12 客席に思い出は
これまでずっと歌いもせずに合唱に参加してきたから、その積み重ねなんだと思う。私には一つの、素人にしては結構変な能力が身に付いていた。
歌っている最中、客席がものすごくよく見えた。
歌い出すまでは、誰もがその目に好奇心を帯びている。私は公爵の言っていたことを思い出した。先代の聖女は音楽的素養に優れていて……だから、続けての名演者を期待されていたのかもしれない。とにかく客席に座る人々の瞳は、輝いていた。
その輝きが、私が口を開いて、声を出した瞬間に消えていく。
多分、そのときの気持ちを言葉にするなら、こんな風になる。
なんだ、こんなものか。
気を落とさなかったと言えば嘘になる。何かを期待されて、それを達成できないことは悲しい。不甲斐なさを覚える。けれど同時に、ちょっとした達成感も覚えていた。だって、誰も驚愕に目を剥いたりはしていない。ぎょっとした顔をして腰を浮かせたり、自分が奇妙な夢を見ているんじゃないかと左右に目線を振って部屋の中を確かめたりしない。
こんなものだ。
こんなものかと相手を退屈されられる程度には、練習の成果が出たのだ。
もう私は、それ以上の贅沢は望まなかった。このまま最後まで歌い続けよう。口を大きく開けて、お腹から声を出して、ピアノの音をよく聞いて、正しい音を出し続けよう。そしてこのまま最後まで踊り続けよう。メトロノームのように退屈に、規則正しく、右に左に揺られ続けよう。
できてますよね、と公爵を見た。
それが伝わったのかはわからない。私の音楽の先生は真剣な顔をして、今はまさしく公爵と言いたくなるような、ピシリとした佇まいでそこに座っている。
変化は、どのくらいで起こったのだろう。
気付いたらそうなっていたものだから、私にはわからなかった。
最初に思ったのは、何だか妙に踊りやすくなったということだった。踊ると言っても右へ左へステップを踏むだけだけれど、何だかそれが、妙にしっくりくる。もしかして私もステージに立つことで音楽の才能が開花したのだろうか……なんて、そんなことは思わない。
実際、高い音を出そうとするとまだ声がかすれる。
これだけ広い音楽ホールの中で、申し訳なくなるくらい、自分のちっぽけさを否応なく自覚させられてしまうくらい、そもそも最後列の人に声が届いているのか不安になるくらい、か細い声しか出ていない。
別に、急に歌やダンスが上手くなったわけじゃない。
なのに、踊りやすくなった気がする。
釣られて声も、音に乗りやすくなってきた気がする。
勘違いではないらしいとわかったのは、やっぱり観客の顔をしっかり見ていたから。
いかにも興味をなくしていた何人かが、「おや」というように顔を上げた。称賛の表情とか、そんな都合の良いものではなかった。ただ、ステージの上に奇異なものを見つけたというように、少しだけ目を大きくしている。
それで私は、不安になった。
もしかして、と思ったからだ。
思い出されるのは学校の入学式だ。私は自信満々だった。自信満々で音を外し、みんなを巻き込んだ。
巻き込んでいる最中、全くそのことに気付いていなかった。
同じことが起こっているのかもしれない。
まずは音程を確認する。ピアノの音をよく聞く。よくわからない。多分間違ってはいないと思うけれど、そもそも自分の音感が信じられない。声の大きさはどうだろう。さっきより確かに大きくはなったけれど、そもそもそんなに音量に幅がないから、多分これが原因じゃない。
後はリズムくらい。
私はステップを踏みながら、数えることにした。
早くなっていないか。遅くなっていないか。ズレていないか。基準になるのはピアノだ。拍を数える。右足、左足、一、二、一、二、
三。
あ、とわかった、その瞬間のことだった。
私はリズムがズレていることを自覚した。ズレているから、直そうと思った。でも、もうすっかりリズムとステップは連動している。リズムを矯正しようとすると、足も止まりそうになる。止めちゃダメだと思う。
止めちゃダメなのかな、と思い直す。
それが良くなかった。
ピアノの音に合っているんだから、何も気付かずに続けるべきだと思い直してしまったのだ。そのせいで、止めようとした足がさらに止まる。そうしたら、悲劇的な状態が私に訪れる。
どこをどう歌っているのかわからない。
次の足がどっちなのかすらわからない。
そうして、私は足を引っ掛けた。
特技が牙を剥いた。
少しずつ傾いていく視界の中で、私はくっきりと全ての観客の顔を捉えていた。これはものすごく嫌だ。ほんの一瞬のことが、何十秒にも引き伸ばされたように感じられる。観客の皆さんは、それはそうだろう。驚愕のまま、小さく口を開いて、顎を引いている。伴奏の音楽家さんも、当然だ。演奏の最中にトラブルが起こる様を、苦々しい顔で見ている。
そして私の手は泳ぎ、履き慣れない踵の靴は、完全に横倒しになる。
ぐきりと思い切り足首が鳴る覚悟をして、衝撃に備えようと目を瞑る。
その、直前のことだった。
「頑張れ!」
もしかして、一番最初に歌の違和感に気付いていたのは私じゃなくて、この人だったんじゃないだろうか。そうじゃなければ説明が付かないくら素早くて、的確で、このとき以外にはないというタイミングの言葉だった。
一か八か、私は横倒しになっていない方の足に、思い切り力を入れた。
リズム感はなくても、運動能力はそれなりのものがある。本当に際の際、私は身体ごと跳んだ。思い切り捻るはずだった足はそれで浮いて、細いヒールもまた、踵に衝撃だけを残して、両足とも床をしっかりと噛んだ。
それから私は、もう何でもいいや、と続けて声を出した。素人の無茶なそれに、けれど伴奏は綺麗に合わせてくれる。そのまま最後まで歌い続ければ、この程度の声だから、ホールの中に余韻なんかは残らない。
それが、私の『お披露目』の終わりだった。
流石は礼儀作法に長けた貴族の方々だった。明らかに語りたいことがあるはずなのに、この音の響くホールの中では声も出さない。静寂の後に身じろぎする音が混じり始めたくらい。ただ、声がなくても伝わる程度に注目をするくらい。
その注目を集めているのは、たった今まで歌っていた私じゃない。
客席で立ち上がっている人。
たった今、私に向かってエールを叫んだ人。
ウィンスカーレ公爵、アダン・ウィンスカーレその人に。
「……失礼した。皆様の清聴中に、不似合いな大声を出してしまいました」
彼は隣に座る王家だろう方々に礼をする。それから、他の全ての聴衆にも。しかしもちろん、誰もそれを真面目に聞いたりはしていない。
私も、その例外じゃなかった。
そのまま公爵は、王家の人々と話をする。打ち合わせだとかそんな理由を付けて、さっさと音楽ホールを退場していく。その背を見つめている。彼が一度だけ振り向くのを見ている。目が合って、特にそれ以上はお互いに何もメッセージを送り合えないで、離れていく。
そのとき――いや、公爵が叫んだときから、その瞬間の彼の顔を見たときからずっと、私は同じことを考えている。
あの人だ。
遠い昔、私が初めて恋をした相手は。




