冷たくて暗い夜
夜になり、太陽が隠れると寒さは一気に増していく。部屋に備え付けられている暖炉に焚かれた炎をリラはじっと見つめた。暖かさにほっとする間もなく、言い知れぬ不安が自分の胸を覆っていく。
呪いというのは本当なんだろうか。それとも、そういう血筋なのか。短命というのは何歳ぐらいまでを指すのか。ヴィルヘルムは、このことをどう思っているのか。
次々に浮かんでくる思考の波に攫われそうになる。それを避けるためにリラは窓の方に近づいた。触れると外の冷たさが瞬間的に伝わってくる。窓の外からはなにも窺えることができない。ただ、闇の世界が広がっているだけだ。
ここからは見ることができない後宮に宛がわれた塔。ここ最近、ヴィルヘルムはそこに足繁く通っていると聞いた。それは喜ばしいことだ。忙しい王のために、少しでも心通わせられるようにと設けられたあの塔には、どんな女性たちがいるのか。
嫉妬なんてする資格さえ自分にはない。戯れでも、慰みでもかまわないと決めたのは自分だ。それなのにリラはヴィルヘルムに会いたくてたまらなかった。
そのときドアがノックされる音が部屋に響く。それは自分の願望が聞かせた音なのかとリラは疑った。しかし視線を向けたドアがゆっくりと開かれ、そこには願望が現実となって姿を現した。
「ヴィル」
「そんなところに立っていると、風邪をひくぞ」
リラの姿を確認した途端、不機嫌そうにヴィルヘルムが呟く。その顔には疲労が滲んでいた。リラにかまわずベッドの方に足を運び、断りもなく腰を落とす。リラはなんだか嬉しくなって急いでそちらに近づいた。
「ヴィルは祓魔師ではなく、本当は魔術師だったの?」
「なにを言っている」
意味が分からずに、眉間に皺を寄せるヴィルヘルムにリラはますます笑顔になった。こんなにも、自分の会いに来てほしいタイミングを狙って来てくれるのだから、本当にすごいと思う。
ただ来たのはいいものの、ヴィルヘルムは黙ったままだ。さすがに失礼な態度だったかと、リラが謝罪を口にしようとしたときだった。
「リラ」
まっすぐに見つめられ、名前を呼ばれたことでリラは動けなくなってしまう。隣に座るように促され、おずおずと反論することなく指示に従うことにした。
「今度、祓魔に付き合ってほしい」
「はい、仰せのままに」
今更、改めて言う話だろうか、とリラは首を傾げた。そんなリラの顔を複雑そうな表情でヴィルヘルムは見つめる。そして次にその口から紡がれた言葉はというと
「寒い」
の一言だった。虚を衝かれたようにリラは目をぱちくりとさせる。ぱちぱちと暖炉が音を立てているのが耳に入り、急いで立ち上がった。
「すみません、すぐに火を強くします」
けれども慌ただしく暖炉に向かおうとするリラを阻むかのように、その手が取られる。
「え」
次の瞬間、さらに強い力で腕を引かれリラはベッドによろける形で、倒れこんだ。気づけば、同じように体をベッドに横たわらせたヴィルヘルムの腕の中にいる。
「こっちの方が温かい」
きつく抱きしめられ、伝わってくる体温に、思わず身震いした。柔らかいベッドと、回された力強い腕の感触のおかげで、状況を意識させられ、なんだか恥ずかしくなってくる。
「あの、風邪を召されては大変ですし」
「それはこっちの台詞だ。あんな窓の近くに立っていたら冷えるだろ」
冷たくなっていたリラの頬にヴィルヘルムが自分の温もりを分けてやるように触れる。それだけのことにリラの心臓は破裂しそうだった。至近距離で双黒に捕らえられる。
「私は疲れているんだ。おとなしく言うことをきけ」
「……はい」
暗に手を煩わせるな、と言われた気がしてリラは素直に身を委ねた。ヴィルヘルムはリラを抱きかかえたまま、その銀糸に指を通して弄り始める。その様子をリラはじっと見つめていた。そして触れられたところから伝わってくる体温、脈拍にひどく安心する。
「泣きそうな顔をしてどうした?」
不意打ちとも言えるヴィルヘルムの指摘に、リラはとっさになにも答えることができなかった。目を見開いて固まったままでいるリラに対し、ヴィルヘルムはその額に唇を寄せる。
「心配なことがあるなら、言えばいい」
「いえ、決してそのようなことは」
慌てて否定しようとするリラの唇にヴィルヘルムは自分のを重ねた。
「やっぱり、冷えているな」
確かめるように言われてリラは今度こそ泣き出しそうになった。そこで昼間のフィーネの言葉が走馬灯のように駆け巡る。
『陛下は素晴らしい王だと思いますが、早くその血を引いた世継ぎの誕生を民も家臣も心待ちにしているのに、なかなかその気配がないのが唯一の難点と申しますか』
『王家は、代々短命なのです。とくに国王となる方はなぜか……』
