近づくことはできない、だから
「マリー。次はこっちのベッドメイキングお願いできる?」
「はい、こちらが終わったら」
マリーと呼ばれた女性は顔を上げて、同僚に軽く返事をした。チョコレート色の髪を、後ろで緩く束ね、シーツの皺を伸ばすように整えていく。そんなマリーの様子を見て同僚の女は続ける。
「ねぇ、マリーって本当は目が見えているんじゃない? なんでそんな正確にできちゃうの?」
疑う、というより不思議という感じで尋ねられ、マリーは苦笑した。
「まったく見えないってわけじゃないですから。それに、一通り決められたやり方ですから、もう慣れました。旦那さまには感謝してもしきれません」
「よく働くマリーを雇って、旦那さまも得した気分になっているんじゃないかしら? それにしても、あなたがここにきて、もう一年になるのね」
懐かしそうに告げられ、マリーはヘーゼル色の瞳をそっと閉じる。そして指示された通り、次の部屋に向かおうとすると、さらに声をかけられた。
「今日は、その部屋が終わったら、あとはかまわないから。みんなでパレードを見に行きましょうよ」
「パレード、ですか?」
「そう。ヴィルヘルム陛下の即位四年目を記念して」
久々に聞いた名前にマリーは手に持っていた真っ新のシーツを落としそうになった。おかげで、足をとられてよろけそうになる。
「ちょっと大丈夫?」
「大、丈夫、です。すみません」
慌てて手を貸してもらい、立ち上がった。平常心を装って作業を再開させる。
「それにしても、ずっと人前に出ることがなかった陛下が珍しいわね。しかも四年なんて、なんとも中途半端だし」
「そ、そうですね」
「でも、滅多に見られない陛下を、この目で見られるなんてなかなかないチャンスよ」
「私は、見ることができませんし、お屋敷に残っていますよ」
マリーに返された言葉に、自分の発言を失言と捉えた女が慌てだす。
「ご、ごめんね。そんなつもりじゃないの。マリーもまったく見えないわけじゃないんでしょ? ね、行きましょうよ! 陛下を目にしたら、マリーの目も治るかもしれないわよ?」
「……ありがとう」
マリーは、なんとか笑った。そう答えたものの、とてもではないが行く気になどなれない。いや、行ってはならない。そう思っていたのに。
「すごい人」
こんなにも人の気配を感じるのは初めてだ。あちこちから人々の話し声が聞こえ、老いも若きもこれからやって来るであろう国王の姿を一目見ようと楽しみにしているのが伝わってくる。
パレードなどに行く気は微塵もなかったマリーだったが、雇い主である屋敷の主人に「陛下のお祝いをするのも国民の務めだ」と言われ、追い出されるような形で足を運んでしまった。
一緒に来た同僚は、もっと前で見たい!と人波をかき分けてマリーを置いて行ってしまった。マリーはため息をついて、群衆から少し離れたところにある丘の上に上がり、木の幹にもたれかかった。柔らかな風が髪をなびかせる。季節は春になろうとしていた。
今日は穏やかな天気だ。葉が擦れる音を聞きながら、マリーはふと口を開いた。
「心配しなくても、約束を破るつもりはないわよ」
辺りに人はいない。けれど、それは突然姿を現した。見えはしないけれど、マリーには感じる。
「相変わらず、敏い娘だな」
「あなた、暇じゃないんじゃないの。ルシフェル」
どこか楽しそうな口調のルシフェルと違い、マリーの声は冷たかった。
「久々に戻った私の片腕が必死に働いてくれてるからな。そうつれない態度をとらなくてもいいだろ、マリー……いや、リラ」
「リラは死んだの」
即答してマリーは眉をしかめる。そして、視界にぼんやりと映る光を見つめた。さっきからどこか遠くで音楽が鳴っている。
リラはあの後、宣言通りルシフェルと契約を交わした。封印が解かれ、悪魔を宿さなくなったリラの見た目は、こげ茶色の髪にヘーゼル色の瞳と変化し、おかげで、誰からも訝しがられることはなくなった。
しかしそれと同時に目が不自由になり、随分と苦労した。なんとか村まで戻ろうかと試みたが、その途中で、ある貴族の男に出会った。血縁者がなく、目が不自由だというリラのことを憐み、メイドとして住み込みで雇ってもらえることになったのは本当に運が良かった。
