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必然へ向かって

どうか、どうか私のそばにいらしてください。ヴィルヘルム陛下

それが私の望みです。それが私に求められていることなのです。

ですから、どうか私を――




「おやめ、ください。陛下、どうかお許しを」


 月さえも雲に隠れて、夜の暗闇が光を遮っている。しんと静まり返っている城のある一角で、女のすすり泣く声が響いている。哀願するような泣き方だった。しかし、それに対峙する者は、なんの感情も動かされない。


 男が一歩近づく度に、髪を振り乱し、女は身を捩って必死に抵抗するが、その形相はより一層、険しいものになっていった。ヴィルヘルムは、かまわずにまた足を踏み出し、遠慮なく距離を縮めていく。


 その口から紡がれるラタイン語が凛と響くと、女は苦悶に満ちた顔でなにかを嘔吐した。床には固い金属音が響く。鼻をつく臭いと共に吐き出されたのは無数の釘や針金のようなものだった。


 吐き出すときに傷ついたのか、口の中は真っ赤だ。それなのに女は笑っている。妖艶に誘うかのような不敵な笑みを。口端が裂けそうになるほど高く上げている。


 普通の者が見たら、目を背けたくなるような光景だった。けれどもヴィルヘルムは女から目を逸らさずに、十字を切って力強く言葉を続ける。すると、女は後ろからなにかに突かれたような、弾かれたような衝撃を受けて、その場に倒れこんだ。


 しばらくその場から誰も動けない。ややあってクルトが警戒しつつも女の元に近づき、様子を確認した。失神している女の顔には生気がないが、息はかすかにある。


「これで何件目だ?」


 まるで息を止めていたかのように深く呼吸し、王は言葉を吐き出した。正確にその答えは返ってこなかったが、ここ数週間で四回目の祓魔だ。この数は異様だ。少なくとも、ヴィルヘルムはこんな間隔の短さを経験したことがない。しかも同じ場所でばかり、ここ後宮でのことだ。


 前にもここでの祓魔は経験したことがある。そのときも同じように響いた女の泣き声や断末魔のおかげで、ヴィルヘルムは、とんでもない加虐主義者(サディスト)だという噂が(まこと)しやかに囁かれたわけだが。


 しかし、今回はそんな噂で落ち着くとも思えない。薄々と人ではないなにかの仕業なのでは、と不安を声にしている者も出てきている。


「陛下があまりにも後宮に足を運ばないから、奴らが呼んでくれているのかもしれませんよ」


 不謹慎ともとれる発言をしたのはエルマーだ。けれども、その顔は戸惑いが隠しきれていない。誰もがこの事態をどう受け止めていいのか分からない。


「陛下、彼女を連れてきましょう」


 倒れた女性に簡単な応急処置を施し、ベッドに運び終えたクルトが提案する。彼女というのは、もちろんリラのことだ。


「場所が場所だ。相手を必要以上に刺激させることもない」


「それを差し置いてもです。もうそんなことは言っていられない。後宮でも、このことは不安を呼んでいる」


 クルトの厳しい声が飛び、ヴィルヘルムは眉根を寄せた。どうしても後宮というこの場にリラを連れて来るのは憚れた。祓魔の相手を考えれば、同性のリラを連れていくのは、余計な刺激になりかねない。そう思ってヴィルヘルムはここ最近の祓魔にリラを同行させていない。けれども、それも限界のようだ。


「彼女をなんのためにここに置いているのか、あなたが一番、よく分かっているはずでしょう」


 釘を刺すような言い方にヴィルヘルムはわざとらしく肩を落とす。


「分かっているさ。ただ……風邪をひかせては困る」


 その発言はどこまで本気なのかクルトにもエルマーにも推し量ることはできなかった。ただ、先ほどから吐く息は白い。雪は降らないものの、王都には冬がやって来ていた。




 窓から見える光景は随分と寂しくなってしまった。葉を落としていく木々が少しずつ色を失っていくのを見るのはなんとも寂しい。リラの育った村では雪が降るのが当たり前だったので、あまり雪の降ることのない王都での光景は、それはそれで珍しかった。


「っと、大体シュヴァルツ王国の大まかな歴史の流れはこんな感じです。リラさま、聞いてます?」


「あ、はい」


 改めてフィーネに指摘され、リラは慌てて意識をそちらに向けた。日中、リラはこうしてフィーネから国内外の情勢や内情、国の歴史、基本的な作法などを教えられていた。


 まさに専属の家庭教師だった。けれども、どうせ時間を持て余してる身だ。自分は一応、この国の出身者なのにあまりにも知らないことが多すぎて驚いた。閉鎖的な村だということもあったが、フィーネの説明によると、リラの住んでいた村のあるゲビルゲ山脈がシュヴァルツ王国のものになったのは、比較的新しい話らしい。


 そんな話を真面目に聞いてはいるものの、たまには退屈になって外に意識を飛ばしてしまうこともある。急いで謝ろうとしたが、フィーネは同じように窓の外に視線を投げていた。


