレーザは遠ざかりそうになる意識をつなぎ止め、混乱する記憶からそれらしい事象を拾った。

 もしかして、一週間前に仲間内での晩餐会で酔って服を脱ぎ、庭の噴水に飛び込んで風邪を引いたという件のことか。

『感染ると悪いから面会は不可』とわざわざ王宮から通達されて、さては晩餐会に呼んでいた娼婦たちを連れ込んで遊んでいるなと見越したテレーザは、騙されたふりで見舞い品を贈るにとどめたのだが。

 ――どうやら、本当に、なかなかの病状だったようだ。脳が沸騰して跡形もなくなるくらいには。


「熱に浮かされもはやここまでかと覚悟した瞬間、余は、頭に直接語りかけてくる神聖な声を聞いたのだ。”罪を洗い流せ。そなたの道は別にある”と。ふと、苦しみが遠のき、導かれるように目を開けると、枕元でエミリオが心配そうに余を見ていてな。『兄上。お加減は?』と。その後ろの壁に、教会の十字架の影が落ちているのを見て、余は悟ったのだ。――ああ、余の道は信仰とともにある、と」

「殿下」


 眉を寄せ、額を手で覆い、首を横に振るカルロの無駄に流暢な喋りを、テレーザはそっと堰を置くように遮った。


「まさか、それで王位を譲ることになさいましたの?……熱を出して、夢を見て、それで」

「夢を見たのではない。お告げを聞いたのだ。天使か、神か、それを余が判断するのはおこがましいというもの」

「夢です。熱に浮かされた脳が、とりあえずいらない記憶をつなぎ合わせて適当に見せた趣味の悪い落書きのようなものです」


 真剣な顔で切り捨てるテレーザに対し、カルロは背もたれに深く腰を掛けて目を閉じ、いかにも思慮深げな眉間のしわと共に首を横に振った。今度は、ゆっくりと。


「テレーザ。古き異教の習慣が濃く残るというサリーニャ育ちのそなたにはわからない感覚かもしれないが……我が王家は神と民のための王家であり、それゆえに神は今日まで王家を守り通してくださったのだ。神が『そうしろ』というなら、余は目の前の玉座を弟にでも誰にでも譲らねばならん。それができなくなっては、遠い昔に天罰でほろんだとされる大帝国と同じ末路をたどってしまう」


 懇々と語る様子はまるで芝居のようでいて、しかしそれが彼の本気だと知っているテレーザは、呆気にとられるほかなかった。

 劇薬ともいわれる目薬を使って輝かせている瞳から星は消え、キスできそうでできない微妙な距離感を保ってきた唇は隙だらけで半開きになり、脱力した肩からはストールがずり落ちていた。ブローチの重みか、ドレスの袖までもがやや下がる。


 黙ったテレーザに、カルロは穏やかな瞳で向き直る。いろいろずり落ちたおかげで当初より広くなった胸元には一瞬視線が吸い寄せられるも、すばやく引き剥がしてテレーザと目を合わせる。


「そういうわけで、余は信仰のために生きる。だが案ずることはない、王族の一人として結婚は義務だからな。神の御心を追う旅路に出るときも、お前を残して行ったりはしない。お前は信仰の道に生きるというにはちょっっっと服の襟ぐりが広すぎるが、それも今日から少しずつ悔い改めていけばよい。そうだな、最近は外国貴族がわが国でする新婚旅行というもの、あれを我らもやろう。各聖地を巡礼し罪を清めながら」

