第十五話
食堂脇の開けられた扉の奥からは、美味しそうな匂いが漂ってくる。そちらにキッチンがあるようだった。食事の準備に女中が忙しなく動き回っている。全ての準備をこの女性一人が行っているのだ。大変そうだが、エリナとエレナさんの事情を考えれば仕方がないともいえる。それほど王太子からこの女中が信用されているという事でもある。
ほどなくして、食卓に美味そうな料理が並ぶ。
「堅苦しいのは抜きだ」
そうして食事が始まる。
「今日は楽しかったかい?」
王太子がエレナさんへと問いかける。
「ええ。とっても」
エレナさんはエリナと顔を見合わせて笑う。王太子もその笑顔に満足そうだ。エレナさんが今日一日にあった出来事を面白おかしく話す。王太子とエレナさんとの話を聞きながら、出される料理を食べる。無理に話を振られるわけでもなく、思ったほどの緊張を強いられるという事もなかった。
食事も終盤に差し掛かり、エレナさんの話も一段落、デザートを頂いている時の事だった。
「この屋敷はどうだ?」
と、王太子が俺へと話を振る。急な事に返答に窮する。
「大変すばらしいお屋敷ですね。住むには最適でしょう」
言葉を選びながら、屋敷を褒める。なかなか難しい。王太子とは釣りあいそうにない屋敷。褒めすぎれば王太子を軽く見ているように取られかねず、かといってわざわざ招いていただいた屋敷を貶すわけにもいかない。考え過ぎだろうか?
「そうかそうか。ではこの屋敷を買うといい」
は? 王太子がとんでもないことを言い出した。確かに王太子には安いものかもしれない。だが、俺にとっては手が出るわけがないほどの屋敷だ。今度こそ本当に何も言葉が出てこなかった。
「宿暮らしだと聞いてな。それでは何かと不便も多いだろう。初めは今日の護衛の報酬にと考えていたのだが……」
そこで王太子はエレナさんを見た。
「エレナがそれはさすがに相場とかけ離れすぎているのではないだろうかと」
たかだか迷宮の入口付近を案内したにすぎない。それだけの事でこれほどの屋敷というのは、確かに……。
「そこでだ。買うというのなら分割でいい」
なるほど。探索者はどんな高額な物であろうと現金一括払いが普通だ。他の職種よりも死亡率が高い職業。いつ死んでもおかしくない人間に金は貸せないという事なのだろう。探索者相手の金貸しもいるらしいが、屋敷を買うほどの大金は借りられない。……つまり今回の報酬の一部が王太子への借金という事か。王太子やエレナさんからすれば、エリナにはもっとまともな所に住んでほしいという事だろう。あの宿もいい宿なんだがな。もちろん、この屋敷と比べれば見劣りはするだろうが……。
「返事は今すぐでなくともいい。相談して決めるといい。明日はまだガザリムにいる」
家か……。部屋を見回す。いい屋敷ではあるんだが……。こっそりと反応を伺う。エリナは困惑した顔。答えを決めかねている感じ。どちらかといえば否定的。王太子と姉の手前、表立って否定はできないのだろう。シビルは期待に満ちた表情。これはもうここに住む事を想像しているな。アストリッドは普通。どちらとも取れない。さて……。
「わかりました」
「住み心地などもあるだろう。今日はこの屋敷に泊まってくれてかまわない」
とりあえず今すぐ返事しなくてもいいと言われた事だし、泊まってみてから考えよう。
王太子達を見送る為、屋敷の外へと出る。食事の際の大きな話題は屋敷の事くらいだった。それで終わりだと思っていたのだが……。
「ああ言い忘れていたのだが、お前たちもトウエンリッダに来ないか? 考えておいてくれ」
そう言い残し王太子は馬車へと乗り込んだ。王太子としてはエレナさんとエリナをもう少し長く一緒にいさせてあげたいのかもしれない。これを最後に次はいつ会えるかわからないしな。これも相談だな。
と、ロギという騎士だけが馬車には乗りこまず、一人その場に残った。騎士を残し馬車は走り出す。
「どうかされましたか?」
護衛に残ったというわけでもないだろうし……。
「少し話がしたいと思ってな。二人きりで」
どんな話があるというのだろうか? しかも二人きりで? 確かに話をしてみたかった。興味があった。この方がこれまでにどんな人生を生きてきたのか。あれほどの剣技を身につけるのは並大抵の苦労ではなかったはずだ。参考になる部分もあるかもしれない。しかし逆にこの老人から俺への話となれば、その中身についてはまったく想像がつかなかった。
「わかりました」
エリナ、シビル、アストリッドの三人には部屋へと行ってもらい、食堂へと戻った。二人ではさすがに食堂は広い。テーブルの片隅に座り、グラスを傾ける。静まり返った部屋。言い難い事なのだろうか? 老人は自ら話をしたいと言ったにもかかわらず、無言で酒を飲み続けていた。これまで生きてきた年月がそうさせるのだろうか? 老人はただグラスを傾けているだけで、絵になった。ほんの少し見惚れていたが、このままではまったく話が進まない。
「それでお話というのは?」
老人はグラスを置き、こちらを見た。そして一言、
「この世界はどうだ?」
と……。咄嗟の事に、何を言われたのかわからなかった。その言葉を反芻するうち、徐々に理解する。理解したくなかったのかもしれない。それと同時に老人への警戒心が生れた。
「どういう意味でしょうか? ガザリムは住みやすくていい街ですが……」
これまでと態度を変えぬよう、わからないという風に装う。老人は目を伏せ、ふっと笑う。
「そう警戒するな。儂もお主と同じだ」
老人は再びグラスを持ち上げ酒を口に含んだ。
「同じ……とは?」
「儂も日本からこの世界に来た」
驚愕に声も出ぬとはこの事だろう。
「自分以外のギフテッドに会うのは初めてか?」
