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明治巡逢帖  作者:
第一章 幻影ノ娘
5/8

 続く竹垣、小石の転がる道。

 幾つか過ぎた門の格子戸と坂に器用に建つ階段に似た木造の住宅。ここを一人で歩けと言われたとして、地図を手にしていたとしても茅帆は恐らく目的地には辿り着けないだろう。

 本郷の停留所を降り、慣れた様子で金田は近くにあった和菓子店に入った。大して悩む事も無くそこで定番らしい土産の大福を買うと、坂と路地の入り混じった迷路にも似た場所へと足を踏み入る。

 人混みがある訳では決してないのに感じさせる人の濃密な気配。完全に生活音をシャットアウトする現代と違い、ここでは耳を澄ませばくしゃみまでも聞こえて来そうだ。

 じゃりと金田が踏む小石の擦れる音すら茅帆の耳に届く。勿論、霊体である茅帆は路地を歩いても足音はおろか影すら無い。

(あ、どこかで子供が喧嘩してる)

 次いで聞こえて来る母親の怒鳴る声。

 格子戸が激しく開く音が聞こえると、路地から顔を上げた視線の先に二人の兄妹が飛び出して来た。二人は小道を蹴り付けると玄関に向かって文句を言い捨て、我先にと駈けて行く。後をまた怒鳴り声が追った。

 時刻は昼過ぎ。

 この時代の正午の鐘扱いらしい昼ドンは路面電車の中で経験済みだ。盛大に驚かせて頂いたお陰で金田の損ねた機嫌は幾分かマシになっている。あの音の中で眠りこけていたのだから茅帆自身昨日の神経の図太さに呆れる。

 聞こえて来るのは竹箒の音。

「あら、金田さん? 珍しい」

 女性の声が古びた壁向こうから聞こえて来た。

「やあ実に元気然うだね」知り合いですかと振り返った先で金田が相好を崩す。帽子を徐に取り女性苦手も何処へやら、挨拶をしている時間も勿体ないと傍に寄った。この間、茅帆の存在は完全に無かった事になっている。

(別に良いけど)

 この女性が金田の友人の妻らしい。

「土産だよ。締切に苦しむ君の夫君にでも喰わせて遣って呉れ給え」

 金田は大福を手渡し、代わりに竹箒を受け取る。どこか儚げな空気を纏うその女性は風貌には似合わない歓声を上げ両手の平を打った。

「うわぁ嬉しいっ。ここの大福、最近食べてなかったんですよね! ありがとうございます。参商さんは今やっとひと段落付いた所ですんで伝えて来ますよ、きっと書斎で力尽きてますから」

「否何、僕が直接伺うよ。千紗君は申し訳無いけれど大福の用意を頼もうかなあ」

「はーい」

 ぱたぱたと音を立てて、ぱっと見の儚さに似合わない軽快さで姿が消えた。

 金田は手にした竹箒を路地側の竹垣に立て掛けると居場所を無くしていた茅帆を振り返る。

(あ、覚えていたんだ。このままここで放置されるのかと思っちゃった)

 何となく口を挟み辛くて路地の端で大人しくしていた。

「さて、僕達は庭へ回ろう。君は付いて来給え」格子戸を抜け、金田の姿が消える。

 それでも茅帆は共に踏み込む事が出来ずその場に立ち竦んでいた。金田は知り合いなのだから良い。しかし存在を確認出来ない茅帆がこの中に入って良いものだろうか。

 かといって後ろにタイムトリップした幽霊が付いて来ています、等と説明されても金田の頭を疑われるのがオチだ。

 付いて来ない茅帆を訝しく思ったのだろう。門向こうから金田がまたひょいと顔を出した。

「何だい、如何したのかね」

「相手のお友達に私の姿は見えてないんですよね?なんか許可無く人の話を盗み聞きする事になるみたいで……少し抵抗が」

 金田は目を見開き「人の家に勝手に来て助力を希った君の発言とは思えないな」と嘆息する。

「まあ君の事は追追時期を見て考えるのだから今日の所は余り深く考えずに大人しく付いて来給えよ。変な所で遠慮がちで……」

「がちで……ってなんですか?」と途切れた話の先を促すもののの金田は「否何、此方の話だよ」と話を終わらせてしまった。

 帽子をもう一度被り直し、次こそ振り返らず庭へと入って行ってしまう。茅帆は後を仕方なく追い掛けた。


 余り広くはない庭の端に桜の木が立っている。こじんまりとしている割に庭先の花は綺麗に整えられている。縁側のある庭の奥へと向かえばだらりと下駄履きの足を庭に下ろした男がこちらを向いていた。

