23 悪いことした?
「どんどん良くなってきてるね。一度走り出したら止まらないタイプだ」
と、ネアネイラさんが褒めてくれるのはレッスン室でのことだった。
夏の盛りは、少し過ぎたのかもしれない。ダンスの間にかく汗の量が、減ってきたような気がする。それでもこれだけ動くのだから脱水には注意しないといけない。
ありがとうございます、とアドバイスを聞きながら、私は部屋の隅、鏡の前に置かれた小さなワゴンの傍に寄る。よく冷えた水をグラスに注いで、一度に二杯を飲む。
それから、はああ、と溜息を吐きそうになって、やめる。
全然、レッスン中には関係のない話だからだ。
公爵が、あれを最後に全く音楽ホールに現れなくなったことなんて。
最初にそれに気が付いたときは、もちろん「あれっ?」と思った。客席で、もう目印みたいに扱っていた人の姿がなくなっている。何となく落ち着かないし、そのときもそのときで張り切っていたから、何だかその気持ちが空回りしてしまったような気もした。
二回目は、「ん?」と思った。
一回だけだったら、私としてもそう深刻に捉えるつもりはなかった。
だって、何しろ相手は公爵様なのだから。あの規模の領地はもちろん、彼一人がこうして離れたところにいるだけで急に回らなくなるようなものでもないけれど、それでも領主は彼なのだから、何かしらその関係で急用ができることもあるだろう。それに、こちらにしばらく滞在している今の状態は、中央政治との関わりを濃くするチャンスでもある。
そうでなくたって、それこそ本番の秋が近付いてきて、後見人としての仕事が忙しくなってきたのかもしれないし。
もしかしたらこの間の予行を見て、「いつも見てなきゃ」という心配がなくなったのかも、とポジティブに考えたりもしていたくらいだった。
三回。
四回。
次で五回目。
流石に、そんなにのんきではいられなくなった。
歌とダンスが上達するのとは別に、私は段々追い詰められていった。
そんなにこの間のってダメだった? 顔を見たくもなくなるくらい? 私の歌とダンスで、そんなに明確に伝わるようなことってある?
それとも何か理由があるの?
と考えを巡らせていたら、ついさっき、遭遇した。
このレッスン室に来るまでの道のりでのことだ。渡り廊下の途中で、私は公爵を見つけた。
彼は何かの物思いに耽っているようだった。じっと噴水の根本、水が湧き出すところを見つめている。
暇そうじゃん、と思った。
だから思い切って、話しかけに行った。
「公爵」
そうしたら、びくっ、と。
大袈裟なくらいに驚かれたから、ついていたはずの勢いが、一気にしぼんでしまった。
あ、ああ、とか曖昧な返事を彼がする。おはようございます、と私は挨拶をする。挨拶を返される。
見つめ合う。
私は、言おうとした。
どうして最近、見に来てくれないんですか。
「最近、お忙しいんですか?」
言おうとしただけで、そんなに直接的なこと、本当に言葉にできるはずもない。
当たり障りのない訊き方だから、向こうも当然、当たり障りのない答え方をしてくる。
「ああ。すまんな、本儀式の関係で、諸々やることが山積みなんだ」
「そうですか」
「…………」
「…………」
「――っと、時間だ。何かあったらいつでも言ってくれ。頑張れよ」
絶対嘘。
お忙しい人は、噴水の根元から水が湧き出すところをじっと見つめて暇を潰しているはずもない。いきなり早歩きで逃げ出した方向も、なんか適当に見えたし。私に背を向けたいだけに見えたし。
時は戻り、現在。
私はそういうことを全部思い出しながら、こう考えている。
そんな露骨に避けられるほど、悪いことした?
言葉にすらしてないんだから、見なかったふりとか、そういうのじゃダメ?
「悩み事?」
「わっ」
そうしたら、にゅっと横からネアネイラさんが話しかけてきて、驚いた。水も零しそうになる。そんなに驚かなくても、ともっともなことをネアネイラさんが言う。
「……歌に出てますか?」
「いや別に。溜息吐いてるから」
呑み込んだつもりが、しっかり吐き出していたらしい。すみません、と謝ると、いやいや、と彼女は、
「悩み事がここまで練習の熱心度に影響しない人も珍しいよ。でもまあ、一応先輩後輩のよしみで相談事でも受け付けておこうかなと思って。ちなみに私は音楽以外の相談は壊滅的で、部下から『最悪の上司』って呼ばれてるけど」
「…………」
直接言われているなら、逆に慕われている可能性もある。
けれど、陰で言われていたとしたら相当可哀想だった。だから、あんまり私はそのあたりを深掘りしないことにする。
大丈夫です、
「人に相談できるようなことでもなくて」
実際、そのとおりだし。
他の誰にも言えないことだ。公爵様にちょっとその、あれな感じで、なんかこう、上手くいってたかっていうと元々そんなでもないというかちょっと気配がしてたかなっていうくらいなんですけど、こう、最近は特に避けられてるっていうかなんていうかいや自意識過剰なのかもしれないですけど自分としてはそう思
「じゃ、神頼みだ」
「え?」
「そういえば君、何だかんだ公的行事のついでで顔を出しただけで、しっかり行ってみたことはないんじゃない?」
練習が終わったらの話だけどさ、と彼女は親指を立てて、くいっと扉の外に向けて、
「王宮の中にもあるよ、礼拝室」




