哀しい嘘 優しい偽り
フェリックスが目を覚ますと、見慣れた天井が目に入る。急いで身を起こせば、そばには側近のヨハンがいつもよりも、ずっと厳しい顔をして立っていた。
「ヨハン、フィリップは!?」
意識を失う前の光景を思い出し、掴みかかる勢いで異母弟のことを尋ねる。
「フィリップさまもご無事です」
「そうか……俺は一体」
ほっと息を吐いたのも束の間、まだ重たい頭を支えるようにしてフェリックスは項垂れた。記憶が曖昧で体もまだ重い。まるで頭に靄がかかっているようだ。そんなフィリップにヨハンは躊躇うことなく真実を告げた。
悪魔に憑かれていたのも、フィリップの命を奪おうとしたのも、まさかの自分の父親の仕業だということにフェリックスは少なからずショックを受ける。父親として可愛がってもらった記憶などほとんどない。フェリックスにとってヨハネス王は父親の前に常に国王だった。だからといって……。
そこでフェリックスは、はたと気づいた。
「俺はどうして、無事なんだ? 憑いていた悪魔はどうなったんだ?」
その問いかけにヨハンは眉間の皺をさらに増やして深くさせた。時間にしてたった数秒の沈黙、それでもフェリックスにとっては、とてつもなく長い時間に感じられた。ようやくヨハンが重い口をおもむろに開ける。
「ズーデン方伯が、自分の中に、あなたに憑いていたものを取り込んでくださいました」
「ローザが!?」
そこまで言うと、ヨハンは無礼を承知でフェリックスの両肩に手を置いた。強い力、迫力ある表情。どこか泣き出しそうな顔でヨハンはフェリックスに言い聞かせるように告げた。
「今回の件は、ズーデン方伯が両親を亡くしたことを逆恨みし、王家に呪いをかけたことが原因だ。あなたはそれを祓魔の力を使って跳ね返した。いいですね?」
「なにを……」
自分の頭の回転はそれほどまで遅いと思ったことはない。しかし、このときばかりはフェリックスは自分の側近が告げた言葉の意味がまったく理解できなかった。ヨハンはフェリックスから目を逸らすことなく、再度告げた。
「すべてはズーデン方伯の起こしたこと。王家は被害者だ。あなたはそう告げるんです」
「馬鹿言うな! ローザのおかげで俺もフィリップも助かったんだぞ。それを、なんで、どうして彼女が悪者になるんだ!?」
拒絶するようにヨハンの手を払いのけ、フェリックスは声を上げる。こんなにも感情を露にするのは、いつぶりなのか。それでも、ヨハンはあくまでも冷静だった。
「さっきの件は、すでに騒ぎになり知られるところになっています。それが国王自らが悪魔と契約し、血を引く者を呪ったなどという内容が明るみになれば、王家の信頼は地に落ちます。王政の崩壊だ。そうなると国はどうなります? 大混乱に陥り、そこへ他国にいいように攻め入られてもしょうがない」
「だからって」
激昂するフェリックスの肩を再び、ヨハンが掴んだ。
「彼女は悪魔のすべてを封印することはできなかった。呪いも抑えられたが、消えたわけじゃない。確実にあなたの中に残っているんです。悪魔をそれぞれに宿したあなたたちが接触することは危険だ。だから、あなたたちはもう二度と会うことができないんです」
後頭部を鈍器で殴られたような衝撃。フェリックスはこれでもかというくらい目を見開いた。そんなフェリックスにヨハンははっきりと告げる。
「いいですか。これは彼女が“自分から言い出した”ことなんですよ、フェリックス陛下!」
心臓が破裂しそうに激しく脈打つ。息がうまく吸えないのか、吐けないのか。状況についていけずに、告げられる真実だけが胸を刺していく。そのとき、慌てた様子で乱暴に部屋のドアが開かれた。ヨハンが窘めるも、現れた家臣の顔は真っ青だった。
