血を引く者
意識ははっきりしている、それなのに自分の瞳にはなにも映っていない。暗闇だった。それでも周囲に誰かがいる気配は感じる。
ざわざわと自分に向けられている視線の数々は、およそ好意的なものはどれもない。憎悪、恐怖、不安。黒い感情に蝕まれそうだった。
そして誰かがヒステリックに叫べば、それが伝染するように伝わっていき、殺気立った雰囲気に囲まれる。怖い。リラは歯の根が合わずに、ガタガタと震えた。そのとき、波が引くように辺りが急に静かになる。そして
『王家に仇を為す魔女め! 私が本気でお前を愛するとでも?』
自分に向けられた厳しい非難の声にリラは目を見張った。その声はヴィルヘルムのものだった。
荒々しく呼吸をしながら、視界にいつもの天蓋が映る。どうやら自分は夢を見ていたらしい。すぐに起き上がろうとしたが、それは叶わなかった。なぜなら、リラの腕は縛られてベッドに括りつけられている。まるで初めてここに連れて来られたときのように。
「え?」
リラの頭は軽くパニックを起こしそうだった。自分はたしか、祓魔の手伝いをするために後宮に足を運んだ。そして、悪魔の憑いている女性に襲われそうになって……。
必死で記憶を辿るも、そこまでしか分からない。一体、なにがあったのか、どうして自分は縛られているのか。
「フィーネ、いる?」
いつもそばにいてくれる彼女の名を呼んでみたが、反応はない。顔を必死に動かして周囲を見渡す。場所は、間違いなく城の中で自分に宛がわれている部屋だった。
誰か、誰かこの状況を説明して。
泣きそうになっていると、部屋のドアが開く音が耳に届く。急いで顔をそちらに向けた。
「ヴィル……」
複雑そうな顔をしたヴィルヘルムが、エルマーを連れてこちらに近づいてくる。リラの瞳から涙が零れそうになった。
「調子はどうだ?」
「だ、大丈夫。あの、これは一体?」
動揺を隠しきれていないリラの問いに、答えたのはエルマーだった。
「すみません、あなたに悪魔が憑いている可能性がありまして」
「え!?」
「眠っている間に、陛下が祓魔を施してくれましたが、なにも反応はありませんでした。ですが、念のため、ということで」
その発言にリラはヴィルヘルムを視線をやる。ヴィルヘルムはそっとリラの頭を撫でた。
「驚かせて悪いな。もう一度、お前が起きているときに試させてくれないか? それで、なにもないなら……」
「陛下!」
息急き切った声が響く。その声はリラの知らないものだった。
「ノルデン方伯。誰の許可を得て、こちらへ?」
あからさまに不快な顔をしたヴィルヘルムに代わってエルマーが問う。二人の合間から覗く突然の来訪者にリラも戸惑った。
「うちの、うちの娘が後宮から降りるとは、どういうことですか!?」
「使いに聞いた通りだ。心神喪失状態で、しばらく自宅で安静にした方がいい」
「そんなわけありません。これは、なにかの間違いです!」
叫ぶような金切り声は、リラの不安を煽る。先ほど夢で見た、あの空気と似ていた。無意識に身を縮ませる。
「間違いではない。彼女は世継ぎを生まなければ、と随分と誰かに追い詰められていたようだ。妖しげな術にまで手を出して」
ノルデン方伯の顔が、わずかに歪んだ。そして、まるで自分のせいではない、と言いたげに頭を振ると、ヴィルヘルムとエルマーが背にしているベッドに注目する。
「それは……」
「ノルデン方伯、お話の続きはあちらでお伺いします。どうかここはお引き取りください」
エルマーが一歩前に踏み出し、止めようとするも、ノルデン方伯は、エルマーなどまるで目に入っていないかのように、ベッドにまっすぐ歩み寄った。ヴィルヘルムが命令するような形で止めるも、それさえ耳に入っていない。
身動きができないリラの心は言い知れぬ不安に駆られる。そしてノルデン方伯が、ベッドの上のリラを視界に捉えたときだった。
