第一章 禁じられた調べ(1)
春――。
そう称するには、寒すぎる朝、私は足早に集合場所である講堂に向かって歩いていた。
「なんだって、こんなに朝早くから集合なんだろうね」
私はため息をつきながら、まだ暗い空を見上げた。
日の出までまだ数刻はあるだろう。
見習い楽師の初日が、こんなに朝早いとは思わなかったのだ。だから、昨夜、就寝前に指定されたほぼ夜のような集合時間に思わず耳を疑った。
「まぁ、見習い楽師なわけだから、仕方もないけどね」
楽師に限ったことではないが半人前の見習いの扱いは、どこでも決していいものではない。
遅刻をして目を着けられたら、それこそ大変だ。
おそらく見習いの仕事の一環である掃除場所を指定する際、一番過酷な場所を割り当てられるに違いない。
その事実に気づいた私は、先ほどまでは早足程度だった歩調を駆け足に変え講堂へ向かうことにした。
「婉兒様と同じ髪飾りをするなんて、思いあがっているんじゃないの!」
足早に向かった廊下の先から聞こえてきた叫び声に私は、心の中で頭を小さく抱えた。
これにかかわったら、確実に遅刻する――と。
おそらく私と同じ考えなのだろう。見習い楽師たちは、少女たちを見て見ぬふりをして通り過ぎていく。
「申しわけございません。でも、わざとではなく……」
「いいえ! 絶対わざとよ。あんたがこの国屈指の商家の娘だからって、婉兒様と対等になれた気でいるんじゃないの?」
「と、とんでもございません。おそれおおくも貴妃様の妹であられる婉兒様に対して、そそのような……」
徐々に彼女たちの姿が近づくにつれ、困惑した少女の表情まで見えてきた。厚く長い前髪に隠れているが、その瞳は大きくまるで昔買っていた子猫のようだった。
子猫の記憶しかないのは、私がうっかり閉め忘れた部屋の戸から抜け出して逃げ出してしまったからだ。猫との別れとなった日、「公演に遅れるから後でいいや」と思って、戸を閉めに戻らなかったことがふと脳裏をよぎった。
罪悪感というものは、どうしてもこう鮮明に記憶に残るのかと不思議に思っている間もどんどん彼女たちとの距離が近くなっていく。
「もったいない」
気づいた時には、思わず彼女たちに私はそう声をかけていた。
「え?」
私の決して小さくないつぶやきに、3人の少女たちは驚いたように振り返った。
「後宮歌劇団の訓戒、『清く、正しく、美しく』『美しい声は、美しい心に宿る』って、本当だなって思って」
私はそう言って、詰問していた少女との距離をさらに縮める。
「可愛い顔が、台無しだ」
言葉をかみしめるようにゆっくりと呟き、微笑むと少女はパッと耳まで顔を赤くした。
下町の舞台で歌っていた時から知っていたが、私の笑顔には少女の心を打ちぬく力があるらしい。
「それにね――」
私はさらに少女の耳元へ顔を寄せて一段と声を小さくした。
「講師がさっき廊下の先にいたの。見つかったら、婉兒様にも迷惑がかかるんじゃない?」
少女はその言葉を聞くと、パッと私から離れて廊下を見渡した。
あくまでもハッタリだが、十分効果があったようだ。
「その髪飾り、講堂に入る前には外しておきなさいよ!」
そんな捨て台詞と共に、少女はその場から足早に立ち去って行った。
「え……。でも……」
その場に残された少女の髪に目を送ると、なるほど、と思わず納得させられた。そこには、小さな真珠が無数にあしらわれた髪飾りが光っていた。
決して華やかというわけではないが、その値段を平民が一年働いた賃金で賄うのも難しいに違いない。
「今、それしか髪飾り持っていないの?」
私の問いに少女は小さくうなずいた。
豪商の娘というのだから、おそらく髪飾りがないというわけではないのだろう。あそこまで言われて外さない理由はそれしか見当たらなかった。
髪飾りを見ると左右から伸びた髪を緩く留めているため、この髪飾りをとると彼女の髪は下ろしっぱなしになるのだろう。そして、それは見習い楽師には許されない髪型だった。
「部屋に戻ったら、集合時間に遅れちゃうし……」
見習い楽師の部屋は講堂から一番遠い場所にある。部屋まで戻り髪飾りをとってきて、さらに髪を直したらゆうに集合時間を過ぎてしまうだろう。
「髪、触ってもいい?」
「え? あ、勿論です」
少女の了承を得て、私は彼女の髪から髪飾りをゆっくりと外した。私より頭一つ分は小さいであろう少女の髪を結うのは簡単だった。
「私、華蓉。よろしくね」
「私は、花絲です。ありがとうございます!」
小動物のようにペコリと頭を下げる花絲<カシ>に思わず笑みがこぼれた。
「で、でも私とかかわって、大丈夫ですか?」
「何が?」
私は手早く手元の髪をまとめ上げながら、すっとぼける。
「だって、きっと婉兒様たちに目を付けられちゃう」
「大丈夫。私は、下町の舞台で歌っていただけの小娘だもの。目なんてつけている暇ないんじゃない?」
この後宮歌劇団に入団する条件は驚くほど少ない。
・未婚の女性
・歌や踊りが秀でていること
身分が必要なわけでもなければ、実績が必要なわけでもない。そのため婉兒様のような貴族の娘から私のような平民まで、国中から入団希望者が殺到するのだ。
「貴族の娘が振り分けられるのは青龍だし――」
後宮歌劇団には大きく分けて4つの組が存在する。
・青龍組
・白虎<ビャッコ>組
・朱雀<スザク>組
・玄武<ゲンブ>組
建前としては楽師の実力を均等に配分し、1日に最大4公演を実現するためだ。だが、実際のところ青龍組には貴族の娘しか在籍していない。
「貴賤を問わない」という後宮歌劇団だが、その実はやはり身分によって明確に線引きが行われているのだ。
「私とあの婉兒様が役を取り合うなんてことにはならないわよ」
私はそう言って、髪留めを髪の奥に巻き込むようにして、髪を結いあげた。
私の言葉に花絲は驚いたように、自分の髪にササっと指をはわせる。
「すごい! 髪留め、見えませんね」
髪留めなんて気にするなと背中を押したかったが、おそらく婉兒様たちと戦うであろう彼女にとっては、それは気休めにしかならないだろう。
「ありがとうございます。なんとお礼を言ったらいいか」
「いいよ。でも遅刻ギリギリ。さ、行こう」
私はそう言って、花絲の手を取り、講堂に向かって全速力で走ることにした。それは長年、夢見てきた後宮歌劇団の舞台がある場所だった。




