悪魔憑きを疑われる少女
数日後、ブルーノからシュライヒ家との段取りが済んだとの連絡を受け、リラとエルマーは直接シュライヒ家を訪れる運びとなった。足元を掠めそうなほど長い菖蒲色の外着に着替えたリラの髪を化粧台の前でフィーネが丁寧に結い上げていく。
「本当は私も一緒に参りたいのですが」
何度目かのため息をついて、フィーネの手が止まった。しかし、怪奇な現象が続いている館にフィーネを連れて行くのは危険だという判断で、今日は留守番することになったのだ。
「そんな、大丈夫だよ! 今日は話を聞きに行くだけだし」
リラは首を捻って後ろを向こうとしたが、それはフィーネに制される。リラの長い髪はフィーネの手によって丁寧に編みこまれ、すっきりと纏められていた。仕上げに髪を覆い隠すように乳白色のヴェールが被せられる。レースがあしらわれ、手触りも滑らかだ。純粋に髪を隠すだけには勿体ない代物だとリラは思った。
この前の市を覗いて分かったことだが、髪を隠す女性は意外と少なくはなかった。フィーネに聞けば、貞淑さを表すためやファッションなど、理由は様々らしい。なんにせよリラがこうして頭に被っていることはなんら不自然なことではなかった。
髪の準備を終え、ゆっくりと椅子から立ち上がりフィーネの方に振り向く。フィーネは改めて、正面からヴェールを整えた。
「陛下から、リラさまに。とってもお似合いです。まるで花嫁さんみたいですね」
満足そうなフィーネの笑顔にリラは言われた言葉も相まって、気恥ずかしくなる。しかし、すぐにその気持ちは萎んだ。花嫁だなんて、夢のまた夢の話だ。
そしてふと、リラは自分の中にある矛盾に気がついた。自分はこの奇異な紫の瞳が、銀の髪が嫌いだった。それならば、瞳はともかく髪ならヴィルヘルムに提案したように、目立つことのない長さまで切ってしまえばよかったのだ。
どうして今までそうしなかったのか。髪を隠すことは何度もあった。でも、リラの髪は今も腰の位置よりも下にあるほど長い。切る、という選択肢がヴィルヘルムに提案するまで自分の中にはなかったのだ。
なぜなのか。幼い頃からのなにかの刷り込みか。ずっと“切ってはいけない”と思っていた。
そのときドアがノックされ、思考を中断させる。フィーネが返事すると、顔を出したのはリラを待っていたエルマー、そして
「やぁ、リラ! 今日はよろしく頼むよ。綺麗な髪を隠しているのは残念だけど、隠していても相変わらず魅力的だね」
ウインクひとつ投げかけられ、会って早々、淀みのない世辞を並べ立てるブルーノだった。
ヴェステン方伯が管理する西の領地は、さらに四区画に分かれており、シュライヒ家は王都側となるヘルプスト区にあった。この前、調べにいった大樹の近くだったので、大体の地理は把握している。今回は顔繋ぎの意味もあり、ブルーノも共にシュライヒ家に行くことになった。
ブルーノが乗ってきた馬車に乗り込み、馬の嘶く声と共にゆっくりと車輪が回り始める。城から目的の場所までは二時間以上は要する。それでも少しずつ舗装したおかげで、車輪の動きが滑らかになり、昔に比べると移動時間は短縮されたという説明がエルマーからされた。
車内では緊張した空気が流れつつも、ブルーノが気を利かせて、色々と話題を振ってくれた。昼過ぎには目的地にたどりつき、面々は馬車から降りると、凝り固まっている体を解すように動かす。
シュライヒ家の館はなかなかのものだった。緑のアーチをくぐると、レンガ造りの堂々たる屋敷が訪問者たちを出迎える。ところどころ蔦が絡んでいるのが、歴史の重みと凄みを感じさせた。
ブルーノの付き人であるユアンが重厚なドアを叩く。どことなく緊張した面持ちで待ちかまえていると、中から出てきたのは中年の男性だった。ユアンとブルーノを見て、軽く微笑む。
「これは、ヴェステン卿。そしてお連れの方も、わざわざすみません。オスカー・シュライヒです。さぁ、どうぞ中に」
ドアを大きく開けて招き入れられ、リラは不躾を承知で、物色するかのように館の中を見回しながら足を進める。はっきりと不穏な影は見られなかったが、どうも空気が重い。酸素が薄いとでもいうのか、息を吸っても肺に空気が満たされないような苦しさだ。中の薄暗さが、さらに拍車をかけている気がした。
一行が案内されたのは食堂だった。館の大きさに比例し、立派なものだった。白いクロスは染みひとつない。テーブルも、客人全員が座ってもまだ十分なスペースがある。しばらくして、オスカーが、ガチャガチャと音を立ててお茶の用意を運んできた。
「すみません、妻は今、床に臥せておりまして」
