第四十六話 二人目の介護
46
足元で水が跳ねる。
今朝方は強く降っていた雨も家を出る頃になると勢いが弱くなり始めた。連日続く雨は弱くなることはあっても止むことはなく降り続け、そのせいか初夏を迎えているというのに一日を通して肌寒い。
「おはようございます、ウィズベットさーん。ライカですー」
店にたどり着くと玄関先で服や髪に付いた雫を手ぬぐいでしっかり拭いながら家主の籠る部屋に向って声をかける。返事はないが、ここのところはいつもそうなので特に気にしない。
小雨だったおかげであまり濡れずにすんだ。店に向っている最中に土砂降りになったらどうしようと不安に思っていたので、本当に運に恵まれたようだ。
そんなことを思いながらほっと息を吐くと、次の瞬間には雨が地面を叩く音が強くなり始めた。
「ギリギリだったな」
最後に湿って額に張り付いていた前髪をかき上げると持ってきた鞄に手ぬぐいをしまって改めて室内を見渡す。
相変わらず静寂という音が染み込んでいるような空間は雨空とカーテンを閉めているということもあって薄暗く、見慣れたはずなのにどこか薄気味悪さを感じた。
「さて」
これが知らない人の家であれば回れ右をして逃げ出すところだが、毎日通っているからか恐怖心もすぐに霧散する。窓を覆っているカーテンを開くと悪天であっても、室内がほんのりと息を吹き返すように明るくなった。
その流れで仕事部屋の前に行くと、前日に作っておいた夕食と夜食が綺麗になくなっていた。それを見て、よし、と頷く。
今日で十日目。ウィズベットはここ数日思うように仕事が進んでいないようで、朝は顔を合わせるも夕飯時には仕事部屋に籠ってしまっていて、こうしてドアの前に夕食と夜食を置いて帰るだけの日が続いていた。
皿の乗ったトレイを台所に運び、それから改めて仕事部屋の前に立ちドアを控え目にノックする。
「おはようございます、ライカです。起きていらっしゃいますか?」
「……うおーい」
扉の向こうから微かに声が聞こえてくる。どうやら起きてはいるようだ。が、それ以降の反応がない。
「大丈夫ですか? 入りますよ」
確認のために声をかけて少し待っても返答がないので、ライカはゆっくりとドアを開く。
「うっわ……なんで?」
そして、飛び込んできた光景にライカは絶句してしまった。
室内は嵐でも起こったのかと疑ってしまうほどに衣類やライカでは名前のわからない道具が床を覆っていた。昨日の朝にはこんなことになっていなかったはずだから、昨晩のうちにこの惨状が出来上がったのだとは思う。
あまりの惨状に一瞬物取りを疑うも、それにしては居間に荒らされた様な形跡はなかったことを思い出しその可能性を否定する。となると、考えられるのは……。
唖然としているとふと散乱したものの合間を縫う獣道のような筋が一本部屋の奥へ伸びていることに気がつく。
その筋を辿って室内奥の窓際に視線を向けると。
「……おお……ふ」
真っ白な顔で座ってこちらを見つめて、溜息なのか呻きなのか分からない声を上げるウィズベットと目が合った。
「おおう……」
ぼさぼさな髪を適当に後ろで一括りにし、頬がこけた顔は先週とは別人すぎて、一瞬誰か分からないくらいだ。
服も昨日から着たままなのか全体的によれて皺が目立つ。若い女性にこんなことを言うのは失礼かもしれないが、かなり老け込んで見えてしまう。
「ちょっと大丈夫ですか。なんか、ろう……やつれてますよ」
危ない危ない。口を滑らせるところだった。
以前ヴェルデーナで怖い思いをしてから、女性に年齢に関係するようなことを口にしてはいけないと学んだライカだったが、あまりの変わりように思わず本音が口から零れそうになってしまった。
大丈夫だよね、聞かれてないよね。
内心ヒヤヒヤとしながらも、精一杯の笑みで誤魔化しつつ、あくまでも心配しているんですよ、という体を装う。まあ、実際に心配はしているので嘘をついているわけではないのだから、このくらいは大目に見てもらいたい。
「あらあら。部屋が散らかっちまってるよ。ごめんね、集中しすぎて周りが見えてなかったわ」
しかし、肝を冷やしているライカをよそにウィズベットは室内を見渡して惨状を嘆くようにぽつりと零す。そして、立ち上がると長時間の座り仕事で腰が曲がってしまったのか、老婆のように腰を曲げたまま散らかった荷物を乱暴に片付け始めた。
ただ、落ちているものを戸棚に整理せずに次々と押し込んだり、生地を巻いた棒を立ててしまっておく木箱に無作為に投げ込んだりと片付けとは到底呼べないようなものばかりだ。
「ほとんど一日中座りっぱなしだから腰は痛いし、尻も痛いし、これじゃあ痔になっちまうわ」
「あ、あははは」
女性の口から痔という台詞が飛び出して思わず愛想笑いを返す。
「それで? なんできた?」
ライカには目も向けずに片付けという名の詰め込み作業を継続しているウィズベットがぶっきらぼうに訊ねてきた。
「え? いや、朝食を作りにきたんですけど……」
「あん? ……ああ、そういやそうだったか」
少しの間の後に、ようやく思い至ったのかウィズベットは頭をガリガリと掻いてばつの悪そうな顔をした。
やはり連日の徹夜と長時間労働のせいで頭が上手く回っていないらしい。
ウィズベットはわかったのかわかっていないのか曖昧な返事をすると、細い筋の道を行ったりきたりしている。
その姿はまさに年老いて頭が鈍くなってしまった老人そのものだった。
「あの、本当に大丈夫ですか。お手伝いしましょうか?」
「ああ? ああ、いい、いい。大丈夫だから」
一昨日辺りから様子がおかしいなと思うことはあったが、今のウィズベットはより増して嫌なおかしさをかもし出している。だから、なにか手伝えることはないかと思ったのだが、顔の前を飛ぶ虫を払うように手を振って拒絶を示されてしまうと踏み込みづらい。
そんなことを思っている最中にも、ウィズベットは部屋に設えてあった戸棚から綿棒を取り出すと床に放り、また拾って戸棚に戻すという奇行を始めている。
流石にこんな状態で仕事を続けさせることはできない。
ライカはそっとウィズベットに近づき、曲がった背中にそっと手を当てた。
「ウィズベットさん、すぐに朝食を用意しますから少し休憩しましょう」
「ああ……いや……仕事が」
「ここのところ少し冷えるでしょう? 暖かいジンジャーミルクに小麦のパンを浸します。美味しそうですよね」
「……確かにねぇ」
「あっ、他になにか食べたいものあります?」
「……甘いものが食べたい」
「それなら昨日買ってきたキコの身がありますから、それも食べちゃいましょうよ」
「え……あー……そうするかね」
「ささ、ウィズベットさんは窓際でゆっくりと休んでいてください。すぐに準備しますから」
「……うん」
嫌だと駄々を捏ねられたらどうしようかと心配したが、素直に頷いてくれてまずは一安心。
ライカはウィズベットの手を取って居間の窓際にある椅子に座らせると、気が変わって仕事部屋に籠られる前に急いで準備を始めるのだった。
ここまでお読みなってくださりありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、高評価、ブックマークをどうかお願いします。して頂くと作者がによによ喜びます。
カクヨム,アルファポリス,ノベルアップにも同作を投稿しております。




