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明治の空と現代の空にはきっと何ら変わりはないはずだ。
(でも今日は特に青の色が濃い気がする)
目を細め空を見上げた。
燦々たる陽光を受け棚引く宣伝旗。呉服店や雑貨店、デパートが立ち並ぶ日本橋は外国さながらの銀座煉瓦街と違い人も物も雑然としている。
眩い終わりかけの春の日差しを遮って瞼の裏が散らついた。
赤や濃紺、白抜きされた文字がネオンサインさながら店の名前を主張してあちらこちらで揺らめく。有線放送などは無く辺りは雑踏と呼び込みの声に満ちている。
小春日和を通り過ぎ、今日は初夏さながらだ。曖昧な存在だというのに陽射しが肌を焼く。
「確か日本橋に印は無かった筈だけれどね」
横を歩く仏頂面が目深に帽子を被り直し文句を言ったので、負けじと茅帆も腕を組み直し肩を怒らした。
「銀座通りの新聞社にちょっとだけ寄ると言って何時間も居座ったのは誰でしたかね? こっちは本に寄生してる身なんですから勝手に外を出歩けないんですよ。小難しい話を強制的に何時間も聞かされた身になって下さい。どうせ本郷に行くんだから日本橋を経由する位いいじゃないですか」
「日本橋を経由し無ければ電車で一気に行けたのだがなあ。……でもまあ、新聞社では扉を一応開け放しにして置いたから暇潰しも出来たじゃあ無いか」
「出歩くたって階段は階段室になっちゃってるから開けられないドアの向こう側なんですよ。それに私はそんなに活動範囲広くないんです」
薄暗い通路で騒つく編集室前やら階段室やらを物珍しそうに眺めていられたのは小一時間ほど、結局する事も尽きて開け放しだった来賓室のドア前でしゃがみ込んでいた。
金田はもっともな反論に答えを窮している。
「ううむ、然し彼れだ。色々と僕にも事情が有って……」
途中ではたと何かに気付き、金田は言葉尻を口内に飲み込んだ。
金田の仕事が落ち着く日を待ってやっと外出に時間が取れたこの日。早々に明石町を出た筈なのだが、銀座の新聞社で三時間もの時間を過ごす羽目になった。昼ドン聴き終えて一時間ほどの日本橋は程よく混み合っている。
路面電車が通る上に人力車やたまに車が通るともなると人の行き交う道はどうしても手狭になってしまう。ちょうど肩を擦る様にして行き過ぎた男二人が傍目には独り言ちているように見える金田を、怪訝な表情を浮かべて振り返っていた。
「君、もう少し配慮し給えよ。君と違って此方は生身なのだからね」
帽子を被り直して金田が茅帆をジト目で睨む。
「別に独り言くらい」と茅帆は呆れた表情を隠さず、敢えて急に立ち止まり金田を振り返った。
踏み固められたとはいえ路は勿論舗装などされていない。丁寧に手入れされた革靴がその表面を削り取りながら強引に歩みを静止させる。すぐ後ろを歩いていたカンカン帽と和服姿の男が、金田の背に突っ込みそうになり舌を鳴らすと避けて行った。
このまま金田が足を止めなければ茅帆の体に突っ込んだのだろう。
(まあ突っ込んでも擦り抜けるだけなんですけどね。会話上は前より上手く流れてる感じがするんだけどな)
例え幽体であっても、避けられる範囲であれば女性に触れるのはお断りらしい。何もない空間は勿論の事、過ぎ去る日本橋の雑踏に混じる女性を選別して頑なに避けようとする様ははたから見てかなり滑稽だ。
大袈裟に茅帆は吐息つく。
「金田さん、そんな感じで仕事とか大丈夫なんですか? 仕事相手には女性もいるんですよね」
横から覗き込むと金田は仰け反りながらも避ける。
金田は微かに舌打ちをすると傍目は何もない空間を大きく避けて足早に歩き始めた。その際にぶつかった大きな風呂敷包みを持った男が背中向こうで文句を言ったが振り返る様子も無い。
金田の持った本に引き摺られるようにして、人混みを文字通り擦り抜けながら茅帆の体が前へと進んで行く。爪先を引き摺っている感はあれども日本橋の踏み固められた道に跡は残っていない。