「殿下、大変です。広間でズーデン方伯が!」
その言葉に、フェリックスは着の身着のまま飛び出していった。
ローザに二度と会えない? 彼女のせい? 冗談じゃない。そんなこと許されるわけがない。そんなことが……。
広間の扉を力いっぱい開けると、そこには信じられない光景があった。多くの家臣、国王の訃報を聞きつけて弔問に訪れた貴族たちが、なにかを取り囲むようにして激しく叫びあっている。その真ん中にいたのは、両腕を後ろで縛られ、目隠しをされて、膝を折っているひとりの女性だった。
「ローザ!」
フェリックスの叫び声に、辺りは沈静し、一斉に視線が集中した。そしてフェリックスからローザまで分かれるようにして人の垣根ができる。急いでローザの元に駆け寄ろうとしたフェリックスの前に、ある人物が立ちはだかった。
「これは、これはフェリックス殿下、いえ、フェリックス陛下。王家への呪いを跳ね返し技、見事でございました」
「オステン方伯、なにを……」
オステン方伯は深い眼差しでフェリックスを見据えた。その目が語る真意を悟り、フェリックスは微かに首を横に振る。そんなふたりに次々と訴えかけるような言葉が浴びせられた。
「殿下、彼女は魔女だ。瞳は恐ろしい色をしていた」
「見てください、この銀の髪! とてもじゃないが人間のものとは思えない。呪いを返された証拠です」
「待て、彼女は!」
騒ぎ始める面々をフェリックスは声を張り上げて抑え込もうとする。けれど、火が回るようにローザへの憎しみにも似た畏怖の感情は止まることをしらない。
「違う、違うんだ! 彼女は」
「どうされたんです、殿下? まさかこの魔女に誑かされたのですか?」
訝し気に問いかけられ、その不信感はフェリックスではなくローザに向けられることになった。
「魔女め! 王家に取り入ろうとは恐ろしい」
「やはり処刑すべきだ。生かしてはおけない」
「確実に首を刎ねなくては! なにをしでかすか」
「私達も呪われる! 悪魔に憑かれるわ!」
恐怖は伝染し、ヒステリックに叫び出す群衆。悪魔よりも恐ろしいものを、フェリックスは目の当たりにした。奥歯を強く噛みしめ、握り拳を作った。
「黙れ!」
腹の底から出した一言で内部は水をうったように静まり返る。フェリックスは精一杯、自分の父の姿を思い浮かべた。感情を他者に悟られるような真似は決してない、あの冷たい表情を。
「彼女を殺しはしない」
「なぜですか!? やはり殿下は彼女に……」
反論しようとする者を鋭く睨んで黙らせた。そして抑揚のない声で続ける。
「この場にいる全員知っているだろう、我が国に伝わる伝承を。我が始祖はどんな者にも慈悲深さを見せた。それをこんなところで覆しはしない」
分かっている、下手に庇えば、余計にローザに不利に働く。フェリックスから目隠しをされているローザの表情は読めない。痛々しい姿に決意が揺らぎ、目の奥が熱くなる。それでも言わなければならないのだ。
『あなたたちはもう二度と会うことができないんです』
自分にもっと力があれば。民からの揺るぎのない信頼があれば。すべては仮定の話で、今の自分にはどれもない。こんな自分にできることは、
「王家に仇を為す魔女め。私が本気でお前を愛するとでも? その目論見ははずれたな」
頼む、言わせないでくれ! もうひとりの自分が必死に懇願している。けれどフェリックスは最大限の毒を含ませて吐き捨てた。
「もう二度とこの国に足を踏み入れることは許さない。お前に返った呪いに苦しみながら後悔し続けるんだな」
そこでフェリックスは自分の後を追ってきたヨハンに視線を送る。ヨハンは軽く頷いて、ローザに近づくと、立たせてそのまま部屋から引きずり出した。それを瞬きをせずに見つめる。再びざわめきだす群衆にフェリックスはわざとらしく声をあげた。