『呪い、だと聞いています』
「ヴィルはどうして……どうして結婚しないの? 世継ぎを作らないのはなぜ?」
衝いて出た言葉をすぐに後悔するが、もう遅い。どうしてこんなことを訊いてしまったのか。もっと別のことを、他のことを訊きたかったのに。部屋に温もりを与えていた炎の勢いが弱まるのを感じた。冷たさを伴った静寂が部屋に舞い降りる。
「誰かに、なにかを言われたのか?」
耳元に響いてきた言葉にリラはなにも答えられなかった。目を動かすことさえできずにいると、衝撃と共に視界が切り替わる。
ヴィルヘルムがリラを抱きしめたままの態勢で、その体をベッドに押しつけた。おかげで、リラは自分に覆い被さるヴィルヘルムを見上げることになる。凍てつくような冷たい瞳がリラを映していた。
「そんな理由が知りたいなら教えてやる。その気になれないだけだ。それとも、お前がその気にさせてくれるのか?」
自嘲するような薄笑い。リラは瞬きひとつせずに王を見つめ返し、浅く喉元を上下させた。口が震えて、上手く言葉が紡げない。どんな理由でも、そうなれば自分はヴィルヘルムの特別になれるんだろうか。自分は――
「……私みたいな飼い猫と交わっても、生まれるのは化け物ですよ。ヴィルヘルム陛下」
顔を強張らせながらも自嘲的な笑みを浮かべてリラは精一杯の毒を吐いた。そして、戒めのために吐いた毒はそのまま自分にかかる。
ヴィルヘルムの瞳が一瞬だけ揺れたが、それを振り払うように、強引にリラに口づける。抵抗しようにも顎に手をかけられ、顔を背けることも許されない。乱暴な扱いにリラは苦しくなった。傷つくなんて烏滸がましい。どんな扱いを受けても自分は受け入れるだけだ。
舌を絡めとられ、お互いの息遣いがやけに耳につく。幾度となく繰り返される口づけはリラを懐柔させていった。本気で拒まない意味をヴィルヘルムは分かっているのだろうか。そんな思いに駆られると、やはり胸が締めつけられるように痛む。
やっと解放されたときには、息が上がって、涙の膜で視界が覆われていた。ヴィルヘルムは相変わらず涼しげな表情だ。リラの唇をゆっくりと親指でなぞってやる。
「本当に化け物が生まれるのか、試してみればいい。お前が化け物なら、私も十分に化け物だからな」
ヴィルヘルムは紺碧のジュストコールを手際よく脱ぎ捨てる。リラはただ、仰向けになったまま呆然とその様子を見つめることしかできなかった。そして白いシャツ一枚になり、手荒く緩めると、ヴィルヘルムの肌が晒される。それを目にしたとき、紫の瞳はこれでもかというくらい見開かれた。
「それ、は」
「言っただろ、私も化け物だって」
皮肉めいた笑みと共にリラの目に映ったのはシャツの合間から覗くヴィルヘルムの肌に刻み込まれたものだった。左鎖骨辺りから心臓に向かって白い肌にくっきりと、黒いものが浮かび上がっている。その形に見覚えがある。薔薇だ。真っ黒な薔薇が茨を伴って連なり、まるで心臓を襲わんとばかりに伸びている。
ゆっくりとリラも体を起こすが、言葉が出ない。代わりにヴィルヘルムが続けた。
「代々、国王になるものに降りかかるズーデン家の呪いだと聞いている」
「呪、い」
ヴィルヘルムの口から出た名前にリラは聞き覚えがあった。どこで? と一瞬だけ悩んだが、すぐに思い出す。あの一枚だけ欠けていた肖像画だ。
『南領地を統括していたズーデン方伯は没落しました』
「四大方伯の……」
「そうだ。薔薇はズーデン家の徽章にあしらわれていたんだ。あの子ども騙しの昔話をお前も聞いただろ」
リラは静かに頷く。フィーネから聞いた、子どもから大人まで誰もが知っているシュヴァルツ王国に伝わる始祖の話だ。王の偉大さ、寛大さを称えたものだと聞いている。それが今、どういう関係があるのか。
「話の中に反逆を企てた仲間が出てくるだろう」
「まさか……」
リラはようやくヴィルヘルムの言わんとすることが分かって、手で口元を覆った。
「何代も前、ヨハネス王の頃だと聞いている。当時は情勢が不安定で、とくに南の方は緊張状態が続いていたそうだ。そして交渉に赴くように指示した国王に従い、ズーデン方伯は夫妻で話し合いの場を持つため国境付近に足を運んだ。しかしそこで起きた暴動に巻き込まれ死亡。唯一残った夫妻の一人娘が王家を逆恨みして、復讐を果たそうとしたらしい。今はどうか知らないが、あの伝承通り方伯たちも同じような力を持っていたそうだ」
淡々と感情なく語るヴィルヘルムにリラはどう反応していいのか分からない。ただ、王の口から紡がれる話を耳にするだけでリラの心臓は早鐘を打ち、目に見えないなにかに押し潰されそうだった。
