第二十八話
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色彩が眼の端に触れる。
それは周囲に群れる雑多な妖精、蝋燭のような淡い光だけを放つものがゆらゆらと揺れている。
目の前にはグラスがいくつか置かれている。古代遺跡から掘り出されたような歪んだガラスコップ、その中を満たしていたのは蜂蜜を純水で割った飲み物。最初の何杯かは濃すぎて飲めたものではなかったが、何度かテーブルの上に現れるうちに、どうにか喉を潤せるものになってきた。
しかし、この空間で飲食など意味があるのか。
シジラはふと、目の前にいたはずのメイドに気づく。彼女はテーブルの下に倒れていた。ぐったりと弛緩している。
「……不思議な場所です。生理現象もなければ眠気もない、蜂蜜の水割りを飲むこともあまり意味がないように思える」
懐中時計を取り出すが、針は動いていない。
だがムーブメントもゼンマイも異常は見られない。秒針も、調速機も、動く速度が目視できないほど遅くなっている。
だが、この場でも気力だけは消費するのか。
メイドは永い時間の果てに倒れてしまった。眠りとも違う、枯渇とか尽き果てるという言葉が近いように思える。
「……このメイドはセレノウの人間。おそらくは旅の従者として働きづめだったのでしょう。限界が早く来た、ということですか」
絵を見る。そこには天まで伸びる鎖と、八枚の絵。
セレノウのユーヤは絵の前に屈み込み、まだ絵を見ている。休むことなく。
(おそらく……50時間以上が経過している)
前にあるものから解答する、という取り決めはない。ユーヤはときどき移動しながら絵を食い入るように見る。
焦りはまるで湧いてこない。また疲れもない。何もしていなければ無限に座っていられそうな気がする。
だが、このメイドのように誰かを心配したり、脳を使っていれば確実に気力を消費する。ここはそういう場所なのだと理解した。
がく、と、その彼が両手足を突いたのを見て腰を上げる。
周囲には妖精の気配が濃くなる。妖精が興味でも示しているのか、遠巻きに巨大な花畑が生まれるような眺めとなる。
あるいはそれは彼岸の眺めか。
「確認しておきましょう」
ユーヤのそばまで行って、その背に声をこぼす。
「この世界では生理現象としての眠りや気絶はありませんが、気力が尽きれば意識を失う。その状態になればあなたの敗北です」
「……勿論だ」
シジラを見もせずに、また身を起こして絵に向き合う。膝立ちとなって絵に向き合う姿は何かの祈りのようだ。
「私の方には疲労はありません。何千時間でも待っていい。ですが、あなたはもう限界でしょう。回答できなくなる前に、せめて勘にまかせて答えてはどうです。四枚の絵で真贋を当てられる確率は16分の1、さほど悪い賭けとも思いません」
ユーヤに同情的なことを言っている自分に少し驚くが、ユーヤの反応は鈍かった。のっそりと腰を上げて、今度は立ちながら眺める。
「……引き伸ばしてるわけではないことは理解します。この空間ではそんなことに何の意味もない。しかし、それだけ観察したなら、もはや新たな要素など見つからぬでしょう」
「……待っているんだ」
ユーヤは、それは彼にはまま見られる事だが、憔悴と覚醒が同時に起きているように見えた。唇がかさかさに乾いて頬がこけ、それでいて眼だけが異様に光っている。
「待つ……何をです」
「脳が、動いてくれることを」
実のところ、彼は見た目以上に限界を超えていた。己に話しかけてる人物が誰なのか、理解していたのかどうか。
「あなたの気力は尽きかけています。もう思考が覚束ないでしょう」
「僕のかつてのパートナーは、天才に憧れていた」
ふいにそんな事を言う。
「天才になればこの世の憂いから解放されると、新しい未来が開けると、そう言っていた」
「天才になる……?」
「そう……それはあるいは栄養状態。十分な睡眠や適度な運動。簡単な計算問題をやったり、野菜の名前をたくさん思い浮かべたり、それで脳が活性化する、そんな研究はたくさんある」
