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現れた不協和音

「陛下、ここ最近の後宮で起こった祓魔の件についてまとめてみました」


 他に誰もいなことを確認し、エルマーが執務途中のヴィルヘルムに声をかける。エルマーから受け取った紙を、ヴィルヘルムは厳しい目で見つめた。


「ばらばらのように見えて、場所が固まっているな」


「ええ。塔も広いのに、東階段の部屋に偏っています。これを偶然と呼んでいいのかは分かりませんが、こうなると次に被害にあうのは……」


「陛下、来客です」


 ノックをされたが、こちらの返事を待たずにドアが開けられた。


「誰が何用だ? 今はそれどころじゃない」


 クルトが静かに告げた言葉を邪険に突っ返す。しかしクルトは表情ひとつ変えずに、来客の名を告げた。おかげでヴィルヘルムはその名を聞き、渋々と椅子から腰を上げたのだった。




「お久しぶりです、陛下。突然、申し訳ありません」


「どうされた、ノルデン方伯」


 自分の息子とさして年も変わらない王に、恭しく頭を下げているのは、北の領地を管轄するノルデン家の現当主だった。細身で、ぎょろりとした目は深海魚を思わせる。どこか落ち着きがなく、方伯の中でもヴィルヘルムは特にこの男が苦手だった。


「娘が後宮に輿入れしてから、いい(しら)せを聞かないものでして」


 王は眉を吊り上げる。やはり、という気持ちしか湧いてこない。ノルデン方伯は、おどおどした挙動をとりながらも、実はかなりの野心家だ。娘を後宮に行かせることも、こちらから提案したことではなく、向こうから持ってきた話だった。


 そこには王家とより近い関係になり、方伯の中でも力をつけたいというのが見え透いていた。そんな思惑を分かってはいるものの、体面上無下にするわけにもいかず、娘のドリスを後宮に置いている。しかし、ヴィルヘルムも娘と顔を合わせたのは数回しかない。


「それは、申し訳ない」


「いえいえ。陛下に謝っていただくなど滅相もございません。娘に至らない点があるのでしょう。久々に娘に会いましたが、どうも陛下が足を運んでくださらないと嘆いておりましたゆえ、お節介は百も承知で、親心と言いますか、私が代わりに陛下にお尋ね申そうかと……」


「ドリス嬢は、なにも悪くはない。すべては私の至らなさだ。不快にさせたお詫びに、あとで花と良酒を届けさせよう」


 隣に控えていたクルトに目配せすると、軽く頷いて承知の意を表した。けれども当たり前のことながら、それでノルデン方伯は納得するはずもない。


「贈り物はかまいませぬ。どうか、今一度娘の元に足を運んでいただけませんか?」


「今の仕事が立て込んでいる。それが落ち着けば、考えてみよう」


 さっさと話をまとめて退席しようとするヴィルヘルムにさらにノルデン方伯が続ける。


「それは……裏の仕事でしょうか」


 ヴィルヘルムは目を見開いて、ノルデン方伯を見た。さっきまで落ち着かなかった目線は、じっと王を見据えている。黙ったままの王にノルデン方伯はにやりと笑った。


「いえ、娘に会いに行ったついでに、後宮であまりよろしくない噂を聞きましてね。陛下が、魔女を飼い慣らしているとか、なんとか。その魔女に取り込まれて後宮に足を運ばないのでは、という話を耳にしまして」


「方伯のひとりともあろう者が、そんな噂話を信じて、王に進言か?」


 つい声に棘を含ませてしまったが、ノルデン方伯はものともしない。


「とんでもございません。私は陛下を信じておりますから。しかし闇と対峙する王が、そちらに惹かれても、なにもおかしいことはない。かつて同じようなことがあったと聞いている身としては、無礼を承知でご注進したまでです。歴史は繰り返す、と言いますから」


