079:ベラミニーツェの男
トルティア・ベラミニーツェは軽いネグレクトのようなものを受けて育った子供であった。
赤ん坊の頃は最低限のことをしてもらっていたようだが、一部の女たちからは強い憎悪を向けられていたので、当番制であった世話に手を抜かれることもあった。
しかし、誰も望んで殺害はしたくなったらしい、生きることは許されていた。
食事も女たちと同じものを与えられたが、家を出るまでただの一度も同じ机を囲むことはなかった。
餌――女たちが種を貰うためだけに攫ってきた男からあまりにも女たちが冷たくあたるので、つい同情されて、世話をされたこともある。
年齢を重ねるにつれて、周囲の環境を理解し、様々な男から知識を得て、女たちを刺激することなく立ち回れるようになり、冷えた家でもなんとかやっていくことは出来た。
女たちは男という存在を嫌っていたが、トルティアが優しくすれば怒るものは居なかったし、危害を加えてくることもなかった。
機嫌が良いときは気まぐれにお菓子を恵むこともあった。
トルティアは女の扱い方を身に着け、外でもやっていけるほどの知識を取り込むと、族長に家を出ることを告げた。
引き留めることはなかった。
分かってはいたが、空しい気持ちになり、思わずその場でぼろぼろ泣いた。
決して愛は無かったが、気まぐれに優しくしてきた女たちの記憶が脳に過ると、うっかり嗚咽を漏らして泣く日もあった。
女の扱いがうまいことで世渡りはそこそこうまくいったが、やりたいことも特になく、ただ放浪して回る日々。
奴隷にされそうになったり、騙されそうになったり、苦しい時期もあったが、なんとか人としての尊厳は失わずに生活することが出来た。
剣の扱いはどうやらうまいらしく、剣の修行をしているという旅人から教えられたことは一度で出来るようになった。
剣士や騎士になることを勧められたが、なり方が分からなかったので、そのとき世話になっていた未亡人の息子が騎士団の試験を受けるというのに同行して、一緒に試験を受けることになった。
その結果、トルティアは受かり、息子の方は落ちてしまった。
トルティアは未亡人と息子には世話になっていたこともあり、騎士団への加入を辞退した。
共に試験から帰る途中で、劣等感を抑えきれなかった息子からトルティアは腹を刺された。
無防備だったこともあり、身体はあっけなく傾く。
馬から落ちたトルティアを睨んで、息子は去っていった。
それを発見したのがサムニエルだった。
トルティアを拾って持ち帰り、治療をして、居場所がないならここに作ろうと誘った。
そんなことを初めて男性から言われたトルティアは、涙を流してサムニエルに縋った。
父親という存在を夢見てしまったのかもしれない。
サムニエルの騎士として恥ずかしくない自分でありたい、と思ったトルティアは努力を重ねた。
天才的な剣の才能を持った男が努力をするとどうなるか。結果は、副団長の座に収まった。
トルティアは自身の居場所はサムニエルの騎士団だと思っていたし、満足していた。
サムニエルの為であれば、何でもできると思っていた。そして、何でもしてきた。
それなのに、いま、どうしようもないほどに、動揺して、感情が揺さぶられていた。
ただの手掛かりを探しに来ただけであった。
自分の伝手の全てに通達しておけば、微かな情報でも入ってくるかと思い、手当たり次第にミライの行方を聞いて回っただけなのだが、何故、どうして。
そもそも、ベラミニーツェ一族から手紙が返ってきたこと自体が信じられなかった。
本当に一族のものが出したのか?と疑う気持ちもあった。
手紙の内容は「そんな存在は知らない」というものだったが、返事が来たことに対して違和感が拭えず、かつて住んでいた家にトルティアは足を運んだ。
様々な思い出が蘇り、嫌な気持ちにはなったが、これも情報を得るためと我慢して玄関を鳴らした。
嫌な顔をされるだろうな、と覚悟して待っていた。
それがどうしてか、驚いた顔をされ、室内へ招き入れられる。てっきり門前払いされると思っていたトルティアは、ここでかなり不安になった。
あれよあれよという間に族長が呼ばれ、女たちがトルティアを囲む。
座れと椅子を用意され、断ったら面倒なことになると判断して大人しく座った。