「お見舞い申し上げます。どうぞお気遣いなく」
エルマーが申し出る。オスカーはお世辞にも手際がいいとはいえず、無骨な手でお茶を淹れ始めた。茶色と金を混ぜたような、獣の毛みたいな髪は大きくうねり、大雑把に一纏めにしている。無精髭を生やし、表情は明るかったが、どこか疲れが滲んでいた。
「元々、ここは僕の家ではなく、友人のものでして。広さは十分すぎるほどあるんですけどね。ただ、それが逆に辛いときもありますが」
「シュライヒさん。この家で起こることについて、改めて彼らにも詳しく聞かせてくれませんか? 大丈夫、彼らは王室から派遣された優秀な者たちですから」
言葉尻を濁すオスカーにブルーノがきっぱりと告げる。それを受け、オスカーは、リラとエルマーにゆっくりと目を向けてから、重々しい口を開いた。
この館の元の持ち主であり、メラニーの父親であるゴットロープと、妹のカミラ、そしてオスカーは昔馴染みだった。幼い頃から物静かで、読書をしながらひとりで過ごすのが好きな兄に対し、妹のカミラは快活で、どちらかといえばお転婆気味な性格。実に対照的な兄妹だったが、それでも三人の仲は悪くなかったという。
そんなゴットロープが結婚したときは、オスカーもカミラも大層驚いたが、純粋に祝福した。父親から譲り受けたこの館で、彼は幸せな新婚生活を送り始めた。結婚して一年後にはメラニーも生まれ、お祝いに訪れたオスカーとカミラが見たのは、堅物と思っていたゴットロープが幸せそうに笑っている姿だった。
「ただ、彼の妻が亡くなってからゴットは変わってしまいました。昔以上に誰も寄せつけなくなり、黒魔術や悪魔学の本を読み漁るようになったんです」
まだ幼いメラニーを残し、先立った妻への悲しみを紛らわすかのように、部屋に、そして自分の殻に籠るようになったゴットロープ。度々、心配して様子を見にきたシュライヒ夫妻に対しても会うのを渋り、とりつく島もなくなっていった。
一人娘のメラニーも無口で、同じ年齢の子どもたちに比べれば不気味なほど、おとなしい。そして、無理な生活をしたのが祟ったのか、ついにゴットロープが倒れたのを機に、シュライヒ夫妻はここに住み込み、ゴットロープやメラニーの面倒をみることにしたのだ。ゴットロープが亡くなった今も。
「まさか、あんなに早く妻の後を追うなんて。ゴットは心臓が弱ってて最後はどうすることもできませんでした」
悔しさを滲ませた声に、誰も言葉を発せられなかった。そのとき、食堂の入口付近で物音がし、一同の視線がそちらに向く。そこには、長いブロンドの髪は顔にかかり、ふらふらと今にも倒れてしまいそうな婦人の姿があった。
「わざわざメラニーのために来てくださったのに、お出迎えもせず、すみません」
蚊の鳴くような声で挨拶される。オスカーの妻であるカミラだった。オスカーから聞いていた快活という印象は、今はまったく感じさせない。カミラは、覚束ない足取りで壁にもたれかかりながら客人たちに近づいていく。
「お願いです、あの子を助けてください。あの子は、メラニーは悪魔に憑かれているんです。だ、だってあの子、お、おかしなことばかり言って! そう思えば今度は全然喋らなくなって! なにを考えてるのか分からないんです! いつも兄さんのおかしな本ばかり読んで! あの子は、あの子だけは!」
「カミラ!」
諌めるように、支えるようにオスカーはカミラのそばに駆け寄り、その体を抱き止める。興奮状態のカミラは、まだなにかを喚いていた。
「すみません、妻を部屋に送っていきます」
早口で告げ、オスカーはカミラの肩を抱いて、部屋を後にした。残ったのは、重たい沈黙だけだった。
「どう思う?」
沈黙を破ったのはブルーノだった。その問いかけは、リラとエルマーに投げられたものだ。エルマーは珍しく顔をしかめ、リラは目線を落とす。答えたのはエルマーの方だ。
「まずは、メラニー本人に会ってみないことには……しかし、今回は思った以上に手強そうですね」
「おかしなことばかり、ってなんのことなんでしょうか?」
「この館に関しては色々あるみたいだからなぁ」
リラの質問に、ブルーノは行儀悪く頭の後ろで手を組み、背もたれに豪快に体を預けた。
「ブルーノ様、役目は果たされました。我々はもう引き上げましょう」
なんとも情けない声をあげたのは付き人のユアンだ。頭の白さのおかげで、実年齢よりも老けて見えるが、それは彼の主人の無茶ぶりのせいもあるのだろう。そのときオスカーが気まずそうな顔で戻ってきた。
「先ほどはすみませんでした」
「いえ、奥様の調子はいかがですか?」