「狙いは王家の滅亡だったのか、正確なところは分からない。だが、ヨハネス王の息子であるフェリックス王が、その呪いを返して、なんとかその場は収まったそうだ」
「呪いを……返す?」
状況についていけずにおうむ返しをするリラに王は軽く微笑んだ。
「術者に呪いを返すことだ。おかげで娘は呪いを被り、永久追放となった。そこで処刑しなかったのは、当時の王の甘さか、昔の伝承を意識したのかは知らないが。……だが、話はそこで終わらなかった」
そこでヴィルヘルムは自分の肌に刻まれた黒い薔薇を見つめる。
「呪いが強すぎて、すべては返せなかったようだ。代々、王になる者の体にこの薔薇は突然現れ、面白いことに決まって三年で命を落とすことになる」
なんでもないように放たれた真実をリラはどう受け止めていいのか分からない。頭をなにかで殴られたような、激しい痛みが走る。自分のことではないのに、心臓が鳴りやまず、息が苦しい。
「私にこの薔薇が現れたのは、ちょうど即位して一年経つか経たないかの頃だ」
尋ねてもいいことなのかと、迷っているリラの心を読んだかのようにヴィルヘルムはさらっと自分の残りの寿命について告げた。今は即位して三年になると聞いている。そのことを考えれば、あと一年で……。
勝手に計算してしまう頭をリラは振り払う。いきなり告げられた真実が、まさかこんな残酷なものだったなんて。当事者であるヴィルヘルムの前で泣くわけにはいかず、リラはぐっと力を込めて涙を堪えた。ゆっくりとヴィルヘルムの手がリラの頭に触れる。
「そんな顔をするな。私はとっくに自分の運命を受け入れている。代々そうだった。自分の父親も、祖父も。幸か不幸か、王家はいつも綱渡り状態で続いている。ただ……」
そこでヴィルヘルムは言葉を切った。珍しく悩んでいるのが伝わってくる。リラはただ続きをじっと待った。そして、ややあってから、なにかを吐き出すかのようにヴィルヘルムは口を開いた。
「世継ぎを急がれるのも、残された時間を考えれば、自分がするべきことも分かっている。頭では理解しているんだ。でも、本当にそれでいいのか。自分と同じ思いをさせることを分かっていて、世継ぎを作って、呪われた運命を全部押しつけて消えていくなんて。正しいか、正しくないかなんて問題じゃない。ただ、どうしてもできないんだ。……迷う時間もないはずなのに、ずっと答えが出せない」
痛みを堪えるような悲痛な物言いだった。いつも不敵でどこか余裕のあるヴィルヘルムのこんな姿を見るのはリラは初めてだ。けれど、無理もない。
ヴィルヘルムは自分の運命を受け入れていると言ったが、はっきりと目の前に迫る避けようもない死を、ただ無心に受け入れるなんて、よっぽどではないとできない。現にヴィルヘルムは同じ思いを自分の血を引く者にさせていいのかと迷っている。
王家の血を引く遠縁の者ならいくらでもいると聞いている。けれど、やはり皆が望むのはヴィルヘルムの直接の血を継ぐ者なのだろう。今までの王たちの行く末を知る者たちなら、時間がないと焦るのも当然なのかもしれない。
『それに、どうせ別れる存在だ』
あのときの言葉は、どんな気持ちで発したものだったのか。
「ごめん、なさい」
ずっと押し黙ったままでいたリラの口から、謝罪の言葉が漏れる。ヴィルヘルムは目を見開いて、リラに身を寄せた。
「なぜ、お前が謝る?」
「ごめん、なさい」
リラは俯いたまま、壊れた人形のように同じ言葉しか繰り返せない。この謝罪がなにに対してのものなのか、リラにも明確に理解できない。
ヴィルヘルムの事情を知って、自分がなにもできないことに対してか。事情も知らずに、失礼な質問を投げかけたことか。分からない。けれど、謝らざるをえなかった。そうしないと心が壊れそうだった。
ヴィルヘルムは再度リラを抱きしめて、そのままベッドに身を倒した。額同士を合わせて強引に視線を交わらせる。
「そんな顔をせずに笑っていろ」
命令された言葉とは反対に、リラの視界は涙で歪んでいく。王はそっとリラの目元に唇を寄せた。リラは反射的に目を閉じる。そして、ゆっくりと離れて、互いに見つめ合ってから唇を重ねた。
先ほどの口づけをやり直すかのように、優しく、甘く、慈しむかのような触れ方だった。それだけでは物足りなくなって、リラは思い切ってヴィルヘルムに腕を回して密着させる。応えるように、ヴィルヘルムもリラを強く抱きしめ返して、深く求めた。
「最後まで、そばにいてくれないか?」
切ない吐息混じりに囁かれた言葉に、リラの心は大きく揺らいだ。整わない息は、この口づけのせいなのか、それとも――。泣きそうになるのを必死に我慢して、静かに目で応えると、リラから唇を重ねた。冷たくて暗い夜、穏やかなオレンジ色の光だけが二人を照らしていた。




