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明治巡逢帖  作者:
第一章 幻影ノ娘
6/8

「あんな感じでも大丈夫だったですか?」

 茅帆は紫煙を燻らす金田を振り返った。幾分か疲れた表情を浮かべた彼と同じく、慣れない場所と見知らぬ人とで緊張しただけあって霊体といえど疲れ切っている。

「思って居たより……収穫は有ったと云える」

 収穫があった割には金田の顔は浮かなく、声もどこか上の空だ。

 本郷を暮れる前に出て、朝とは違う路線の街鉄で麹町区の日比谷公園にまで戻って来ていた。

 桜門から入り公園を抜ける遊歩道。今現在日比谷公会堂のある場所には幸門しか無かった。あと少しで公園を出るという所まで来て、暮れる夕陽を眺めてどちらとも無く一息付く。

 歩道と花壇は木の杭で区切られ、暮れも近くなるとさすがに人の姿もまばらだ。

 図書館は建設されたばかり、音楽堂と雲形池や噴水は遊歩道近くで見た。明治時代にはすでにあったらしい。

 上の空のままではあるが金田は一応問いに応えてくれた。千紗の件で協力した事が態度の緩和に多少は役に立ったみたいだ。

(とはいっても、千紗さんとは金田さんを介してスイーツ談義をしただけなんだけどさ)

 結局は霊体の茅帆が側にいると言う説明を省いて話をするには当たり障りのない話しか出来なかった。

 金田の依頼で席を外した桐野はこれからまたやって来る締切に向け創作意欲を高める為に散歩でもして来るのだと言う。だらし無い格好でそのまま外に出ようとした桐野を血相を変えて引き止め、千紗が丸ごと着替えさせる悶着はあったものの書斎で他愛も無い雑談として会話は比較的スムーズに進んだ。有名な小説家は外聞を気にしなくていけないらしい。

 儚げな空気を纏わせていた千紗は、現代の菓子の話を持ち出され当時好きだった菓子の曖昧な記憶を掘り起こして行く。

 クリームはチーズ、コーヒーの甘い味、上に振り掛けたココア。答えはマスカルポーネのティラミス、といった具合だ。

 茅帆が横で連想ゲームが如く首を傾げ、いくつかのヒントを元に菓子の名を当てる。

 スプーンを入れると泡の溶けるスフレ。

 バターの香りのパイ層とバニラビーンズの入ったカスタードクリームが重なるミルフィーユ。

 メレンゲ生地の色鮮やかなマカロン、味はピスタチオとクランベリー。

 金田が海外経験があると言うのを理由にして上手く知識の方は誤魔化してくれた。これ等の菓子はこの時代には存在しないのかもしれない。それでも千紗は違和感無く茅帆の言葉を解釈し噛み砕き説明した金田の言葉を信じ、確実にいくつかの記憶を取り戻したようだ。

 二時間も過ぎる頃には透き通った白肌に赤みを取り戻し、楽しそうに笑い声をあげる程にはなった。記憶が心、桐野が先程言った事はどうやら真実らしい。しかし千紗はその記憶を上手く保つ事が出来なくなっているようだ。

(それを思い出す手伝いを私がするのか)

「千紗さんは私のいる時代からこちらにやって来たんですよね?」

「君に其れを説明する義務は無いと思うがね」金田の答えはにべもない。が、金田は直ぐに次いだ。

「と、言いたい所だが千紗君の様子を見た為らば然うは言って要られないだろう。少なくとも君は僕に取って非常に有益な情報源で在るらしい」

 今回で有益だと確証が持てなかったら説明するつもりは一切無かった様だ。

(この狸め)

 茅帆は内心で毒舌を吐いた。

「彼女は心のみ明治の世へと飛び、曾祖母の身体と融合したのだ。自らの身体では無い所為か中々馴染まずに苦しんで居る」

「でも身体って……その曾祖母の方はどうしたんですか?」

「消えたよ、彼女に身体を譲り渡して」

「……そう、ですか」

 赤橙に染まる大きな夕日は辺りを染め上げている。

 遠くでカラスが鳴き春の意外に冷たい夜風が木々の隙間から忍び寄ると大きな建物屋根の向こうから群青と薄暗い雨雲が近付いて来ているのが見えた。日比谷公園の木々の隙間から見えるのはホテルだろうか。

「君、提案なのだが」

「はい」

 ほう、と金田は吐息付いた。何やら覚悟を決めたようにも見えた。


「此の時代に骨を埋める気は無いかね」

 呼吸が一瞬止まる。


 彼はなんて言った?