 寝起きなのだろうか。乱れた髪に無精髭、胸元がだらしなく開いた着物は濃紺で中には詰襟のシャツを着ている。

 縁側に置かれた湯呑みからは湯気が立ち昇っていていかにも熱そうだ。金田を見ると眼光厳しい視線をだらり垂らした前髪の隙間から一瞬こちらに向けた。直ぐに嫌そうな顔をして見せ、下駄を放り投げると部屋へと引っ込んでしまう。

「あ、あの……私が見えてるってことはないですよね? 凄く嫌な顔をされたんですが」どう見ても友人が遊びに来た時の態度とは思えない。

「さて君が彼に如何見えてるかは僕にも予測が付かないが、桐野君の態度を気にして居るので有れば杞憂だよ。彼れは努めて然う云う男なのだ」

 友人の塩対応にも頓着せず金田は庭木を眺めている。と書斎から物音が聞こえて来た。どうやら桐野と呼ばれる金田の友人は突然の客人の為に一応はあっさりと書斎を片付けているらしい。

 数分後、忙しない物音がピタリ止む。

「何をして居るのですか、入らないのですか」次はさっさと入れと来た。

「嗚呼済まないね、新緑が眩しいなあと思ってね」

 こじんまりとした花壇の花は咲いているとはいえ庭木で時間を潰すには時間を持て余す。それでも金田はまるで堪能して書斎に行くのを忘れていたかの様に振る舞った。

 数歩離れた場所でまたも立ち竦んでいた茅帆に金田は視線を向け、僅かに共に来る様促す。と朗らかな表情で縁側から書斎へと身を乗り出した。勿論靴は庭へ置いたままだ。帰りもここから帰るのだろう。

 しっかりと着込んだままだったコートを脱ぐと金田は正装にも近い格好であった。濃い色で長めの上着にタイと立襟のシャツ、どこぞの舞踏会に出てもおかしくない姿だ。

「僕の家は何処ぞの御大尽(たいじん)宅ですか。仰々しい」

 文机の前で着物の裾を蹴り捌いて片立膝をした桐野が厭味を言った。

 書斎内は薄暗く壁一面に書棚がびっしりと据え置かれている。棚には置き場もない程の本、床にも本。投げ捨てられた書き掛けの原稿用紙は縁側から入って右側の障子の裏に山高く積まれ、端が雪崩を起こして一応は用意したらしい客用の座布団に一部覆い被さっている。

 座布団は一つ、茅帆は安堵した。

 金田が原稿用紙込みで座布団に胡座を掻いたものだから茅帆は縁側を背にして書斎の入り口に座らざるを得なかった。何せ他に居場所が見出せない程に床が見えないのだ。

「締切は間に合ったのかい」厭味を聞き流し金田は尻に敷いた原稿用紙を一枚取り出しちらりと見遣る。

「随分と苦戦した様だね、君の割に。然し相変わらず蚯蚓(みみず)の這った文字だなあ。此れで好く担当も読める物だよ」

「其れは下書きですからね、未だ他はましですよ。久坂君にも何も言われませんでしたし」

「言えなかったのでは無いのかい」

 手にした書き掛けの原稿用紙を山の上に積み上げず、金田は茅帆の前に放り投げた。手に取れない紙がこちらに滑り込んで来たので茅帆も身を乗り出し覗き込む。

(うっ……よ、読めない)

 達筆の限度を超えている。癖を前面に押し出した文字と旧仮名に苦戦し首を傾げた茅帆を見て、金田はくつくつと笑った。

「何を笑って居るのですか。僕は締切に間に合ったので今は自由ですよ」

「然し次の締切が或るだろうよ、売れっ子作家は大変だなあ。疲れた先生様に大福を持って来たから甘い物でも補給したら如何だい。千紗君が今持って来てくれると思うのだけれど___体調は好い様だね」