「ああ……その手の話ですか。こちらの世界にもありますよ。パズルが盛んなシュネスなどではよく研究されています」
「その方法論の一つに、解けると断言することもある……。人間は、解けないと思っている問題は本当に解けなくなる。自分にはこの程度の問題は解けて当たり前。その自負心が海馬の奥深くまで届き、記憶の海から打開策を探す」
「……なるほど、それなりに興味深い話です」
だが、現に解けていないではないか。シジラはそのような眼をする。
ユーヤは果たして誰かに説明していたのか、あるいは内なる思考と発言の区別が無くなっていたのか、絵の中の占星術師に向かって語る。
「あるいは、途徹もない激痛と出血。もしくは呼吸を止めることによる血中酸素飽和度の低下も有効だ」
「……?」
「そしてあるいは、死の淵まで殴られること、とかもね……」
「あなた、何の話を」
「……いくらでも殴られてあげると言ったからね。殺されてあげてもよかった。彼女は遠慮なく殴った。革の手袋をはめて、腹部を、手足を、下腹部を、そして顔面を殴ったんだ。仕方がない、僕は彼女にそのぐらいのことをしたんだから」
錯乱だろうか、とシジラは思う。何かの昔語りなのか、夢うつつなのか、ユーヤの言葉はまとまりが無くなっている。
「およそ加減も躊躇もなかった。僕も手で防いだりは出来なかった。後ろ手に縛られていたから当然だ。顔中から出血して倒れた僕を、彼女はさらに何度も蹴った。踏みつけて、蹴飛ばして、のし掛かりながらさらに何度も殴った。僕はとても鈍いから、本当の恐怖を与えるまで時間がかかった」
「……」
「一時間ほど殴られ続けて、ようやく、僕は死に触れた気がした。実際、近所の住人が通報しなかったら死んでてもおかしくなかったそうだ。彼女は姿を消して、僕は入院した。そして死に触れた実感だけが残った。貴重な経験だった。彼女は僕に託してくれたんだよ」
「……何を、ですか」
「死の重み……あの夜の一流クイズ、彼女は賭けに勝ってこう言ったんだ。どうか殴ってくださいと。それだけはできないと僕が拒否したら、彼女は引き換えに僕を殴った。本来は彼女が受けられるはずだった臨死の誉れを僕に与えてくれたんだ。なんて申し訳ないことをしたのか。どれほど詫びても足りない。僕だけの都合で、何一つ、二年も一緒に暮らしていながら、彼女に何一つ与えてあげることができなかった。愛も、死も」
そしてシジラは気付く。
この男の眼は死んではいない。確かに消耗の極みではあるが、まだ意思がある。
では、今の話はうわ言では無いのか。何か、シジラには理解不能な世界の話だったが、まさかそれが何かしら実のあることだと。
「二問目、『占星術師』」
「あ、あなたは……」
「左が真作だ。真作はわずかに経年劣化しているが、贋作は描かれた当時の色味を再現している」
瞬時に赤く染まる絵。鎖が引き上げられていく。
「三問目、『水底のタウラル』、右だ」
「馬鹿な……どうやって」
「署名だ。わずかだが左の絵は署名の筆の流れに迷いがある。君の姉は贋作ではなく、あくまでも模写を作っていた。だから出来上がった絵に本来の画家の署名を入れていなかったんだ。つまり、この絵にある署名は君の姉ではない誰かが入れたものだ。他にも全体が放つ空気、顔料の乗り具合、筆先の遊び、それらが見える。今ならば」
「ぐ……」
タキサイキア現象。
脳が生命の危機を感じたとき、脳が生き残る手段を探すために、ニューロネットワークを異常に活性化させる現象である。交通事故に逢った人間が、景色がスローに見えるという話がそうだと言われる。また運動選手の「ゾーンに入る」という状態などもこの言葉で説明される事がある。
方法論としては封印している臨死の記憶を掘り起こし、死の恐怖によってタキサイキア現象を起こす。果たしてそのようなことが現実に起きるのか。あるいはまったく別個の事象、脳の不可思議さの神秘なのか。
