ブルーノ・ヴェステンという男
石畳のでこぼこ道の両側には多くの露店が所狭しと並ぶ。色とりどりの果物や野菜はバランスよく積み上げられ、綺麗なグラデーションを作りあげていた。商人たちの活気づいた声が飛び交い、その声に誘われるようにして人々は時折、足を止めて目当てのものを購入する。
その中でも、一際人だかりができて賑わっているのは恐ろしく地味な店だ。そこで売られているのは海産物だった。内陸国であり、さらにその中心部となる王都では魚はめったに手に入らない。
しかし、こうしてたまに近隣諸国から保存用にと塩漬けされた魚がまとめて卸され、売りさばかれるのだ。値段も桁違いで、買えるのは上流家庭と一部の人間だけ。なので集まっている人間の大多数は興味本位の冷やかしだったりする。
そこにひとりの少女が人波を掻き分け前へと顔を出した。周りの大人よりも、頭がいくつ分も低く、年は十くらい。背中に届くこげ茶色の髪は切り揃えておらず、あちこちに跳ねており、前髪も伸ばし放題でその瞳の色を窺うことも難しい。
どこからどう見ても客には見えず、商人は彼女を無視した。しかし次の瞬間、商人だけではなく、周りの大人たちも彼女に注目することになる。少女は無言で腕をつきだし、その掌には金貨が何枚も乗せられていた。
ヴィルヘルムは、眉を曇らせながら、執務に取り組んでいた。おろしたてだからか、インクを十分に含ませたペン先は、紙の上を泳ぐようにいつもより滑らかに文字を綴っていく。
「そんな顔してると、お前の側近みたいな顔になって、戻し方を忘れるぞ」
「余計なお世話だ。そもそもお前が来なければ、こんな顔はしていない」
「え、なにそれ。俺のせい?」
「ブルーノさま! 無礼が過ぎます!」
初老の男性が、顔面蒼白で叫んだ。叫ばれた方はまったく気にせず、さらに王との距離を縮め、大胆にも作業中の机に肘をかけて体重を乗せてくる。そんなことでは軋むことのない作りではあるが、王の不快感を増幅させるのには効果があった。
癖のある鋼のような硬い髪を束ね、その色は百獣の王を連想させる。がっちりとした体つきなのに、表現は柔和で常に口角が浮いている印象だ。気安そうでいて、その瞳には獰猛さが光っているのを王は知っている。
ブルーノ・ヴェステン。四大方伯のひとり西のヴェステン家の次期当主である。王と年も変わらないこの青年は、先日行われた父親の誕生日祝いの御礼を伝えるため、という名目でヴィルヘルムを訪ねていた。しかし、それが本題ではないというのは火を見るより明らかだ。
この男がこうしてわざわざ自分の元に足を運ぶときは、ろくでもない話題も一緒なのを長年の付き合いで嫌というほど経験してきている。その予感は今回も的中した。
「この前の舞踏会で気になった娘がいたんだけど、声がかけられなかったんだ。そっちで招待客は把握してるだろ?」
ヴィルヘルムは心の中で舌打ちした。自分も人のことは言えないが、ブルーノは身を固める気配をまったく見せず、いつも様々な令嬢と浮き名を流している。
「そんなくだらないことに手を貸す義理はない」
手を休めることなくヴィルヘルムは返す。ブルーノはわざとらしく口を尖らせた。
「義理はあるだろ。手間はとらせないって。特徴的ですぐ分かると思うんだけど。隠すようにしていたけど、銀色の綺麗な髪をしていたんだ」
ペン先がわずかに滲む。それを知ってか知らずか、ブルーノはかまわずに続けた。
「舞踏会が始まる前に見かけたんだ。そのときは別の令嬢の相手をしていたんだが、一瞬にして目を奪われたよ。舞踏会の間中探したんだが見つからなくて」
「幻でも見たんじゃないのか?」
「見てないって。顔と目はいいんだ。知ってるだろ?」
仕上がった書類を軽く持ち上げると、そばに控えていたクルトが無言で受けとる。やはりその眉間には線が刻まれているが、これが彼にとっては普通なのだからしょうがない。ヴィルヘルムはブルーノの相手をしないことを決め込み、次の紙に手を伸ばした。目の前の男からは、そういえば、とさらなる言葉がついて出る。
「この城に今日来て、面白い話を聞いたんだ。なんでもヴィルヘルム陛下のお気に入り、いや客人として少し前から城に滞在している女性は、研ぎ澄まされた剣よりも見事な銀髪の持ち主だって」
ここで初めてヴィルヘルムは顔を上げてブルーノを見た。チェシャ猫のような含みのある笑みを浮かべ、その後ろでは彼の付き人が平伏しそうな勢いなのが対照的だ。
「世継ぎを作らないと周りがやきもきしている中、随分ご執心みたいじゃないか。そんなに俺に会わせたくない? ますます興味が湧くなー」
最初から自分の反応を窺うために、わざわざ訊いてきたのかと思うと嫌悪感が吹き出る。しかし、ブルーノがそういう性格なのはとうに知っている。代々続く交流に、ブルーノとヴィルヘルムは友人と呼ぶにはあまりにもむず痒いが、お互いにあまり猫を被らないですむ相手ではあった。
「彼女には仕事を手伝ってもらっている」
「ああ、あの裏家業の」
なんでもないかのように放たれた言葉にヴィルヘルムは眉をつり上げた。王家の祓魔の力は、王の近しいものと、四大方伯の当主のみが知るものだ。どうやらブルーノは次期当主ということで例外のようだが。