ずるり、楽しそうに話しながら歩く女学生の背中から顔だけ出し止まると嫌悪感を剥き出しにした表情を浮かべて金田の歩みが停止した。
中途半端な場所から体を引き抜いて横に並んだ茅帆を金田は店先のチラシを見る体で帽子向こうからちらり見ている。成る程これならば通りすがりの人も短時間であれば変人扱いしないだろう。購入するか考えている風にも見える。
「……君、斯う遣って改めて見ると矢張り幽体なのだな」
「あまり気分の良いものではないですよ、正直。まぁ迷子にはならなくて良いんですけどね」
チラシには入荷したばかりの靴の名が墨書きで書かれている。触れられない指先でそれをなぞった茅帆は横の金田を振り返った。反動で指先がガラス窓向こうへと消える。
「銀座の雑貨店はどうして印があったんでしょうね。別に変哲も無い店に見えましたが」
「店主が関係有るのかも知れないし、店の客が関係有るのかも知れないが……君の本の印は実に遠回しだな。___と、もう少し離れ給え。近い」
難しい顔でチラシを覗き込んで近付いて来たのはそっちの癖に、と言い返したいのを茅帆は飲み込んだ。
本の印を直接行って確認したのは先程で四つ目だ。
日比谷公園周辺で二つ、もう一つは銀座煉瓦街の新聞社、そして裏通りの雑貨店。勿論の事、その場所には目に見える何らかの物体も変化も無かった。行けば良いというものでは無いらしい。
「店主ったってあのやる気の無さそうな男性の方ですよね。まぁ確かに品揃えは店の規模の割に良い物揃っていた気はしますが」
店に金田が入ると、薄暗い店内のカウンター向こうで眼鏡を鼻先までずらし新聞を見ていた店主らしき男が「あいよー」だのと面倒臭そうに言った。そこで手にしていた新聞の社屋に先程まで滞在してた訳では有るが、当たり前と言われればそれまでだが金田が聞いた限りでは店主と新聞社とは共通点は無かった。
分かったのは矢張りあの男が店主だという事と、彼が茅帆の本に印のある新聞社の発行した新聞を読んでいた、というだけだ。繋がったといえば繋がったとも言えるが全くもって進展はない。
「時間が有れば僕が偶に店へ出向くのも良いだろう」
「いいんですか? あの店、結構女性物多かったですよ?」
「僕は公私混同はしないと決めて居る。___行こう」
チラシを見ている客を店へと案内しようと思ったのだろう。ガラス向こうから女性店員がこちらに向かって来るのが見えた所為か、金田は身を返した。足早に店を離れる向こう側で店のドアが開く音が聞こえ、またどうぞと律儀に店員が声を掛けている。
引きずられた勢いのままで駆け寄ると、迷子になどなる筈もないのに咄嗟に金田の袖を掴もうと手が出てしまう。ずぶり、指が腕に沈んだ瞬間に金田が手を引いた。
どうやら姿が見えている弊害か、僅かな感覚があるらしい。
「……滅茶苦茶、物理的に避けられてる感じがしますが。私」
会話は成り立ってる分マシだけれど。内心で付け足す。
「先程の続きだが因みに今現在は私用だ」成る程、茅帆はプライベートの振り分けらしい。
こうなるととことん公用の金田を見てみたい気はする。しかし私用と公用で感覚を切り替え出来るのならば先程の事も納得はいった。
「あー、さっきまでの新聞社が公用だったって訳ですか。確かに廊下で女性と擦れ違うくらいなら変になっていませんでしたもんね。私用モードなら絶対に変人になってますもんね」
「……変人って、君。言葉は選び給えよ。___大体、学生服は如何したのかね。着替えるのでは無かったのかね」金田は嘆息している。
「意外に服装を変えるのは体力使う事に気付いたんですよ。でもこないだの金田さんの風邪の後から会話もかなりマシになってきたからなんとかなるかなって思って」
「マシ……君は裏表が無さそうだからな。沿う云う女性は善く知って居るのだ」
それが誰であるか、茅帆は明言を避けた。