 再度、深く頭を下げるとノルデン方伯は退出していった。そのタイミングで、ヴィルヘルムは大きく息を吐いて背もたれに体を預ける。すぐにクルトがそばに寄った。


「どうしますか、陛下」


「……とりあえず、今晩、ドリス嬢のところに足を運ぼう」


 ヴィルヘルムは力なく答え、しばし考えを巡らせた。ノルデン方伯が話した内容は間違いなくリラのことだろう。極力、その存在は伏せてはいたものの人の口に戸は立てられない。後宮にまで、そんな尾ひれがついたまま話が広がっているなんて。妙な違和感を覚えながらヴィルヘルムは夜のことを考えると少しだけ憂鬱になった。




 後宮に足を運ぶのは、最近もあったことだ。しかし今回は事情が違う。ヴィルヘルムは蝋燭を灯して足元を照らし、少しだけ緊張した面持ちで、目当ての部屋をノックした。中から返事はなかったが、かまわずに開ける。


 部屋には、甘ったるい匂いが充満していた。そのことに反射的に眉をしかめる。部屋の主であるドリスはベッドの上で平伏していた。長いウェーブのかかった金髪が惜しげもなく広がっている。


「面を上げろ」


 外套を脱いで静かに告げると、ドリスはゆっくりと頭を上げた。年は間もなく十九になると聞いている。父親ではなく、母親に似たのだろう。青い瞳にくっきりとした目鼻立ち。それでいて従順そうな雰囲気を醸し出している彼女は、後宮などに入らなければ、とっくに結婚していたに違いない。


「陛下がいらしてくださったこと、心から嬉しく思います。ずっと、ずっとお待ちしておりました」


 彼女の声は、こんな声だったのか、とヴィルヘルムは思った。どこかねっとりと、耳にまとわりつくように響く。ためらいながらもヴィルヘルムはベッドに近づいた。


「ひとつ、尋ねてもかまわないか」


「はい。なんなりとお申しつけください」


 恍惚の表情を浮かべて、ドリスは頭を下げる。


「ここで、噂になっていることだ」


「噂……ああ。陛下が魔女を飼い慣らしているというものですか? 陛下は普通の女性に興味はなく、闇に魅入られてしまったのだと。もちろん、私は信じておりません。こうして、陛下が会いに来てくださったのですから」


 妖艶な笑みを浮かべて、ドリスは大胆にも、ヴィルヘルムの首に腕を伸ばして、自分の方に体を寄せた。その腕の力は思ったよりもずっと強く、振りほどくことができない。


「どうか、どうかこの身を愛してください。私の望みはそれだけなんです」


 まただ。ヴィルヘルムは顔をしかめる。絡みつくような、まるでなにかの呪文のような、この声に頭が霞む。そうして意識をそちらに持っていかれていると、さらに腕の力が強められ、赤い誘うような唇が強引に重ねられた。反射的に顔を背けようとしたが、それも叶わない。唇から伝わってくるのは冷たくて背筋を這うような嫌悪感だけだった。そこで、ヴィルヘルムの意識が途切れる。


 力なくベッドに倒れこんだヴィルヘルムを見て、ドリスは妖しく笑った。そして、ヴィルヘルムの髪に触れ、ゆっくりと指を通す。濡れたような艶のある黒髪は、触れると、とても柔らかい。目の前にずっと待ち焦がれていた男を前にしてドリスの心は(たかぶ)った。


「やっと。やっと……これで私の望みは叶う」


 笑いながらヴィルヘルムに再度、触れようとした、そのときだった。いきなりヴィルヘルムが伸ばされた手を取って体を起こすと、勢いをつけてそのままドリスを後ろへ押し倒す。ベッドがしばらく軋む音を立てて振動する。それが収まっても、ヴィルヘルムは、ただじっと焦点が合わない瞳で、ドリスを見下ろしていた。


 そしてヴィルヘルムの下になったドリスは実に楽しそうだった。まるでこの状況を望んでいるかのように、そっとヴィルヘルムの頬に手を伸ばす。すると、応えるかのようにヴィルヘルムはドリスの首元に触れて、服に手をかける。


