057:兄妹
「ほんとに、魔法使い……?」
目を見開いていた少年は暫くの沈黙のあと、かすれた声でぽつりと零した。
魔法使いが目の前にいるということを受け入れられないような、有り得ないことが起こっているかのような、そんな表情をしている。
フィリアは容器にいれた水を少年へと差し出し、ミライはぶつぶつと呟いて食べ物を創造した。
その材料がどこから来たのかは秘密である。
ミライはごめんなさいと頭を下げて謝っていた。
テーブルに乗った食事の数々にごくりと喉を鳴らした少年だったが、手を付けることはなくミライをじっと見つめている。
「えっ? なに? 食べていいよ? 毒なんか入ってないよ?」
少年の視線に気が付いたミライは視線の意味を考えるも、素っ頓狂な理由しか頭の中に出てこなかったのか、自身が創造したオムライスをぱくりと一口食べて見せた。フィリアとベルガーの呆れ混じりな視線には、全く気付いていない。
少年はごくりと唾を飲み込み、意を決したように顔を上げる。
「……妹が、いる」
重苦しい雰囲気で話を始めたことにミライは首を傾げる。先をなかなか話さないので、頷いて、持っていたスプーンをひとまず置いた。
「うん、さっき聞いたね。妹さんがいるって話」
「あんた、俺に言ったよな? 叶えてくれる、って」
「うん、言ったよ」
あっさりと肯定したミライに踏ん切りがついたのか、少年はさっきよりも表情を明るくして、しかし恐る恐る打ち明ける。
「妹が、奴隷になったんだ。ついこの間のことだ。俺が留守の間に拐われて、気付いた時にはもう奴隷商の手の中だった。……けど、まだ、誰にも買われてない。奴隷商と取引をして、ひと月の猶予をもらった。――だから、ひと月以内に買い戻さなきゃいけねえんだ。魔法使い、あんた、叶えてくれるって言っただろ? さっき、言ったよな?」
「……うーん……。ねぇ、買い戻すって?」
話を聞いて、無知なミライがまず思ったことは「どうして買い戻す必要があるの?」だった。
まったく意味が分からない。
少年の、彼の、妹だ。
奴隷であっても妹には変わりない。
それなのに兄が、少年が――自身の妹を"買い戻す"と言っている意味が分からなかった。
しかし、ミライの疑問に答えることはなく、少年は勢いよく頭を下げる。
「か、金を貸してくれ! 頼む!」
床に座り込み、少年は懇願した。
ぎゅっと目を瞑ったまま、なかなか顔を上げる気配がない。
ベルガーは「言わんこっちゃない」と溜息を吐き出したが、ミライはきょとんとするだけで、少年の厚かましい申し出に対して負の感情は抱かなかった。
ただ、意味が分かっていない。
奴隷という存在が課せられているルールも、家族が他人に引き離されていて処遇を家族が決められない、ということも。
ミライは未成年だ。
前の世界では、保護者の言うとおりにするのが当たり前だった。
保護者はミライをどうするか決める権利があり、ミライはそれに逆らえない。
自分が本当の子供ではなく、従姉妹だから何も言えないという負い目は確かにあったが、日本という国では親に逆らって一人で生きることがなかなかに難しい。
保護者というものは子供の選ぶ道を狭めたり、或いは広げたりする権利がある、とミライは思っている。だから、両親のいない兄妹ならば、兄が保護者となり妹の身柄をどうこうすることが当たり前のはずだ。
それなのに――買い戻す、と言う。
妹を他人から買う、と。
「悪いけど、お金はないよ。……でも、私には魔法がある。だから、買い戻すことはきっと無理でも――助けることはできると思う。絶対とは、言えないけど」
自分が無知だから。
何も知らないから、断言してあげることができない。
ミライがどれだけすごい魔法使いだとしても、この段階で断言なんてできる訳がない。
自分の力を信じていても、そこに絶対はないとミライは思っている。
「……ダメだ。奴隷商からきちんと買わないと、後でどんな目に合わされるか……!」
少年はミライの言葉を聞いて、絶望したように床を叩いた。
会話が上手く噛み合わないのは、ミライが常識を知らないからだ。しかし、常識を知らないからこそ、ミライにはミライだけが思いつく提案というものができた。
「逃げるのに、後のことを心配しなくちゃだめなのかなあ?」
「……は?」
「逃げるんだよ。別の国に。それなのに、奴隷商のことを、その後のことを気にする必要がある? ごめん、言い方が悪いかな……えっと、この国の奴隷商は他国にまで手を伸ばして逃げた奴隷を探すの?」
言われて、少年はハッとした。
そういえば、別の国で暮らすことになると最初に言われていたのだ。
買い戻すことばかり考えていた。
そうしなければならないと、すっかり思い込んでいた。
ルールに従わなければ酷い目に合わされる。
奴隷商はルールになど従っていないも同然なのに、何故か自分は従わなければと奴隷商の客側の常識に絡め取られていた。
取引前に奴隷が逃げたとして、奴隷商が必死に探すということはない。
誰かが手引きをして逃がしたならば、犯人をあの手この手で探すだろうが、商品を受け渡す前に自分のミスで逃がしたとなれば買い手がついていない場合、その事実を隠蔽することもある。
奴隷を逃がしたという失態は奴隷商の信用を落とす。
それ故に手元から逃げ出した奴隷は探さないこともあった。
しかし、それはあくまで奴隷商にミスがあった場合だ。
誰かが脱走を手引きをしたとバレたら探される可能性は高い。
少年は思う。
妹はまだ十に満たない幼い少女で、見目が麗しい訳ではなかった。
贔屓目で見れば可愛いことこの上ないが、少年はよく犯罪者の使い走りに使われていた。
冷静に物事を見る目が養われている。
妹を自分が買うと言って、奴隷商は少し安心したようだった。
少年はよく思い出した。
奴隷商の顔、あの時のやり取り。
そして、考えた。
妹を買いそうな客層、買われるとしたら何の為にか。
そうして結論を出す。
――大丈夫だ、ハノンはすぐには売れないし、需要もあまりない。労働にも使えない、性欲処理をするにしては幼過ぎる。血眼になって探されるほどの奴隷じゃ、ない。
少年がミライを見つめる瞳に、少し希望が浮かんだ。
「確かに、他国なら大丈夫かもしれない。でも……どうやって助けるんだ? 奴隷は厳しく管理されてるんだぞ」
逃げる、という手段があるのは理解した。
しかし、どうやって妹を救い出すか――考え込むように眉を顰め悲痛な顔をする少年に、ミライは少し考えて、とりあえずテーブルの上の料理を温かいうちに消費しなければと考えた。
「詳しく聞いてからじゃないと方法はわかんないけど、出来ることはするよ。まずはご飯食べようよ……妹さん、ひと月は大丈夫なんだよね?」
奴隷は商品だ。
けちな奴隷商なら奴隷を手酷く扱うこともあるが、不幸中の幸か、ハノンを仕入れた奴隷商は損が嫌いで、この国ではわりと奴隷をきちんと商品として正しく扱っている男だった。食事もさせているだろう。それに、猶予をくれている。
既に予約が入っているような状態にある奴隷なのだから、ぼったくっている金額から考えるに、むしろ出荷前に小奇麗にして返してくれるかもしれない。
「ああ。ひと月は大丈夫なはずだ」
そして、少年の推測は間違ってはいなかった。
買われることが決まっているハノンは手酷く扱われることも、食事を抜かれることも、特殊性癖のある変態に特別目をつけられることもなく、兄を信じ静かに過ごしていた。