それからだ。
あまりにも様子が可笑しい。
「……なんだい、なんの用できたんだ。寄りつきもしなかったあんたが」
トルティアから視線を逸らしながら族長が問いかける。
トルティアは目を白黒させながら、唾を飲み込んだ。
こんなに和らいだ声音で声を掛けられたことは一度もない。怒鳴るか、不機嫌に尖った声しか聴いたことが無かったのである。
「魔法使いの行方を捜しています。何か知らないと思い、訪ねました」
「知らないって手紙を返しただろう」
そうだ。返ってきた。
そもそもそれが可笑しいのだ。
「今まで手紙に返答が来たことはなかったので、何かあったのかと思い、その確認も兼ねて……」
「返事を返す必要のない内容ばっかり送ってきてただろうが。どこそこの名産がうまいだとかこの奴隷商には気を付けろだとかそんなちーっぽけな内容で」
「手紙をっ、読んで、いたんですか?」
「読んじゃ悪いかっ!あんたが送ってくるからだろうが!」
族長が怒鳴ると、いつもトルティアは背筋が凍った。
ぶたれるのではないか、酷いことを言われるのではないか、恐怖を抱えて黙り込むことしか出来なかった。けれど、いま、そんな風には受け止められなかった。
これではまるで、恥ずかしいから怒鳴っているみたいだ。手紙を読んでいることが、恥ずかしいとでも言うように。指摘されたことが恥ずかしいかのように、声を荒げていて。
ほかの女たちに目を向けると、誰一人として嫌悪の目で見ていなかった。
女たちは困惑したような、戸惑ったような、とても気まずそうな顔をしていて、トルティアのことを殺してやろうだとか、憎いだとか、そんな感情を浮かべてはいなかった。
何がどうなっているのか分からず、トルティアは言葉が出てこない。
「それだけの用ならさっさと出て行きな!」
族長がそういうと、近くの女が慌てて族長に耳打ちをした。
族長はハッとして渋い顔を作り、どすの利いた声を出した。
「ち、茶でも、飲んで……帰りな」
トルティアの目からぽろっと涙が零れた。
女たちがざわついて、初めてトルティアは自分の目から涙が零れていたことを知る。
すぐに拭って、よく分からない感情を押し込める。
「い、いえ、任務がありますので、帰ります」
「良いから飲んでいきな、それともなんだ、あたしの用意する茶が飲めないって?」
「そんなことは、ないです」
「っち……」
どうしてこんなことになっているのか、トルティアには分からなかった。ただ、嫌悪ではない女たちの表情が、普通の表情が、こんなにも心をかき乱すものだったとは。
「やだ、トルティア、あんた雑草がついてるわよ」
一人の女がトルティアの後頭部の草を払う。
思わず身を引いて、振り返った。
「……なによ、別に意地悪なんてしないわ。親切心から取ってあげたのよ。……つ、爪は、その、悪かったわよ」
女がつんと鼻を横に逸らした。
トルティアの記憶では、この女にいたずらに爪を切られたことがある。長いから切ってあげるわと言って切り始めたが、途中で短くし過ぎたのか、あんたが動くから悪いんだからねと言い残して逃げた女だ。
トルティアからすれば別に指を切られた訳でもないので、どうということもなかったし、爪を切ってあげると言った気まぐれなやさしさに少し嬉しい気持ちがあったほどだったが、まさか、覚えているとも思っていなかった上に、それを謝ってくるだなんて。
「あっ、ずるいわよ、あんただけ!トルティア、あの、わたし、当番のとき、おむつかぶれ出しちゃったことがあったけど、その、反省してるわ。それに、あのあと薬もちゃんと買ってきたもの!良い薬だから、高かったのよ、だからどうって訳じゃないけれど……」
おむつかぶれがあったことなんて記憶にも残っていない。
トルティアが何も言えないまま呆然としていると、別の女がまた声を掛ける。
「トルティア……えーっと、トルティアのパンケーキのバターとったの、調理を担当した私よ。本当にごめんなさい。だってあなた、私が当番をしていた赤子の頃はミルクをよく吐いてたから、乳製品は駄目かもって思ってて、成長してバターが食べられるようになっていただなんて知らなかったのよ。ほかの当番の人のときにバターケーキを食べたと聞いて、あって思って……味気ないパンケーキ食べさせて、ごめんね」