「霊体の君為らば元の時代に戻っても生きて居ると云う確証は在るまい。為らば此の(まま)此処で____」金田の表情が丁度夕日の陰に隠れ見えなくなった。

 指一本動かない。何も応える事など出来ない。

 きっと酷い顔を金田はしているのだろう。これだけ自分勝手な事を提案しているのだから。背筋に冷たい物が滑り落ちて行く。じゃりと足を踏み出した金田から逃げ出そうと、反射的に茅帆は足を一歩後ろにずらした。

 踏み込む足がもう一歩、身を翻し駆け出そうとして体が押し止まる様に強張る。

(本があるからだ)

 茅帆の本体は金田が握っている。胸ポケットに入ったその本の存在を忘れていた訳では無いのに一歩踏み出したままで足を止めた金田から逃げ出せると思っていた。

 勝手な事を言わないで。せめて口だけでも反抗しようと唇を開き掛けて気付いてしまった。

 暮れる陽が落ちるのは早い。あっという間に忍び寄った群青と共にやって来た仄かに湿気帯びた風が金田の前髪を揺らし、その表情を徐にしてしまう。

 彼は_____

(泣きそうに見える)

 金田は茅帆よりもずっと歳上だろう。それなのに大の大人がまるで子供の様に親に怒られて感情を爆発させる寸前の様な表情を浮かべている。身勝手な言葉だと知っていてそれでも選択肢が無かった、複雑に絡み合う感情がそう言っている。

 だからこそ茅帆は聞いてしまった。

「……何を、隠しているんですか? 何を隠して私に協力をさせようとしているんですか?」

 聞くつもりなどなかった。

 聞かなければ良かった。

 茅帆にとって明治時代から現代に戻る手伝いをして貰う為に協力しただけだ。深く聞かずとも千紗が現代から来たのだからあのスイーツの名を知る事が出来たのだ、夢物語のようなものでもそれだけで終わった筈だ。

 足元を見る。着物と草履の脚は透け下の砂利が見えている。茅帆は曖昧な自分の存在を霊というよりも幻の様だと思った。

 いわば千紗と茅帆は似た様な存在だ。

 明治時代で体を得た千紗は幻の心を糧に体を生かせて往く。幻の心しか持たぬ茅帆は老いもせず忘れもせず、体を得ない限りはこの時代に存在し続けるのだ。だからこそ糧を必要としない茅帆は現代の記憶を持ち続ける事が可能なのだろう。

 ならば糧を持たないあの儚い人は。

 失われて行く記憶を掘り起こす術を持たないあの人は。

 聞くな、心の奥が叫ぶ。


「あの人……死ぬんですか? 私がいないと」声が震えた。


 金田の体が大きく身動ぐ。

 見開いた目は茅帆に赦しを乞うている。これ以上は危険だ、そう冷静な心の中の茅帆が押し留めようとしているのが聴こえて来る。

 出逢って僅かな時間しか経っていない。金田を評価するには絶対的な時間が足りないのだ。今ここで情に流されて帰る事を後回しにしてしまえば後で後悔する事になるだろう。

 記憶は心、心は命。

 茅帆は____千紗の延命剤だ。

「君に取って酷な事を云って居るとは僕とて理解して居る」絞り出す声は掠れ、聞くだけで胸が痛い。

 無意識なのか金田は丁度茅帆の本体である古地図の本がしまわれた辺りを強く掴んでいた。この胸の痛みはそれが理由だと茅帆は自らに言い聞かせる。

(この人は酷い人だ。何も関係のない私を自分が大切な女の人の為に巻き込もうとしている)