こくこくと頷く。頷いた後で、自らの犯した過ちに気がついた。が、手遅れだった。老人は俺の反応に、くっくっと声を押し殺したように笑う。失敗した。こういう突発的な出来事に俺は弱い。つい素直な反応を返してしまう。気をつけなければ。今回はもうすでに遅いが……。しかたがない……。
「ギフテッドというのは見て簡単にわかるものなのですか?」
老人は首を横に振った。
「いや、そういうわけではない」
「ではどうして?」
「癖だな……。こちらの世界に来てそれほど長くはないのだろう? 行動、仕草、態度。その全てがあちらの世界のまま、抜けきっておらぬ。同胞から見れば一目瞭然。……儂も懐かしく感じた」
癖か。ずいぶんとこちらの世界に馴染んできたと思っていたが……。日本に生まれ育ち数十年暮らしていたのだ。簡単に直せるものではない。だが、これからは意識しておこう。
問題はこの老人が本当に日本から来たのかどうかという事だ。日本という言葉が口から出たという事は、あちらの世界の存在を知っているのは間違いないが……。
「ロギさんのあの剣技はギフトスキルによるものなのですか?」
あちらの世界から来たというなら、ギフトスキルは必ず持っているはずだ。老人は首の動きで否定した。
「では、どのような?」
「そうだな……。儂のギフトスキルは……。単純にスキルとは呼べない物だな。呪い、あるいは祝福か……」
それ以上、語ろうとはしなかった。失敗したな。ギフトスキルの有無で簡単にわかるかと思ったのだが……。スキルの情報というのはこの世界で生きる人間にとって生命線だ。特に、俺やこの老人のような戦闘に身を置く人間にとっては文字通り生死を左右する。どんなスキルであろうと、軽々しく明かしたりはしないだろう。こんな簡単な事にすら頭がまわらない。なるべく冷静にと思っているが、どうやら思っている以上に動揺しているようだった。
「こちらの世界に来て長いのですか?」
方向を変える事にした。真偽は話していればわかるだろう。日本の話になれば、老人が本当にあちらで暮らしていたのかどうかはわかる。問題はこの老人がギフテッドでなかった場合、なぜ偽って俺に近付いて来たかだが……。
「二百年ほどになるかな」
に、二百年……。何でもない事のように言ったが、それは……。
「この歳になると、想い起すのは何故かあちらの世界の事ばかりだ。自ら選んでこの世界に来たというのにな……」
自嘲のような笑みを見せる。
「つい同郷の者を見つけて懐かしくなってな。話をしてみたくなった」
そういうものかもしれない。もし本当にこの老人が俺と同じ境遇ならば、俺も話したいことがたくさんある。
「心残りがあってな……。好きだったバンドが再結成するという話が出ていたのだが……。結局どうなったのか」
聞いてみるとそのバンドは俺も知っているバンドだった。
「再結成しましたよ。オリジナルメンバーはボーカルだけで、新譜は微妙でしたけど」
俺の言葉に今度は大声を上げて笑った。
「そうかそうか。それならこちらの世界に来てよかったな。儂の記憶の中では、あのバンドは最高のままだ」
それにつられるように俺もまた笑う。ひとしきり日本のたわいもない話で盛り上がる。その頃には、もうすでにこの老人がギフテッドだと、日本からやってきたのだと信じられるようになっていた。紛れもなく俺達は同じ時をあの世界で過ごしていた。こうやって老人とあちらの世界について話していると、あちらの世界もそう悪い物でもなかったなと思えてくる。もちろんこの世界ほどではないが……。
ん? 老人が来たのが二百年前……。どうしてほんの数年前の出来事を知っているのだろうか? 英雄の話のときにも感じたが、やはり……。
「時間の流れる速度が違う……」
「いや」
老人はすぐに否定した。老人の話によれば、数十年前に出会ったギフテッドの中には俺よりもさらに未来からこの世界に来ていた人間がいるという事だった。あちらの世界とこちらの世界に、時間的な繋がりはないということなのだろう。
「この世界で生き、この世界で死ぬ儂らには関係のないことだ。あちらの世界に帰る方法がないわけではないようだが」
「そうなんですか?」
「ああ。詳しくは知らぬがな」
その事についてはそれで終わり。驚きはあったが、興味があまり出なかったからだ。この老人もまたそれほどの興味がなかったのだろう。
「それで、この世界はどうだ?」
と、再び最初の質問。
「充実はしていますね」
漠然と生きていたあの頃とは違う。この世界には生の充足があった。それは生と死が隣り合わせの場所にいるからかもしれない。そうだとすれば、悲しい事だが……。いや、それだけではないはずだ。
ロギさんにこの世界で出会った人々の事を話す。トマスさん、ソールさん、エリナ、シビル、シグムンドさん、テオドラさん達、アストリッド。その他にも多くの人々について。村長やアランさんやバッチョさん……。そういう人々達と出会えたからこそ……。
「ロギさんは……こちらの世界はどうですか?」
「楽しかったな。儂もおぬしと同じだ。多くの人々に生かされ、今がある」
そこには深い感慨があった。二百年だ。俺以上に多くの人々との出会いを経験してきたはず。老人は黙りこんだ。過去の出会いに想いを馳せているのかもしれない。そして別れにも……。老人の邪魔をせぬよう、黙って酒を飲む。
「今日はこれくらいにしておくか。また機会もあるだろう。出会いというものは不思議な物だ。偶然と呼ぶにはな」
老人を見送り、二階へと向かう。防音が行き届いているのか静かだ。話し声も漏れ聞こえていないが、三人はまだ寝ていないだろう。一つの部屋に三つの気配が集まっている。