まったく見えないわけではないので、物のとの距離感は大体分かる。けれども、見えないということが、こんなにも不便で不自由で、そして辛いものなのだとリラは知らなかった。置いてもらう以上、役に立たなくては、とリラはマリーと名乗ったうえで人一倍、血が滲むような努力をして、なんとか生活を、仕事をこなしている。
最初は目が見えないことに戸惑ったりもしたが、徐々に慣れてきた。
「馬鹿な娘だ。契約して目が見えなくなるにしても、城でなら一生働かなくてすんだものを。あの男もそれを望んでいたんじゃないのか?」
さすが悪魔というべきか。ルシフェルはいつも痛いところを突いてくる。魅惑的な声は耳に、というより脳に直接響く。引き出されそうな想いを振り払うようにリラは大きくかぶりを振った。
「どっちみちそばにいられないなら、これでよかったのよ」
ずっと償っていく、と言われた言葉を思い出す。ヴィルヘルムは真実を知って自分を責めていた。そんな中で呪いが解けたとしても、余計に負い目を感じさせるだけだ。贖罪の念で優しくされることなんて望んでいない。足枷になるなんて御免だ。ましてや、近づくことが、会うことができないのなら尚更。
リラはわざとらしく両腕を上げて伸びをした。人々のざわめきが大きくなる。そろそろ王が近づいてきたのだろう。
「ヨハネス王の契約を無効にしてくれたこと、感謝してるわ」
即位四年目を迎えられたということは、危惧されていた三年を超せたのだ。きっと王家にとって、これ以上の喜びはない。今回のパレードの趣旨もそういうことなのだろう。リラの言葉を受けて、ルシフェルは口の端を上げた。
「礼を言われることはなにもないさ。対価はちゃんといただいているからな」
今、自分のところからヴィルヘルムは見えるのだろうか。あんな別れ方をして、傷つけてしまった。酷いことを言った。けれど、もう二度と会うことも、近づくこともできないなら、余計な想いは引きずらせるだけだ。そんなのは、自分だけでいい。
「……目が見えなくてよかった、って今初めて思う」
大きな歓声にリラの声はかき消される。
「もし見ることができたら、きっと会いたくなってしまうから」
目の奥が熱くなり、リラはぐっと歯を食いしばる。これくらいの距離なら許されるだろうか。元々、自分とヴィルヘルムとの距離はこんなものだ。彼はこの国を担う国王陛下なのだから。憂いていた世継ぎの件も気にしなくていい。彼は、どんな女性を選ぶのか、選んだのだろうか。
「昔、ある男と契約した。その男は自分が死んだら、墓から掘り起こし、この体を好きにすることを許すと。そういう話だった」
人々の湧き上がる声に混じって、唐突に話し始めたルシフェルの声は、はっきりと聞こえた。話の真意がまったく読めずにリラは眉をしかめる。しかし、ルシフェルはかまわずに続けた。
「そして時が経ち、男は死んだ。私は約束通り、その体をもらいにいくと、なんと男は遺体に防腐処理を施させて、どこぞの施設に飾られることになったのさ。おかげで遺体は墓どころか、ケースの中だ。これじゃ手が出せない」
「……なにが、言いたいの?」
やはり、話の意図が読めない。ルシフェルはそこで、遠くを見つめた。
「私はたしかに、ヴィルヘルム王に近づくな、と言った。だが、お前が近づかなくても、向こうから近づいてくることには関知しない」
リラは目を見張る。そのとき、自分の周りの空気がおかしいことに気づいた。人の気配はするのに、あんなに盛り上がっていた人々の声が急にどよめいたものに変わっている。一体、なんだと言うのか。
そして、勘違いでなければ、誰かがこちらに、ゆっくりと近づいてくる気配がする。リラの心臓は早鐘を打ち始めた。状況についていけない。どういうことなのか。
「ルシフェル!」
状況を尋ねようと、名を呼んだが、すでにその気配はない。理解できない雰囲気は、恐怖となり、リラはその場を離れようとした。しかし、木の幹に躓いてしまい、転びそうになる。
「あっ」
とっさに受け身が取れず、体で地面を受けることを覚悟した。けれど予想していた衝撃は襲ってこない。代わりに、力強い腕に抱きとめられ、誰かに支えられたのだと理解する。なんとなく覚えのあるような……。
「こんなところにいたのか」
鼓膜を震わせた声に、リラは固まった。これは幻聴か、なにかか。こんなにも自分の胸を高鳴らせる声をもっているのは、世界でひとりだけだ。
「やっと見つけることができた、リラ」
顔を確かめるように、頬を撫でられ、リラは泣き出しそうなのを堪えて、頭を下げた。