「あ、ほら。さっき説明したばかりのフェリックス王の薔薇園です。彼は王として即位する前は、あの薔薇園でほとんどの時間を過ごしていたそうですよ。あまり公務に興味もなく色々と先行きを不安がられていたそうですが、王として即位してからは、人が変わったように民のために尽くされたそうで、父親のヨハネス王と共に、その名は今でも受け継がれております。生涯、独身だったのが、勿体ないところではありましたが」


 薔薇園らしきところは、今は時期的に花は咲いていないが、上から見ても特殊な形をしていた。城の正面入口から東に伸びた細い小道には、いくつかのアーチのようなものが薔薇園へと案内するようにかけられている。


 それを潜り抜けると、小さな白い屋根と薔薇の木々が太陽をわずかに遮るようなスペースになっており、さらにそこをぐるっと覆うように薔薇の木々たちが取り囲んでいる。おかげで、人がいたとしても、上からはよく見えない。まさに秘密の花園という言葉がぴったりだ。


 あそこでフェリックス王はなにを考えていたのか。


「薔薇が好きだなんて素敵だね」


「そうですね。おかげで薔薇が恋人だなんて揶揄されていましたが。その証拠に、ある品種の薔薇がとくにお気に入りで、彼が亡くなるときも棺にその薔薇を一緒に入れてほしい、と生前頼んでいたほどらしいです。どんな薔薇だったかは失念しましたが」


「そうなんだ」


 思いを馳せていたところで、フィーネが続きの講義を促したので、リラは背筋を正した。


「フィーネ、わざわざごめんね」


「いーえ、かまいませんよ」


 フィーネはにっこりと笑った。編みこまれた赤毛が嬉しそうに揺れる。それからフィーネは少しだけ申し訳なさそうな顔になった。


「こんなことを言ったら、気を悪くされるかもしれませんが、正直、リラ様が読み書きできることに驚きました。王都はともかく、この国の識字率はそれほどまでに高くはありませんから。誰に習われたんです? それとも、そういう施設が?」


「いえ、祖母に個人的に」


「お祖母さまは学の高い方だったんですね」


 指摘されて初めてリラは気づいた。自分は昔から当たり前のように読み書きができたが、それは祖母から教えられたものだった。祖母は自分にだけでなく、村の子どもたちや、求められれば大人にも文字を教えたりしていた。


 では、祖母は誰に習ったのか。村に学校のようなものはない。祖母もまた自身両親に教わったのか。では、その両親は? 悶々とする思考を払う。それはきっと重要なことではない。それなのになリラは妙な引っ掛かりを覚えていた。


「それにしても、ヴィルヘルム王もフェリックス王のようにならなければよいのですが」


 ため息混じりに呟かれたフィーネの言葉にリラの思考が吹き飛ぶ。フィーネにとっては、なにげなく口に出した言葉のようだが。


「陛下は素晴らしい王だと思いますが、早くその血を引いた世継ぎの誕生を民も家臣も心待ちにしているのに、なかなかその気配がないのが唯一の難点と申しますか」


「なぜ、そこまでして世継ぎを急ぐの?」


 リラには王家の事情などは詳しくは分からない。それは当たり前のことなのかもしれない。しかしフィーネはその問いかけに顔を曇らせた。


「リラさまは、前国王のことをご存知ですか?」


 真剣みを帯びたフィーネの問いかけに、リラは静かに首を横に振る。名前だけは知っている。ヴィルヘルムの父親に当たるケヴィン王だ。若くして亡くなり、そのあとを継いでヴィルヘルム王が即位したのだと聞いている。フィーネは伏し目がちに硬い声で続けた。


「王家は、代々短命なのです。とくに国王となる方はなぜか……」


 耳を疑いたくなるような発言。リラは自分のことでもないのに、心臓が直接握られたように縮みあがった。そして痛みだす。それは、誰の? 国王ということは、つまり……。声が、言葉が出てこない。ただ冗談ですまされるような話ではないことだけは分かる。


「どう、して」


 精一杯の返答がそれだけだった。鼓動がどんどん強く速くなる。口の中がからからに乾いていく。フィーネは静かにかぶりを振った。


「正確なことは、分かりません。城の者が好き勝手言っているだけかもしれません。ですが、偶然にしては、ずっと続いていることだそうで。……呪い、だと聞いています」


 呪い、という言葉がリラの脳裏にはっきりと刻み込まれた。信じられない気持ちと、信じたくない気持ち。でも、もしもそれが事実なのだとしたら、と考えると、胸が切り裂かれそうに痛い。なんだか泣き出しそうだった。


「すみません、余計な話をしました。どうかお忘れください」


 リラの悲壮感漂う表情にフィーネは慌て始める。リラの頭は働かない。それでもフィーネに心配をかけるわけにもいかない。必死で笑みを浮かべて、話題を変えた。けれどもリラの頭から呪いという言葉が離れることはなかった。

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