「どうぞ愛してくださいね、陛下」


 その言葉に従うかのようにヴィルヘルムの顔がゆっくりと近づいてきた。ドリスは胸を高鳴らせてそれを受け入れる。しかし次の瞬間、ドリスの思いもよらなかった行動をヴィルヘルムはとった。


 肌に触れようとしていた手は服にかけられ、そのまま強引に縦に動かされた。服は引き裂かれ、胸元がそのまま晒される。なんともあられもない姿に、さすがにドリスも狼狽えた。


 さらに首元を手で押さえ込まれ、動きが制される。息が苦しくなり、ドリスの瞳には涙が浮かんだが、ヴィルヘルムは容赦なく、晒された肌に目を走らせる。


「どうした? 人には強引に迫っておいて、乱暴にされるのは趣味じゃないのか?」


「陛、下」


 助けを乞うような物言いに、ヴィルヘルムはドリスを解放した。激しく咳込む音が部屋に響くき、ヴィルヘルムはベッドから腰を上げる。


「どのような契約を交わしたのかは知らないが、爪が甘かったな」


 その言葉に、ドリスの顔が歪む。青い虹彩は、今や色が濁り始めていた。ぐるりと瞳を一周させ、だらしなく笑う。


「なぜ、分かった」


 その声は、ドリスのものでありながら、枯れて不協和音を伴うものだった。それに対しヴィルヘルムは怯むことなく続ける。


「噂だよ。ここ最近、お前らが暴れて、ちょっとした騒ぎになっている。しかも起こるのは、この部屋の周辺ばかりだ。噂だけではなく、物音や叫び声のひとつぐらい聞いてもおかしくはないだろ。けれど、彼女はそのことについて、父親になにも言わなかった。さっき直接、訊いたときもだ。まさか自分が元凶だなんて言うわけもないからな」


「なるほど」


 あまり感心した様子もなく、ドリスに憑いているものは笑った。


「極めつけは、胸元に烙印があった。お前と契約したようだな」


 肌けたドリスの胸元には細くてどす黒い三日月の烙印があった。悪魔と契約した魔女に施されるものだ。ドリスは口角を上げたままおかしそうに続ける。


「そうだ。この娘はお前を欲しがっていた。正確に言えば、お前との子どもだ。そのためならこの体を捧げてもいいと言ってきたからな」

 

「なら、契約不履行だな。出ていけ」


「そうはいくか」


 言うと同時にドリスがヴィルヘルムに襲いかかる。人間離れした速さに、一瞬だけ虚を衝かれた。背中に打ちつけたような激しい痛みを感じる。


「あのまま意識を手放して、おとなしくこちらの意志に従っていれば、快楽を得られたというのに。だが、今からでも遅くない」


 ドリスの細い指が、跡が残るほどヴィルヘルムの首に食い込む。爪を立て、薄い皮膚には、うっすらと血が滲んでいた。ヴィルヘルムの顔が苦痛に歪み、その顔を見て、満足そうにドリスが微笑んだ。


「陛下!」


 突然、ドアが乱暴に開かれ、冷気と共に人がなだれ込む。待機していたクルトとエルマーだ。そちらにドリスが気をとられたわずかの隙にヴィルヘルムは上になっているドリスを蹴り上げる。ドリスは宙を舞って距離をとった。


 クルトから受け取った小瓶を開けて中の液体を素早く撒く。喉元を押さえて、調子を整えてから、お決まりのラタイン語を唱えると、不敵に笑っていたドリスの顔が怯んだ。


 そのとき、ドリスの瞳がヴィルヘルムから逸らされ、違う方向に向けられた。ある一点を見つめ、目を見開いている。思わぬ事態に、ヴィルヘルムも、わずかにそちらに視線を移した。そこには


「リラ」


 扉の方から怯えつつも中を心配そうに窺っているリラの姿があった。おそらくクルトが連れてきたのだろう。場所を考えてか銀の髪は布で覆われているが、紫の瞳がこちらを捉えている。反応したのはドリスの方が早かった。