「申し訳ございません、人違いです。私は、そのような」
「髪や瞳の色が変わったぐらいで、誤魔化せると思っているのか。言っただろ、私はお前がどんな姿でも、どこにいてもきっと見つけられるって」
見ることができない。けれどリラにはヴィルヘルムが今、どんな顔をしているのか容易に想像できた。懸命に堪えていた涙が、ついに目から溢れだす。
「陛下は、千里眼もお持ちでしたか」
精一杯の冗談をぶつけてみると、ヴィルヘルムも微かに笑った。
「そうだ。見つけるのに随分時間がかかったがな」
ヴィルヘルムはリラをきつく抱きしめた。ずっと恋い焦がれていた気持ちが溢れだす。ルシフェルは互いに宿っている悪魔が惹かれあっているのだと言った。けれど、それだけではないと、今だからはっきりと言える。少なくともリラにとっては。この愛しい気持ちは自分だけのものだった。
「あのー。せっかくの再会をお楽しみのところ申し訳ないんですけど」
これまた聞き覚えのある声、口調にリラは、ヴィルヘルムの胸に押し当てていた頭を離した。
「さすがに民衆の注目を浴びすぎですよ。パレード停滞していますし。ただでさえ滅多に姿を見せない国王陛下が御前に現れたわけですからね」
リラの顔が羞恥で朱に染まる。自分は見えていなかったが、さっきからとんでもない数の突き刺さるような視線が自分に向けられていた。
「あ、あの」
急いで離れようとするリラをヴィルヘルムがそのまま抱き上げた。膝の下と背中に腕を回され、突然の浮遊感にリラは困惑する。
「このまま連れて帰る。文句はないな」
その言葉はリラに向けられたものでは、なかった。そして、反論する者など誰もいない。当の本人を除いて。
「ちょっと待ってください、陛下。私は」
「お前の文句は、あとでいくらでも聞いてやる。こちらも話したいことがあるしな」
有無を言わせない威圧感は相変わらずだ。仕事の途中だし、自分の目が見えていないことも話せていない。けれど、今はせっかく掴んだこの手をリラも離したくはなかった。
結局、ヴィルヘルムの乗ってきた馬に横乗りする形で、リラは自分の置かれた状況をあまり意識しないようにしながら、城まで向かった。
「リラさま!?」
久々の城の雰囲気に緊張しつつも、馬から慎重に降ろされる。王の帰りを待っていた家臣たちの中から、いきなり不思議そうに名前を呼ばれた。声のした方を探すように首を動かしていると、突然誰かに抱きしめられた。柔らかい、リラと同じ細い腕が回される。
「フィーネ」
「私はずっと信じていました、リラさまのこと。リラさまはけっして王家に仇をなすような存在じゃないって。よかった、よくご無事で……」
最後は嗚咽混じりで声にならない。リラもつられて涙腺が緩む。思えばフィーネだけはずっと自分のことを信じてくれていた。リラにとってはフィーネの存在も、ずっと心の支えだった。
「リラ・ズーデンさま」
慣れない名前で呼ばれ、リラは振り向いた。自分にゆっくりと近づいていた気配が、そばまで寄って、急に消える。それは、近づいてきた人物がリラの前で膝を折ったからだ。
「数々の無礼、暴言など、誠に申し訳ございませんでした。どうかお気に召すよう処罰ください」
声の主はクルトだった。本当に申し訳ないことをしたと思っているのだろう、後悔を滲ませた声色から、本気さが伝わてくる。おかげでリラは逆に申し訳なくなり、慌てだした。
「いえ、その。立ってください。あなたは陛下をお守りしようと当然のことをしたまでで、処罰なんてとんでもないです」
「しかし」
「ならお願いです、どうか畏まらずに普通にしてください。それが処罰です」
はっきりと言い切るリラにクルトは目を丸くした。すかさずエルマーが茶々をいれる。
「そんなこと言われたら断れませんよね、クルト先生。なんたって未来の女王陛下ですから」
「えっ」
「エルマー」
訊き返そうとするリラに、ヴィルヘルムが厳しい声が被せた。
「今日の務めは十分に果たした。私は疲れたからもう休む。かまわないな」
「ええ、お疲れさまでした。本当に、注目されるのが大嫌いなあなたが、わざわざパレードをした甲斐がありましたね」
含んだ言い方をするエルマーを無視し、ヴィルヘルムはリラの手を取る。
「陛下?」
「お前も一緒に来るんだ」
どこか怒っているような口調にリラは緊張しつつも手を引かれる形でヴィルヘルムについていくことになった。




