01
―― カミヤくん、ちょっと。
普通より少し小さな声で、しかしいつもながら明瞭な発音で、一課課長の花村が物かげから神谷を手招いた。
「昨日はお疲れさま、ゾンビ、けっこう処理したって?」
「はあ」
神谷は敢えて表情を見せずに答え、さりげなく窓の外を見るフリをして花村の臭い息を避ける。
彼も、単に神谷をほめてくれようと呼びつけたようでもない。
「5体ほど地下にいて、まとめて片付きました」
花村は大きく一歩寄って彼の右肩をぽんぽんと軽く叩いた。
「さすが期待の新人。おかげでまた二課に差がついたよ」
そしてすぐにまた一歩さがり、「ところで」また声を潜める。
「先日の三社ミーティングの、資料だけどさ」
急にまったく違う話になる。
「はい」
「二課が用意したって……本当?」
「はあ」
このマルヤマ・コーポレーションに入社し、実務一課に配属されてすでに三ヶ月、しかし神谷は今でもこの課長の真意を計りかねてしまう。
「何か、まずかったですか?」
「いや……」
否定しながら、花村は人差し指をあごに当てたまま、どこか宙に目を泳がせている。
何か言いたいことがあるに違いない。しかも、苦情だ。
神谷は密かに息をためて、次のことばを待つ。
案の定、花村が宙をみたまま言った。
「図2の数値に社外秘データが入ってた、って篠原企画部長から呼ばれてね、ゆゆしき事態だ、室長に報告するから、って」
「えっ」
先月のゾンビ発生報告数と処理数とを週ごと、課ごとに対処率のパーセンテージで示したものだった。
会議の資料は作成の順番が決まっていた。今回は一課の新人、つまり神谷が担当する予定だった。
それが資料作成直前になって、二課の水野から
「こちらでやるから」
と言われて、悪く言えば『取り上げられた』のだった。
「よろしいんですか?」
二課の水野が告げた時、そう答えた神谷の言い方に、かすかな険を感じたのだろう、実務歴三年になる彼はが不快げに目を細めた。
「そんなにやりたいの? そっちで」
それから笑った。嫌な笑い方だった。
「新人の神谷君、外で大活躍みたいだし、こんな資料づくり煩わせたら東海林部長に何て言われるか」
一課二課を束ねている実務部長の東海林は厳しくも公正な人だという印象がある。笑うことも少ないし、部下への指摘は容赦がない、しかし慕う者も多い。
そうは言っても、企業というものは一筋縄ではいかない。
正しい意見が必ずしも正義とは限らないのだ。
実務二課長の黒沢とその部下の水野は根っからの室長派だ。
次期社長と呼び声の高い丸山玲也は、マルヤマコーポレーション社長・丸山一夫の次男で、一流私立大卒後すぐに入社、メキメキと頭角を現して間もなく社長室長となった。
いつも目の奥で細かい計算をしているような、抜け目の無さで、どんぶり勘定の社長を巧みに支えていた彼の存在が、マルヤマ存続の鍵だと噂されていた。
東海林部長は元々、実直な社長から引き抜かれて中途入社して以来、常に社長に誠実につき従っていた。
社内では、社長派かもしくは室長派か、というのが暗黙の了解事項となっていた。
という事実に、神谷はつい最近気づいたばかりだった。
神谷はことばを選びながら続ける。
「花村課長からは……二課が作る、という話は全然伺ってなかったのですが」
一課の花村はフタマタ膏薬だがやや室長寄り、水野とはざっくりと分ければ『仲間』のはずだ。
しかし室長陣営でも、更に派閥があるようだった。
案の定、水野が露骨にさげすみの目を向けてきた。
「アンタんとこの課長ははっきり言って、何も聞かされてない、って感じだよね」
それは確かに、八割は当たっていた。
信用ならない人間に与えられる情報は少ない。
「とにかく、こちらで引き継ぐように言われているから……まあ、どうしても忙しくてもやりたい、ってキミが言うならやってもらっても全然構わないんだがね」
そこで神谷は
「ではお願いします」
そう素直に頭を下げて、資料作りを水野の二課に任せたのだった。
「では、大変なことになったんですね」
「そうだよ」
花村はしかし、笑っていない。上体を神谷の方に近づけた。
やはり息がくさい。しかし、避けようがない。
「うちらにとって……君にとって、かなりマズい感じだ」
「僕に?」
無表情のまま(できるだけ息を止めて)、神谷は次のことばを待つ。
もちろん花村には、水野に資料作りの業務を『取られた』件は報告してあった。