バターが乗っているかどうかなんて気にしたことすらなかった。トルティアは衝撃を受けて、それを悪いと思っていた女に対して逆に申し訳ない気持ちがあった。パンケーキを食べたのなんて、10年以上は前だ。それをずっと覚えていて後悔していただなんて、信じられない思いだった。
次から次へと女たちがトルティアに懺悔していく。
当番をさぼった女はその日が当番だということをすっかり忘れていて後日交代してやっただとか、熱いお湯にトルティアを付けて火傷させた女はお湯の温度を確かめることを忘れていただけで3日泣くほど後悔していただとか、トルティアが男の子に見えなくてわざと冷たい態度を取ることを練習してまで執拗に冷たく当たっただとか、知らない話がぼろぼろと出てきた。
族長は深い溜息を吐いた。
「まさかあんたらが裏でそんな風に思っていたとはね……」
族長も把握していなかった事実がいくつもあったようだ。
「ああ、でも許さなくていいさ。あんたが泣いて嫌がって出て行ったのも当然、あたしらは男が嫌いだから、あんたにはつらい環境だったろう」
「……何の話ですか?」
「あぁ?出て行きたいって泣いていたのをあたしは覚えてる」
「それは違う!出て行きたいと言って、引き留められなかったから!俺は、誰にも愛されてないんだと、いらないものなんだって……そう、思って」
「愛してはやれなかったさ」
そうは、思えなかった。
族長が告げた事実が、その通りには思えなかった。
数々の懺悔と、いまの族長の眼差しが、とてもじゃないけれど、全く愛がなかったなどとは思えないほど情のこもったものに見えて、トルティアは混乱した。
「どうして、そんな……今になって」
この不思議な状況に、この温かい空気に、トルティアは覚えがある。
サムニエルにミライが花菓子を渡したあの瞬間、現実と不釣り合いなほどに穏やかで和んだ雰囲気が産まれた。
少し抜けていて、純粋な――かわいい魔法使いが纏った、氷を溶かすような時間。
何も情報はない。確証もない。
ただふっと思い出したのは、ミルァイの顔だった。
「魔法使いが、来ましたか」
「いいや、そんな存在は知らないね」
族長はきっぱり答えた。
トルティアは何の確証もないのに、嘘だ、と瞬間的に思った。
「ミルァイが、ここに、来たんですね?」
「さぁ、聞いたこともないが」
「……彼女は、あなた達に何を言ったんだろう」
「なんの話だい?」
「花菓子にとても喜んでいました。信じられる大人もいない、そんな少女に、俺は寄り添ってあげられなかった。死にかけた俺を拾ってくれた人に、恩があったから。……自分を守ってくれなかった人間に対して、彼女はなんて思っただろうって、何度も考えました。考えるべきじゃないのに、俺は俺の恩を返すことを選んだ、それが、正しいことだと思っているのに」
「正しいことだろうよ、そりゃあ、命を救ってもらったってことはねぇ」
「……裏切りと言えるでしょう、彼女からしたら。優しかったはずの人間が、自分を見捨てる選択をしたということは。それなのに、彼女は、あなた達になんと言ったんだろう」
恨み言を言ったのならば、一族の皆がこんな態度は取らないだろう。トルティアを殺すことすらしたかもしれない。
とても、ミルァイが自分に対して憎しみを抱いたとは思えなかった。
「ミルァイは俺をどう思っただろうって、ずっと、思い返しては、消して、だけど、あなた達の俺への態度を見たら、俺は、どうしても」
「トルティア、あたしは何も知らないさ。ただ、1つだけ今後のことでお前に言っておくことがある」
トルティアは族長の目を真っ直ぐに見つめた。
「いまからここは、もうあんたの家でもある」
文句ないね、と振り返って族長は言った。
女たちはそれぞれ頷いて、分かったと口にした。
ベラミニーツェ一族に正式にトルティアの存在が認められた瞬間だった。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
長めのお話になってしまいましたが、実力不足なことが悔しいですが、今後の更新は未定となります。
Twitterの更新通知などお気に入りして下さった数名の方に心より感謝しています。
ありがとうございました。またどこかでお会い出来たら嬉しいです。