どこまで本当かはヴィルヘルムも知らないが、元々方伯たちも王家と同じように祓魔の力を宿していたという。その力は徐々に弱まり、今は王家のみが、その力を受け継いでいるという話だ。ブルーノは口の端をさらににやりと上げる。
「それなら尚更会ってみたいな。今日はその話もしにきたんだ」
紅茶のいい香りが立ち込め、鼻孔をくすぐる。そして、行儀が悪いのを承知で、わざとカップを両手で持つと指先からじんわりと温もりが伝わりリラは安堵の息を吐いた。
「いやぁ、それにしても助かりました。何人か同じような証言があったので気になっていたのですが、自然現象という形で決着がついて」
かちゃり、という音を立て、一度カップをソーサーに戻したエルマーが晴れ晴れした顔で笑った。
とある大樹の元で『悪魔が出る』との噂が民衆の間で広まっているのを聞きつけ、リラを連れて調べに出たエルマーだったが、リラの目に邪悪なものが映ることもなく、結果的に葉鳴りと突風により葉が舞い上がったのを勘違いしたのだろうという結論になった。
その証拠に、齢数百年を思わせるような大樹は、幹も太く立派なもので、葉は重たそうに枝を揺らしていた。秋も深まり、これからどんどん葉を落としていくのだろう。葉が舞うのを見るだけで圧倒されるものがあったので、人々が勘違いしたのも無理はなかった。
怪我が回復してから、リラはこうしてヴィルヘルムの祓魔の仕事を手伝うようになった。と言っても、ヴィルヘルムが祓魔を行うことはほとんどない。むしろ、本当に王が出向く必要があるのか――悪魔が絡んでいる事案なのか――判断するための下調べの手伝いだ。
今までは周囲から情報を集め、過去の事例から共通点を探りだしたりと、慎重に結論を導き出していたが、リラの瞳によって、その結論はあっさりと得られるようになった。おかげで主にひとりで下調べ業務を請け負っていたエルマーは、リラに感謝するばかりだ。いつもなら数日かかる調査が、こうしてまったりお茶を飲める余裕さえできてしまうのだから。
「お役に立ててなによりです」
リラもまた、ソーサーにカップを戻し、にこりと微笑んだ。調査から戻った二人は、リラの自室でフィーネの淹れたお茶を堪能している。
「ヘルプスト区に行かれたなら、市が賑わっていたんじゃないんですか?」
エルマーの空になったカップにお代わりを注ぎながらフィーネが尋ねた。朝焼けのような明るい色の液体からは微かに柑橘系の香りがする。
「ええ、相変わらずすごい人でしたよ。僕たちは行きませんでしたが」
「そうなんですか。なら、リラさま今度一緒に行きましょう!」
急に話題を振られてリラは目を丸くする。実は遠目に市を見て、密かに気になっていたので、フィーネの申し出は有り難かった。人も物も多く、楽しそうな雰囲気。目を奪われそうな多くの品々。じっくり見てみたいという気持ちが自然と湧いてきた。けれど
「この見た目だと、難しいかも」
苦々しく笑いながら、リラは自身の髪をひと房摘まんだ。銀髪に紫の瞳。城の中でさえ、この外見について色々と言われるのだ。あんな人の多いところに行けば、注目を浴びるのは目に見えている。
それに対し、フィーネかエルマーが口を開こうとしたそのときだった。ノック音が聞こえ、三人の注目がそちらに集まる。入ってきたのはヴィルヘルム、そして
「やぁ、こんにちは。初めまして!」
姿を視界に捉えるなり、ブルーノは一目散にリラのところに歩み寄った。突然の見知らぬ男の登場にリラは咄嗟に身構える。ブルーノは胸に手を置き、膝を折ってリラを見上げた。
「僕の名前はブルーノ・ヴェステン。ヴィルヘルム陛下の友人だから、そう警戒しないでください。舞踏会の日、あなたをひと目見てずっと忘れられなかったんです。お会いできて光栄ですよ」
立て板に水で捲し立てるブルーノにリラだけでなく周りも圧される。ゆっくりと立ち上がり、見上げていた目線が見下ろす形になったが、ブルーノはリラをまじまじと見つめ続けた。
「お名前を頂戴できますか?」
リラは顔をわずかに首を動かし、ヴィルヘルムを窺った。その顔は不機嫌そうではあるが、強く咎めてはいない。なので
「リラ、と申します」
緊張しながら名を告げることにした。たったそれだけのことにブルーノは大袈裟に返す。
「リラ! 素敵な名前だね。その銀髪も見事だ、とても美しい!」
褒めながら、どさくさにまぎれてブルーノの手がリラの髪に触れようとしたその瞬間、
「触るな」
殊更、低い声が二人の間に割って入った。ブルーノの腕を掴んで触れるのを阻止し、ヴィルヘルムが鋭い視線を送っている。
「調子に乗るなよ。これは私のものだ」
一触即発。空気さえも凍りつき、その場にいる誰もが息を止めて固まった。その雰囲気を打ち破ったのは、原因を作ったブルーノ本人だった。
「やれやれ。べつに取って食おうって言うわけでもないのに」
仰々しく肩を落として、両手を軽く上げる。その後ろでは彼の付き人がとうとう泡を吹いた。
「おひさしぶりです、ヴェステン卿。とりあえず皆さん……場所を移動しませんか?」
冷静な声でエルマーが提案する。気がつけば部屋には、リラとフィーネ、そしてエルマー。後からやってきたヴィルヘルムにブルーノ。彼の付き人であるユアンに、さらには扉のところではクルトも控えている。どう見ても手狭なのをまずは解決するべきだった。