「王家の力は絶対だ。なにによっても揺らぐことなく、悪魔も呪いにも屈することはない。それは我が国の未来が永遠に約束されたのも同じこと」
恐怖に包まれていた室内に歓声が上がる。誰の目から見ても分かりやすい勧善懲悪。新しい国王の力を皆が認め、沸き立った瞬間だった。
あちこちから、自分を称賛する声と国王陛下と呼ばれるのをどこか遠くのことのようにフェリックスは聞いていた。涙する資格も自分にはない。
ローザの優しい笑顔を思い出してフェリックスは自分で放った言葉を強く噛みしめていた。
ローザは縄と目隠しを解かれると、城の裏の入口に連れていかれた。限られた者しか知らないその入口には、小さな馬車とローザの従者である若い青年、カミュが険しい顔で待機している。ヨハンはなにも口を利かない。なにを言っていいのか分からない。けれど、堪らなくなってローザを呼び止めた。
「ズーデン方伯」
「殿下の、いえフェリックス陛下のことを、お願いします。どうかご自分を責めないようにとお伝えください」
なにかを言うのを遮るように、ローザが早口で捲し立て、さっさと背を向ける。その背中をヨハンは再度、呼び止めた。そして持っていたあるものを手渡す。
「どうか、これを。フェリックスさまが、あなたの薔薇だと大事にしていたものです。急いで部屋から持ってきたので崩れてしまいましたが」
ヨハンの手に握られていたのは一輪の薔薇だった。赤に近い鮮やかなピンクが花を咲かせている。ローザは目を見張りつつ、そっと手を差し出して受け取る。
「フェリックスさまは、本当にあなたのことを」
「時間がありません、急ぎましょう」
従者のカミュが急き立てる。ローザは続きを聞くことなく馬車に乗り込んだ。窓も閉められカーテンが外の光を遮断している。お世辞にも快適とは言えない車内は、ゆっくりと振動し動き始めた。
「ごめん、なさい。カミュ。勝手なことをして」
「私が従うのはあなただけですよ。どこまででもお供します」
ローザは俯いて、なにも言えなかった。自分の勝手な判断で、多くの者に迷惑をかけ、たくさんのものを失ってしまった。それでも、どうしてもフェリックスを助けたかったのだ。
「綺麗ね」
ぽつり、とローザが呟く。自分の手の中で咲き誇る薔薇は見事だった。見たい!と言っていた薔薇をこんな形で目にすることになるなんて、なんとも皮肉だ。付き人もちらりと薔薇に視線を送る。
「薔薇の、ピンク色の薔薇の花言葉はご存知ですか?」
「いいえ」
ローザは静かにかぶりを振る。カミュはしばらく迷ってから躊躇いがちに口を開いた。
「感謝、温かい心……恋の誓いという意味があるそうですよ」
ひとつひとつの意味をじっくりと噛みしめる。『お前の薔薇だ』とぶっきらぼうに言って自分に薔薇を差し出してくれたフェリックスの声を思い出す。そして自然と紫色の瞳から透明の液体が零れはじめた。
『お前でいいんじゃない、お前がいいんだ』
「本当に、嘘がお上手すぎですよ、殿下」
嗚咽混じりに呟き、堰を切ったように涙が止まらない。薔薇に滴が落ちて花弁を濡らしていく。しばらくの間、押し殺すような泣き声だけが馬車の中に響いていた。
ローザはカミュと共に、未開発であり国境の境目にあたるゲビルゲ山脈の小さな村に送られることになった。城の者たちで事実を知るのは残された方伯たちとフェリックス、そしてヨハンだけ。
オステン方伯は自身がすべての真実を背負う代わりに、ヴェステン方伯とノルデン方伯はそれぞれ悪魔を封じたローザのことを伝えることになった。
どうか国王になりしものと、ズーデン家の血を引く者が末裔まで交わることがないように。