 声のトーンを落とした金田に気付き、茅帆は読めない原稿用紙との奮闘を諦めた。結局読めたのは二文字程、話の流れから桐野は小説家らしいが読むのならば活字になった本でしか不可能だろう。

 桐野はちらりと金田後ろの襖向こうを見遣り、乱れた髪に手を突っ込む。がしがしと頭を掻いた。

「先日金田君が持って来て呉れた薬で幾分か楽に為った様です。英吉利(イギリス)の」

「嗚呼其れは好かった、又取り寄せる様言っておくよ」渋い表情を浮かべる桐野と反して金田は軽やかに笑う。

「千紗君は贅沢だなあ。僕も探し甲斐が有る」

「すいませんね。金田君にばかり面倒を押し付けて」

「否何、千紗君が此方に馴染むまで少し時間が掛かるとは僕も最初から聞かされて居たからね。君が探すより僕の様に顔が広い人間の方が手っ取り早いだろうよ。君も千紗君が絡むと大概気遣い屋だなあ、全く傍目には然うとは見えないけれど」

 廊下奥から小走りに駆ける足音が聞こえて来ると、金田は伏し目がちに口端を持ち上げた。

「僕は君達の為なら何も惜しく無いよ、金も時間も僕は有り余って居るからね。精々甘えて呉れ給え。屹度、先生も同じ気持ちだろうよ」

「___金田君、あんた」桐野が何か言い掛けるのと千紗が飛び込んで来るのは同時だった。盆に乗せた大福と焼き菓子を丁度茅帆が座っていた横に置くと、千紗は身を翻す。

「もう一つ、お茶のお盆を持って来ます。流石に一度は無理でした」

「千紗」今にも廊下を走ろうとしていた千紗の背中に桐野は低い声を掛ける。結い上げた髪の後れ毛を振り回して千紗が足を止め振り返ると、桐野は不機嫌そうな表情に僅かな苦笑を混ぜて片手を上げる。

「急いで居ない。余り走るな」

 聞こえていたのかいないのか、千紗は軽く「はーい」と言い残すとぱたぱたと廊下を早歩きで去って行った。その後、奥から漬物も必要か聞いている声がする。

 金田が耐えられず噴き出す。盆を桐野に押し出すと桐野は促されるままに大福を一つ手に取った。

「千紗君は……変わらないなあ。あれから彼女は何か元の世界の話はして居るかい」

「時折。が、矢張り少しずつ記憶は薄れて居る様ですね。彼れの体質は記憶の減少と比例して居るのかも知れ無いな。百年以上先の歴史や記憶を心と呼ぶのか、其れは定かでは無いが」

 百年以上先の歴史。

 茅帆は正座していた踵から尻を上げ、金田を振り返る。

 金田は表情を買えず、ただただ穏やかな顔で不愉快そうな桐野を見ていた。その凪いだ表情が茅帆にはどうも胡散臭く見えて仕方がない。

(あの顔、自分が平気だと言い聞かせてた私の表情に似てる)

「其の件に付いては僕も少し当てが有るのだ。薬と共に任せて貰えないだろうか。薬が好く効いて体に心が馴染めば当初の彼女が言った通りに体調も元に戻るだろうよ。時間が掛かるのだ。何、今回の件は悪い様にはしないよ」ちらり、金田がこちらを向き小さく頷いた。

「私に現代の話を思い出す手伝いをして欲しいって事ですか? 千紗さんの」

 茅帆が言うのとほぼ同時に、桐野が地を這った低い声と共に睨み付けた。丸めた原稿用紙が金田へと向いている。

「金田君、僕はあんたに全て押し付ける積り等無い。君が何か考えて居るなら其れを教えては呉れ無いか」


 足音がまた聞こえて来る。

 金田は次こそ破顔し呵呵と笑った。

「僕は出来る事しか遣らないよ。君等は黙って僕に甘えて居たら好いのだ」中腰になったままの茅帆と金田の視線が合う。

「まあ少しは僕の思うが儘にさせて呉れ。助力が必要ならば直ぐに言うと約束しよう」


「其れで良いかね。千紗君」

 話の流れが全く読めなかった千紗は、茅帆の横で盆を持ったまま首を傾げた。

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