すかさず返したのはブルーノで、オスカーは無理矢理笑顔を作る。
「大丈夫です、また眠りましたから。妻も兄を亡くし、参っているんです。本当は、その悲しみを分かち合うはずのメラニーとも上手くいかなくて……」
「メラニーに会うことはできますか?」
「ええ、もちろん。どうか会ってやってください。ただ、あの子と話をするのは難しいかもしれません」
それから、全員でいきなり部屋を訪れるのもメラニーを警戒させるだけだ、という結論になり、リラとエルマーがメラニーと直接会うことになった。
「やはり、相手も少女とはいえ女性ですし、同性の方がいいでしょう」
本音はメラニーに悪魔が憑いているのかをリラが見る、というところにあるのだが、オスカーもいる手前あえてエルマーはそう話しかけた。
「あの、先ほど奥様が仰っていた『おかしなことばかり言って』というのは、どういうことなんでしょうか」
リラが前を歩くオスカーに躊躇いがちに問いかける。オスカーはああ、と振り返ることもなく話し始めた。
「ゴットが亡くなってしばらく経ってからです。この家でメラニーがいきなり、誰もいないところに話しかけたり、リアクションをとるようになったんです。誰と話してるんだい? と尋ねると不思議そうに、『ほら、ここにいるでしょ?』なんて、なにもない空間を指差したり。最初は父親が亡くなった精神的ショックからくる空想かとも思ったのですが、そういうわけでもないんです。ついには壁からノック音が聞こえたり、不気味な獣のような声や、物が勝手に散らかるようになって。それがどう考えても、とても人間 業とは思えないような状態なんです」
淡々と話しながらも、理解できないことへ抱く恐怖が声から伝わってくる。その現象の理由は分からない。でもなにかが、必ずあるはずだ。
その原因と思われし本人に今から直接会うこと思うと、緊張が走る。とあるドアの前でオスカーが足を止め、改めてリラとエルマーに向き直った。
「この部屋でメラニーは普段、過ごしています。でも、ここは元々ゴットがずっと篭っていた書斎なんです。昔はもっと明るい女の子だったのに、いつからかほとんど話をしなくなり、それと同時にあの子はこの部屋でゴットの残した本を読み漁るようになりました。いくら止めてもきかなくて、妻もあんな調子に……」
オスカーは言葉を止めた。そして、リラとエルマーにどうかメラニーをお助けください、と深々と頭を下げる。案内されたのは、一階の突き当たり奥の部屋だった。
「メラニー、お客様だよ。入るね」
ドアをノックし、オスカーが一応断りを入れてから、返事を待たずに開ける。それに続いたリラは緊張した面持ちで中を覗いた。部屋はお世辞にも広いとは言えず、いや正確には広いのかもしれないが、そう感じさせないほどの圧迫感と密集感だ。
向かって左奥に書斎机がひとつあり、光が当たるようにか、机から手が伸ばせそうなほどの距離で、斜め右上に窓がある。そして両サイドの壁に沿って、天井に届きそうな高さの本棚がこちらに迫るように連なり、それぞれにびっしりと分厚い本が並んでいた。
肝心の少女は、絨毯にそのまま腰を落として、足を広げ、視線は本に釘づけだった。まったくこちらを見向きもしない。いくつかの本が適当に散らばっていた。
「メラニー、ご挨拶しなさい」
優しく声をかけるも少女は反応しない。まるで見えない壁が、こちらとを隔てているかのように、メラニーはぴくりとも動かなかった。視線と共に、こげ茶色の髪も顔を隠すように、はらはらと落ちて、表情もまったく分からない。
「メラニー、お前のためにわざわざ来てくださったんだ。そんな本を読むのはやめて、ちゃんと話をするんだ!」
さすがに痺れを切らしたのか、客人の手前というのもあるのか、オスカーがいつになく強い声を張り上げる。その瞬間、なにか黒い影が部屋を横切った、ようにリラには思えた。しかし速すぎて、なにかまでは認識できなかった。
部屋中に視線を巡らせたが、もうなにも見えない。一体、なんだったのか。リラは再び、目の前のメラニーに視線を戻す。
「初めまして、メラニー」
一応、挨拶してみるものの反応はない。もしかして耳が不自由なのか、そう思わせてしまうほどだった。さらにもう一歩リラがメラニーに近寄ったそのとき
「大変だ、食堂が!!」
ものすごい剣幕で部屋に飛び込んできたのはブルーノだった。息が切れ切れなのは、急いできたからか、それとも、それほどの出来事があったからなのか。とにかく来てくれ、と促され、やはりこちらを見向きもしないメラニーを尻目に、リラたちは食堂に向かうことになった。




