1 神に疎まれた女 テレーザ・コッラーロ
「ブローチを一つ、いただける?」
目も覚めるような美しい令嬢はそう言って、少女の籠に硬貨を二枚置いた。ゆっくりと戻る手が、籠の中の貝細工を流れるように一つ摘む。
「すてき。聖母様の横顔ね」
呆気に取られて、少女は返事をし損ねた。
貝の破片から作ったカメオ。刻んだ女性の横顔は、頭から布をかけていたり、百合の花が近くに添えられていたりと、確かに聖母がモチーフだ。
とはいえ、なにせ素人仕事の彫刻で、素材だって宝飾品工房の廃品置き場から拾った物である。夜灯の光をきらきらと反射する、見事なカットの宝石をイヤリングにする令嬢には、どう見てもふさわしくない。
いや、ふさわしいかどうかなど、考える必要はないと少女は我に返った。多くの貴族がするように、困窮者への施しを兼ねて買っただけに違いないのだから。
それなのに、令嬢はブローチをその場で胸元に着け、満足そうに微笑んだ。
「わたしの故郷は海がきれいなの。貝のカメオ、わたし大好きよ」
そう囁いた彼女の青い目には、慈しみと愛情が浮かんでいた。
途端に少女には、そのブローチが職人の手による特別なカメオであるように思えてきた。貝の白さすら、今この時、令嬢の波打つ黒髪を引き立てるために、数多ある素材の中から厳選されたもののような気がしてくる。
令嬢は白髪交じりの従者に促されると、「ではね」と短く別れの言葉を残し、歌劇場のエントランスへと向かっていった。大階段を上った先で令嬢が見えなくなるまで、少女はついぞ一言も口を利けなかった。
――立ちすくんでいた小さな体が、突然背後から突き飛ばされる。
たまらず、少女は石畳の上に倒れ込んだ。ブローチとわずかな硬貨が散らばり、籠が転がる。地面に手をついた少女の頭上から、尖ったささやき声が三人分、かわるがわる降ってきた。
「今のあざとさ、ご覧になった? さすがはテレーザ・コッラーロ、いやらしい手管でカルロ殿下を惑わした〝サリーニャの魔女〟」
「サリーニャなんて南のはしっこ、ほぼ異国だと言うではないの。田舎貴族がよくもまあ、恥ずかしげもなく」
「だいたい、コッラーロ家って昔から教皇庁とも険悪なのでしょう? このままあの人が王子妃だとか、果ては王妃になったりなんかしたら、ローベルシアの王家は破門されてしまうかもしれないわ」
倒れた少女などいないもののように、女たちは通り過ぎていく。途中、ぱきんと小さな音がした。見れば令嬢に褒められたものと同じ意匠のブローチがひとつ、踏みつけられて割れていた。
靴音が遠ざかるのを待ち、少女は無残な貝の欠片に手を伸ばす。
だがそれは、少女よりずっと大きい手で先に拾われた。
「これをいただけるだろうか」
通り過ぎた女たちが振り返る。
そして、少女を助け起こす男の見上げるような背の高さと、礼服の上からもわかる体格の良さ、そして繊細な輝きを放つ金髪を目にすると、顔を赤くして足を速めた。
「……先ほどのお嬢さまは、王妃さまになるのですか?」
ブローチが減り、硬貨が増えた籠を手に、少女が問う。立ち去ろうとしていた男が振り返る。
「彼女は第一王子の婚約者だ。そうなる可能性もゼロじゃない」
男の声には、何の感情もこもっていなかった。貧しい少女への憐憫も、通行人に良く見られるための愛想も、快も不快も、何も、その立ち姿からはうかがい知れなかった。
「……だがおそらく、それは神の望むところではない」
剣のような灰色の目が、ほんの少し揺らいだ以外には。
***
万事順調だった。
父に連れられて、社交シーズンの王都に初めて来た時から三年。行く先々で顔を売り、名を知れば贈り物を贈り、どんな誘いにも応じてひたすら人脈を広げまくり。
シーズン外ですら、有力者の妻や娘へのまめな手紙を欠かさなかったかいあって、ようやく王族と直に話せるツテを得たのに。
十九歳になった今年、とうとう第一王子のボックス席に、二人きりで招かれる仲にまでなったのに。
歌劇場が実質的な社交場ともなるこの国でのこの扱い、もはやテレーザは王子の婚約者も同然だと、内外に知らしめているようなものなのに。
王太子妃になるまでの道のりは、万事順調だったのに。
「……ごめんなさい、我が君。わたし、舞台の方に気を取られてしまってて……今、なんと?」
脳を揺さぶるような眩暈をやり過ごしたテレーザは、品のいい微笑を保って、――しかし唇の端が引きつるのだけはどうすることもできずに、隣に座る褐色の髪の男に問いかけた。
舞台に向かってオペラグラスを掲げていた第一王子カルロは、薄笑いを浮かべながら首を振り、勿体ぶって口を開いた。
「まったく、耳までかわいいやつめ。よく聞け、――余は立太子を辞退し、異母弟のエミリオに道を譲ると決めた」
「……」
くらり。
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