「……殿下、そのお考え、すでに誰かにお伝えに?」


 テレーザは顔に笑いも怒りも見せず、淡々と聞いた。


「例えば、懇意にしているご友人に、とか。……ディ・フェッロ家の方に、とか」

「ははは、なんだ浮気の心配か? 案ずるな、お前が最初だとも」


「まぁ嬉しい」と、この夜、初めての本音を口にして、テレーザは扉の前に控える従者にそっと目くばせした。従者は老いた男だったが、眼光鋭い目を一瞬だけ伏せ、頷いた。


「だがそうだな。そなたの父、コッラーロ伯爵には伝えておかねばな。急な話に舅殿も驚くかもしれないが……テレーザ?」


 カルロは不思議そうに、自分の手を包み込むテレーザの顔を見た。

 テレーザは、もう先ほどまでの力なく呆れ切った顔をしてはいなかった。その目には慈母のような優しさと穏やかさを映し、唇はほのかに弧を描き、両手でカルロの手を握ってその顔をのぞき込んでいた。そこにあるのは、もう未来の王太子に並ぶ豪華絢爛の妃候補ではない。迷える信者に道を諭す、宗教画の聖女のような、慈愛と神聖さに満ちていた。

 表向きは。


「殿下。あなたさまの言葉を聞いて、わたしは今、本当の意味で洗礼を受けたような気がします」


 テレーザはささやくような声で言った。顔と顔の距離を徐々に近くして、王子の目に自分だけを映るようにして、――過去にカルロが一目見たときから「目がよいな。美しい」とやたら上機嫌に頷いていた、自慢の青い目からけして視線を逸らさせないようにして。


「そうか……。ありがとうテレーザ。やはりそなたを選んだ余の慧眼に狂いはなかった。神はかつてわれらに剣となるディ・フェッロ家を遣わしたが、今また信仰の道を共に歩むにふさわしい妃を」

「して、殿下。あなたさまは神聖なるお告げをお聞きになったのですよね?」


 うっとりと語り始めたカルロの声を遮って、テレーザは優しく、鋭く問いかけた。瞬きの一つもしない青い目に再び輝き始めた星の光に、カルロの喉が知らずひきつる。


「も、もちろん」

「ならばなぜ、信仰の道を半端なもので――妻帯し、俗世にとどまる妥協を良しとなさるのですか?」


 その言葉に、カルロの目がハッと見開かれた。


「わたしという罪深い存在が、あなたの進む道を阻んでいるのですか? あなたはすべてを捨てて、神の望むままに生きていくこともできるはず。今ならまだ、妻という鎖なしに」

「テレーザ……そなた……」


 わななくカルロに先を言わせず、テレーザは手を握りこむ。捕らえた相手の目を逃がさないまま、微笑んだ。


「わたしのことなら心配しないでください。あなたが隣にいなくても、きっとあなたと同じ道を歩みます。神があなたの道をお示しになられたように、あなたが私の道をお示し下さったのですから」


 テレーザ、と呟いたカルロの瞳は感激に揺れ、頬は熱に浮かされたように朱を帯びている。自分の真の理解者が目の前にいると、心の底から信じ切っている顔だ。


 カルロの腕が背に回ってくるのを、テレーザは受け入れた。今まではキス同様にそれとなく躱してきた下心からの接触を、同じ道に目覚めた同士らしく享受し、相手の背にも腕を回した。

 ――耳を相手の首筋につける。脈は速い。とても落ち着いてはいなさそうだ。それでいい。今さら正気になんてなるな。


「――今夜、行きましょう。それぞれ別の修道院で、神にこの身を捧げる誓いを立てるのです。もちろん、邪魔されぬよう、目立たぬように、別々にです。そう、誰にも言わずに行くのです」


 テレーザは王子の耳に向かってささやきながら、強く抱きしめた。

 胸は当てない。現実に引き戻させないために。


「テレーザ・コッラーロとの婚約が白紙になったことも、誰にも」





 ――ボックス席を出て廊下を歩き、すれ違う人の姿も見当たらなくなったところで、テレーザは立ち止まって息を吐いた。


「……時間の無駄だったわ!」


 額を抑えてそう吐き捨てた顔からは、聖女の慈愛も神聖さも微塵も見えない。ただ、計画が予想外の破綻を見せたことへの純粋な悔しさを発露する女がひとり、顔をゆがめ拳を震わせ、寡黙な護衛を背後に連れて、立っているだけである。


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