「あなたが……」


 そう呟いたのはドリスなのか、ドリスに憑いているものなのか。目をぎょろりと吊り上げ、美人の面影がなく、凄みだけが増し、獣のようにリラに飛びかかった。クルトとエルマーが庇うようにするも、それを跳ねのけてドリスはリラの首に手をかける。


「邪魔なのよ。消えて! 消えてよ! あなたがいるから、私は……」


 叫んだ声はドリスのものだった。リラの細い首にドリスの指が食い込む。リラはこの状況についていけなかった。クルトとエルマーに指示され、いつものように祓魔の手伝いをするため、と連れて来られたのは、まさかの後宮だった。


 先に足を運んでいるというヴィルヘルムの身を案じながらも、初めて訪れる後宮に鼓動が速くなっていく。そして物音を聞きつけ、部屋に飛び込んだクルトとエルマーに続いて見た光景は、悪魔に憑かれている女性がヴィルヘルムを襲っているというものだった。


 急いで憑いているものを見ようとすると、目が合った瞬間、気づけば自分の前に女の顔があり、すごい形相で睨まれている。とにかく息が苦しくて、首筋に痛みが走る。目を開けているのも辛くなって、意識が飛びそうだ。


「リラ!」


 ヴィルヘルムが十字を切ろうとした瞬間、ドリスは体勢を変えて、後ろから右腕を曲げてリラの体を拘束すると同時に首を挟んだ。髪を覆っていた布がはらりと落ちて銀の髪が流れ落ちる。それを見せつけるようにドリスはヴィルヘルムの方に向いた。その顔は、実に愉快そうだ。再び枯れた声がドリスの口から流れ出す。


「勝手なことを……。だが、いい。この女が大事なら、余計なことをするな。今すぐにでもこの首をへし折ってやる」


 ヴィルヘルムは躊躇った。脅しではなく、奴らがそういうことをするのを厭わないのをよく知っている。まさかの展開にクルトとエルマーの顔にも緊張が走る。


「お前の言う通り、この女とは契約不履行だ。それなら、こいつでいい。見事な銀髪じゃないか」


 いやらしく笑うとドリスはリラに顔を寄せた。リラの顔は息も絶え絶えに真っ青だ。その表情を楽しむかのようにリラを眺め、唇を重ねようとする。抵抗なんてできるはずもない。一瞬の隙をついてヴィルヘルムが前に出て、祓魔の呪文を紡ごうとする。


「ギャァァァ!」


 しかし、なにかを口にする前に、断末魔が部屋に響いた。強い衝撃音と共に、ドリスの体は吹き飛び、床に横たえている。なにが起こったのか理解できないまま、ヴィルヘルムは急いでリラに視線を送った。


 リラは強くドリスを見据えていた。見下すような、冷たい視線。紫の瞳が揺れることなく倒れているドリスを、正確にはドリスに憑いていたものを映す。


「爵位も軍団も持たぬ下等ものが」


 ふっとなにかが抜けたように、リラは気を失って、その場に倒れ込む。それを慌てて、近くにいたエルマーが抱きとめた。急いで息を確認して、ヴィルヘルムに伝える。


 どうやら気を失っただけらしい。ドリスも同じようにクルトが確認する。こちらも同じだった。どうやら悪魔は祓えたようだが、なんとも言い知れぬ不気味さが漂う。あえて指摘することでもない。先ほどのリラの行動だ。


 吐き捨てるように言い捨てたのは、間違いなくリラの声なのに、リラではないものだった。あの瞳さえも、別人だった。不安を煽るかのようにヴィルヘルムの鼓動が乱れていく。


 なにが現れたのか、これはどういうことなのか。とりあえず後宮ので件は片づいたはずなのに、もっと大きな問題を抱えてしまったようだ。


 ヴィルヘルムはリラの顔にそっと視線をやる。紫の瞳は固く閉じられているが、いつもと変わらないリラだ。それなのにどうしても気持ちは淀んだままだった。

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