だが、確かにできた。人生でそう何度も到達できぬほどの超集中を。ブドウ糖を使い果たしたはずの脳が、自らを炉にくべて燃えるような烈しい思考を。
「四問目、『カンツブの実を割る娘』、右だ。女性の表情にわずかな差がある。真作の方は男性が描いた絵だと思われる」
「ぐ、そ、そんなことが……」
「……素晴らしい絵だ。これは決して魔女の騙し絵などではない。ここには巨匠への果てしない尊敬がある。この絵に会えてよかった。やはり魂は流転するのか、たとえ同一の存在ではないとしても、異なる世界にも僕たちのような人間は存在していたのか」
ユーヤの眼から涙が流れている。それは感涙ではなく、自律神経の乱れによる情緒の混乱ではあったけれど、言葉と相まってシジラに動揺を与えていた。
「ああ、やはり彼女も同じだった。天才に憧れる哀れむべき子羊。これだけの技術を持ちながら、彼女には自分自身の描きたいもの、描いてもいいものが無かった。余りにも巨匠を高く抱くために、自分自身をつまらない存在と卑下していた。周りにその崇拝が理解されないことを悩んでいた。僕たちもそうだった。それなりに恥じることのない自分を持っていたはずなのに、遥かな高みを見上げて自分に満足しない。何がTだ、あんなものは世界に一人いれば十分なのに!」
「……ぐ、な、何を言っているのです。余計なお喋りなど……」
「誰が彼女をこんな風にした。それはおそらく彼女の境遇ゆえだ。パルパシア王家に生まれながら、けして玉座に座ることのない妾腹の存在。自分が何かを表現したり、表だって自分の意見を言っていい人間だと思っていなかった。自分だけならいいが、妹まで同じ境遇となっていたことを嘆いていた」
「あなたに何が分かる!」
「君には何かが分かると言うのか! 彼女の嘆きが聞こえないのか! この模写は彼女の心の叫び、過去の誰かになりきっている時だけ彼女は自由だった。大きく翼を羽ばたかせて想像の世界に遊んでいた。そして彼女はいつも苦悩していた。現実の世界はとても辛くて居心地が悪かったから。だから己の全てをキャンバスに投げ入れた!」
「う、く……」
「五問目、『銀の首飾りの花嫁』、左だ」
絵が赤く染まり、鎖が巻き上げられていく。
だがもはや、二人ともそれを見ていなかった。
シジラの足元から力が抜ける。この空間において彼女も疲弊していたのか、あるいは心の乱れのためか。
倒れかけるところを、かろうじて踏みとどまる。
「彼女は、いつも責められているような気持ちだった。自分に向けられる非難の目、どうにもならない境遇と、どうすることも出来ない自分、その中で苦悩していた」
「……う」
「彼女は君たち姉妹の絵を描こうとした。だけど描けなかった。どんな絵なら喜んでくれるか分からなかったからだ。彼女は自分自身への評価がとても低く、それゆえに自分を変えることができなかった。妹を喜ばせてあげたいのに、妹を悲しませたくはないのに、模写を作る以外に何をすることもできなかった。自分なりのやり方、というものを思い付けなかった」
「やめ、て……」
「そして彼女が何よりも嘆いていたのは、この魔女の騙し絵そのもの」
「え……」
ユーヤの周りで妖精たちは遠く離れていく。人間たちの世界を恐れるかのように。
椅子もテーブルも消え、世界は果てしなく白一色に近づく。
「贋作は存在するだけで罪深い、彼女はそう考えていた。しかし彼女自身の署名を入れてしまっては、これらの絵は彼女の絵になってしまい、贋作ですら無くなる。どうしようもないほどの二律背反。人生の最後まで何者にもなれなかった苦悩。最後まで愛されることを求めて、君を愛したくて、でも何も出来なかった悲しみの結晶」
「あ……!」
涙が。
シジラの両眼から涙がつたう。
姉がこの世を去った時も、空虚さだけで泣くことは無かったのに。
腕で拭うこともできぬ、全身が震えてただその場にくず折れるのみ。
そして心の泉からあふれ出るような、とめどない涙が。
「……それが、魔女の騙し絵の正体だ」