 古地図に隠された茅帆が帰る術、読み解くには本に触れる事が出来ない茅帆一人では難しい。確実に協力者がいる。しかもこの幻の身体を見る事ができるという条件付きの。

 金田しかいないのだ、今の茅帆にとっては。それなのに____

「為らば……骨を埋めろと迄は言うまい、僕が他の薬を探す迄で良いのだ。千紗君の時間を引き延ばすのを手伝って呉れないか」

 人ごとだと思って簡単に言ってくれる。

 触れる事が出来ない筈の風が茅帆の頬を撫でた。

 水滴が頬を伝い天を見上げる。先程の群青と共に忍び寄った雨雲の所為だろうか。小雨が降って来ていた。小さな水滴がしっとりと金田の髪を濡らし、頬を伝って行く。

 金田はきっと泣いていない。それなのに、まるで泣いている様に見えた。

「私……帰るんです。家族だっているし生活だってある」

 雨が降る。

 幻の茅帆を避けて辺りは余す所なく濡れて行く。目の前の金田は着込んだコートが雨を吸って重そうだ。髪の端から水滴が垂れている。

「向こうの世界の私がどうなってるか私にだって分からないけど、でも帰らなくていい理由になんてならない。あなた方の為に全て捨てるなんておかしいじゃない。帰るのを手伝うっていうことの条件で今日だって来たんじゃないんですか? あなた方が大切な物がある様に私だって……」

 そうだっただろうか。捨てる事が出来ない大切な生活などあっただろうか。

 自堕落に堕ちて行く日々、現実から目を逸らし息が詰まるような毎日。連絡の来ない日は地獄の様で仕事以外はいつも画面を見て過ごした。人の表情を伺い一喜一憂して。

 家族は大切だ。

 仕事もある。

 だってあの場所には茅帆の居場所が______大切な人が。

(大切な人だった? 本当に?)

「解って要る。君の言いたい事は僕とて解る」金田は両手で顔を覆った。濡れる樹々と花々、全て夕闇に覆われ公園にはもう行き交う人もいない。

「僕は……斯く有るべきと云う物を信じたくは無いのだ。もう何年も探して要る、其れでも有効な手段は見つからなかった。君しか居ない。君の記憶しか今は縋れる物が無いのだ」

 顔を覆う金田の指先は手袋で覆われている。

 茅帆はただ少し離れた場所で嘆く男の姿を見遣る。頬を伝う雨粒、顎から落ちる水滴は着物の胸を濡らして行く。風にすら触れる事が出来ない幻の身体に雨が降る。

「僕が彼等を未来迄繋ぐ、永遠に廻り巡る為に。解っているのだ。其れでも矢張り少しでも一日でも好い今の此の穏やかな時が続いて呉れた為らば」

「でもそれは私には関係のない事でしょう?」踏み出した足に怯え茅帆はまた後ろへと後退る。金田は傷付いた表情を浮かべた。怖がらせるつもりはない、とでも云う風に。

「頼む、君。僕が少しでも彼女に有効な物を見付ける事が出来た為らば、直ぐに君を元の世界へと帰す事を約束しよう。其れ迄は僕も此の本を読み解き何時か来る時に備えると約束するとも。だからこそ今は、頼まれて呉れないか。僕は___」

(でも金田さん、私には解るんだよ。記憶以外に彼女に有効な薬なんてきっとこの世には存在しない。記憶ですら難しい。だって)

「桐野さんに言っていたあの話、嘘でしょう?」

 闇に染まった葉に打ち付ける雨が軽やかな音を立てている。茅帆の言葉に金田は顔を歪めた。

 きっとイギリスからの薬が効いたなど嘘なのだ。金田がついた優しい嘘だ。桐野は千紗と共に命が削られているのを知らされていない。何故金田がそれを知るに至ったのか、それを知る術は茅帆には無いが全てを知っているのはあの場で金田のみ。