「これは、なんと、なんと不吉な!!」
これ以上ないくらいの大声で叫ぶ。その声の大きさだけでリラの心臓は跳ね上がった。ヴィルヘルムもエルマーも一瞬だけ唖然とする。このおどおどした小鹿のような男が、このような大声を上げたのを、いまだかつて聞いたことがなかった。
ノルデン方伯はすぐにヴィルヘルムに向き直り、唇をわなわなと震わせながらリラを指差した。
「陛下、あなたは、あなたはなんてことを! よりによって紫の目など。聞いていません、聞いていませんぞ。あなたは国を滅ぼすおつもりですか!」
今にも自分に掴みかかりそうな勢いのノルデン方伯に、珍しくヴィルヘルムは息を呑んだ。リラの存在のことを知っているとこの男は言っていた。
しかし、いざ目の前にしてこの激昂ぶりは、どういうことなのか。ノルデン方伯の顔には細い血管が浮き出て、血色で真っ赤だ。
「紫の目、紫の目だと知っていたなら……。陛下、悪いことは言いません。やはり情けをかけるべきではなかった。今度こそ、この首を刎ねるべきだ!」
「どうしたんです? ノルデン方伯、どうか落ち着いてください」
エルマーが間に入り、必死にノルデン方伯を宥める。リラはそんな光景を目の当たりにして、心臓が壊れそうに強く打ちつけながらも、妙な既視感を抱いていた。
どうして自分がこんなにも責められているのか、疎まれているのか。分からない、けれど知っている。なぜなら、自分は――
「我がノルデン家に伝えられしもの。紫の瞳を持つものを決して王に、王家に近づけてはならぬ。それは王家の破滅を呼び、災いをなす。すべての呪いの元凶なのです」
「なにを……」
「その通りです」
きっぱりとした声が別のところから響く。それは後から部屋に入ってきたクルトのものだった。その表情はいつもにも増して厳しくて険しい。大股で一同のところに近づき、仰々しくヴィルヘルムに膝をついた。
「陛下。突然のことで混乱しているでしょうが、彼女の素性をようやく調べあげることができました。彼女は、我が王家に仇をなすズーデン家の血を引く者です」
突然の報せにヴィルヘルムもエルマーも、そしてリラも目を見開いた。クルトは立ち上がると、ヴィルヘルムを背に庇うようにして、リラを冷たく見下ろす。
「あなたが住んでいた村は、かつて未開の地でズーデン家が追放された場所だと調べ上げました。そして、その銀の髪、紫の瞳。珍しいとは思っていましたが、ノルデン方伯やヴェステン方伯に話を聞いて、ようやく分かったんです。ノルデン家に伝わる紫の瞳を持つものを決して王家に近づけてはならない、という話。それは、王に呪いを返されたズーデン家の血を引く者の証だと」
そこでクルトは一息ついた。他の面々は、まだ告げられた真実を受け止められていない。
「なぜ王に、王家に近づいたんです? 祖先の復讐ですか?」
「違います、私は、そんなっ」
敵を前にした冷酷な瞳を向けられ、必死に否定しようにも、言葉が続かない。自分でも信じられない、嘘だとしか思えない。けれど、
「とにかく、彼女は危険です。処分については、のちに方伯たちを緊急招集して決定しましょう。ヴィルヘルム陛下は絶対に近づかないでください」
「待て、クルト」
リラの方に近づこうとするヴィルヘルムをクルトが強引に止める。そこでヴィルヘルムとリラと視線が交わった。ヴィルヘルムの姿を紫色の瞳が映す。
『ごめんなさい、リラ。あなたにこの宿命を背負わせてしまうなんて』
なんで今、どうしてこんなことを。忘れていた祖母の言葉がこのタイミングで鮮明に蘇る。
『だからお願い、どうか約束して――』
そうだ、自分はなにを約束したのか。その続きはなんだったのか、それは
『王家には、王には決して近づかないって』
なにかを拒絶するような叫び声をあげて、リラの意識はそこで途絶えた。