聞かずとも桐野の妻である千紗であるのだろうという事は容易に察することが出来る。恐らく金田の基準はほぼ全て千紗の様であるか、それ以外かなのだろう。
切り替えが可能ならば本質的に女性を拒否している訳は無いらしい。何やら彼の女性拒絶にも奥深いものがありそうだ。
しかしその問題に深く踏み込む事はしない。
あまり近付かないよう、それでも雑踏の中でも声を聞き取れる位置を維持しながら茅帆は辺りを見回す。金田は本を胸元のポケットから出すともう一度この辺りに印がないか確認している。
ふと金田が顔を上げた。
「何故に此処に寄ると言いだしたのかね。本を見た所君の件で此の辺りは関係無い様だが」
「何故って。ただ見てみたかったんですよ。明治後期の日本橋を」
別に隠す必要もない。茅帆は素直に応えた。
「現代に戻れば二度と見られないじゃないですか。……ただ見てみたかったんです。この景色を」
大正十二年九月一日。歴史の勉強でよく知る未曾有の災害、関東大震災の文字。
先程辿った銀座は勿論の事、茅帆がいるこの場所もそう遠くない未来に焼失する。過去に見たことのある焼失率百パーセントの文字は衝撃が大きかった。震災の被害が小さかった割に延焼に次ぐ延焼で今見ているこの日本橋は全て未来へと残らない。
活気のある人の流れに幅の広い道を行き来する電車と人力車、現代の茅帆には博物館でしか知り得なかった景色がここにはまだ広がっている。
そしていつか日本全土が第二次世界大戦という大きな戦争に巻き込まれて行く事を誰も知らないのだ。どれ程これからこの時代に愛着が湧いたとしても、全て運命は同じ道を辿る。茅帆には何も出来ない。勿論、地震を止める事も戦争を止める事も出来ない。
感傷に浸りながら横を見るとなんとも言い難い表情をして金田はこちらを見ていた。
「何ですか」
「否、沿う云えば君は遠い未来から来たのだったな。新鮮な反応をして居たのは何時ぞやの本郷の時位で、今日は外を歩いても余りに君の動揺が少ないので偶に忘れそうに為る」
「帰らずに明治に残れって無理言ったのは誰でしたかね? ついこないだだった様な気がしたんですけど。風邪の時だって帰る帰らないの話をした筈ですけど」厭味ったらしく言えば金田は顎をさすりふむん、と言い微かに笑った。
「其れに君は直ぐに噛み付く。疲れないのかね」
こちらを見て笑った姿を見たのは初めてだった気がした。茅帆は喧嘩を売られた様に感じ、その笑顔を嘲笑と認識した所為で立腹しながら金田の先へと行く。
「金田さんだってそんなに女の人に過剰反応して疲れないんですか? 結構いい歳ですよね、このままだと結婚出来ないままですよ」
雑踏の中なのにぱらりとページを捲る音が茅帆の耳に滑り込む。
桐野夫妻が暮らす家には印は無い。彼等が猫先生と呼ぶ師である小説家の家もまた本郷区千駄木町にあった。そこには確かに印があるのだ。今日はその彼を訪ねる予定であった。
千紗の体調はここ数日すこぶる良く記憶の上書きに緊急性はないらしい。だが体調が戻ってから金田が桐野へと何通も手紙を出したのを茅帆は知っている。
金田の表情から感情が消え失せる。桐野や千紗へ対すると感情豊かだと思う反面、金田にはそれを押し殺す闇も持ち得ていた。それは重く根深い。
帽子をより深く被り、金田は茅帆の横に並んだ。
「考えた事もないね。僕は今するべき事をするだけだよ」と彼は他人事の様に吐き捨てる。
桐野夫妻の未来を誰よりも渇望しながら、彼は自分の未来を全く見ようとはしていない。まるでこの先が無いかの様に刹那的な生き方だ。
(別に、この人が私がいなくなった後どうなろうと関係無いし、知る由もない)
そう思う茅帆もまた刹那的な生き方なのかもしれない。
「日本橋の次で電車に乗ろう。さて最寄りの駅は何処だったかな」
敢えて明るく言って見せる男の横顔から茅帆は目を逸らした。顔を覚えていたとしていつか戻る未来には何の有益にもならないと知っていたから。