 寧ろ、知るのはこの世で金田のみ。そして今は_____

 声が震える。

「どの薬もあの人には効かない。それを隠しているんでしょう? だって、私の記憶ですら長い時間は効かなかった。覚える先から零れ落ちて行くじゃ無いですか。じゃあ、私の帰る事が出来るタイミングっていつなの? そんな日なんて絶対に来ないじゃない!」

 菓子の話を幾つも話し千紗は元気を取り戻した、かの様に見えた。しかし話を切り上げ、桐野が戻って来た頃には千紗の記憶からそれらは消え失せている。

 まるでこの時代に千紗が長く留まるのを拒んでいるかの様に。命の期限が元々決められているかの様に。


 帰りたい。

(嘘、私はそれ程望んでいない)

 残りたい。

(私を望み、必要としてくれるならば)


「あなたは狡い人です。あの人の命を盾に情に訴えようとしてる! 友人の彼も言っていたじゃないですか、あなた一人に背負わせないって。相談したら___」

「……彼女の命が長くは無いと。其れを知りつつも彼女が彼の為に此の時代を選んだと、か。命を削り子を産み先へと託し天に召された千紗君が又現代に生まれ、明治の世に降りる運命を選び続ける。彼女は桐野君を愛す為に永遠に巡り続けると、然う彼に云うのか」

 茅帆は下唇を噛んだ。

 果たしてそれを聞いた桐野が耐えられるだろうか。たった一人事実を知っているだろう金田がこれ程までに苦しんでいるというのに。

 だらり垂れた腕を伝い金田の指先から今や水滴は止め処なく滴り落ちている。懇願する瞳がこちらを向いていた。

(この人は狡い。女性が苦手だってあれ程までに言っておきながらこういう時だけ真っ直ぐ眼を見つめて来る)

 雨は止む様子を見せない。あれ程までに染まり上げていた夕焼けも既に群青色と灰色の厚い雲に覆われ、今夜は雨がずっと振り続ける様だ。

「僕が彼女を先に繋ぐ。其れが記憶を保って居た時の千紗君との約束なのだ」既に決意した強い瞳、濡れた前髪からこちらを見遣る。心は変わらないのだろう。伝えずに金田は耐え続ける。何事も無かった様にあの二人の前では繕いながら。

 それでも、訴えて来るのだ。


(苦しそうだ)


 苦しい。寂しい。一人にしないで欲しい。

 泣き叫ぶ苦しみは覚えがある。きっと茅帆の苦しみは金田の足元にも及ばないだろうけれど。

 茅帆は強く瞼を閉じた。そして大きく深呼吸をする。目を開いた時には既に気持ちは決まっていた。

「記憶を継ぎ足して行くのは限度がないですよね?……金田さんは彼女をずっと歳を取るまで生きていて欲しいんですか? でもそれは___」

「無理だとは承知の上だ」茅帆の言葉に畳み掛ける様にして金田は言った。

「僕とて可能な限り生きて欲しい。然し不可能な事を能く知って居る。今後、彼等には娘が生まれる筈だ。僕は其の先を彼女に託されて居るのだ。全てが消え……失せたとしても弥千子が先を紡ぐ。其して又彼女は桐野君と出逢う為に巡るのだ。だが今の身体の侭なら其れすら難しいだろう」

 確かにあの衰弱具合では子供を産むのは直接死に繋がるだろう。垣間見える残酷な運命に茅帆は下唇を噛み拳を強く握り締めた。

「じゃあ、期限を決めて下さい。私だって帰るのに協力して貰うのだからお手伝いはします。でもこの時代に残る事は……出来ない」声が震えそうになる。

 情に負けそうになっている事は気付かれたくなくて、茅帆はせめてもと声を張った。だからだろうか、少し怒った様に聞こえたかもしれない。


「だから全てを教えて」


 恐らく茅帆の運命が決まったのはこの時だったのだ。

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