第四章 毒怨の歌姫(5)
私は居ても立っても居られず、次の瞬間、桟敷席から飛び降りていた。通常の桟敷席よりも低い場所に設置されており、階下の座席は後ろの席でも見やすいように徐々に高くなっていたため、桟敷席から普通の客席まで、さほど高さはなかった。
「華蓉!」
背後で心配する煌の声が聞こえたが、私はそのまま舞台へと駆け上がった。私が舞台へ上がった瞬間、幕がサッと背後で閉じるのを聞いた。
「蘭月様、失礼します」
おそらく、彼女は毒物を飲まされたのだろう。口の中に手を入れて、胃の中の物を吐き出させようとするが、血が混じった胃液しか出てこない。
「毒か?」
遅れてやってきた煌が固い口調でそう尋ねる。
「多分……」
「でも、一体、誰がいつ?」
怒気にも似た口調で牧様はそう尋ねた。
「蘭月様が最後に食事をされたのは……」
蘭月様と誰よりも同じ時間を過ごしたのは私達だった。
思い返すが、蘭月様は夕食の時間には、お茶と団子だけしか召し上がられなかった。しかも、ほぼ白湯のようなお茶だ。
「おそらく最後に口にされたのはお団子だけど……」
ようやく現れた宮医に蘭月様を渡し、私は舞台の裾から裏口へと回った。今なら間に合うかもしれないと走り出すと、待っていたかのように煌が私の横を走った。
「調理場か?」
勢いよく頷くと、煌は「こっちだ」と直ぐ側の角を曲がった。
「観劇されながら飲食される方も多いから、抜け道があるんだ」
煌の背中を追うように少し走ると、そこは調理場の裏口だった。
「すごいわね!」
「こういうの俺、得意だからね」
自慢げにそう言った煌に少し心が和みつつも、調理場から調理する音や匂いがないことに緊張感が走る。
もしかしたら、既に証拠が捨てられているかもしれない。
「見習楽師殿! どうしたんですか?」
勢いよく調理場に入った私達に最初に気づいてくれたのは、宦官の耽さんだった。
「蘭月様が毒を盛られたみたいなの」
「え……」
耽さんは、ヘナヘナとその場に座り込んでしまった。
「大丈夫?」
私は耽さんに手を差し伸べて、立ち上がらせる。
「蘭月様のお菓子を担当したのは、誰か教えて欲しいんだけど」
「それは……」
顔面蒼白な耽さんは、微かに震えていた。
「蘭月さんのお菓子を用意したのは、私です」
耽さんの回答を待たずに、そう声高に教えてくれたのは中年の女性だった。他の調理場で働く宮女たちと着物の柄や色が違うことから、責任者なのだろう。
「私が毒を盛ったとでも?」
私は慌てて首を横に振る。
「調理場の方々が、食事に毒を盛られましたら直ぐに足がつきます。
犯人は自分だといっているようなものですからね。
そうではなく、蘭月様の菓子をすり替えた人などはいないかとお伺いしたくて……」
「調理場を何だと思っているんですか。
ここでは、あなた達楽師の料理だけではなく、后妃様や皇帝陛下の御膳もお造りしているんですよ。アリ、一匹入り込む隙はありませんよ」
「でも、最近、アリって、また増えましたよね」
女性の横に立っていた少女が不思議そうに首を傾げた。
「春だからですよ!」
中年女性は自分の演説が邪魔されたと思ったのだろう。
顔を真っ赤にして少女を叱責する。
「えぇ~そんなことないですよ。2か月前はそりゃ、いっぱいいたじゃないですか。
黒い食器かと思ったらアリだったの覚えてません?」
少女の言葉に厨房から悲鳴が上がる。当時の様子が最悪の記憶として蘇ってしまったのだろう。確かにその様子を想像すると、ゾッとさせられる。
「一時期はいなかったんですか?」
私が、そう尋ねると少女は「そうなのよ!」と勢いよく頷いた。
「先月ぐらいかな。誰かが仕掛けを作ってくれたら、途端にいなくなってね。
すごいなぁ~って感心していたんだけど、また増えだしたから新手のアリかもしれないわね」
「無駄口はよしなさい! さっさと全員持ち場に戻る!」
少女を責め立てるように中年の女性は叫んだ。
「あの……。耽さん、調子が悪そうなので、お部屋にお送りしますね」
私の提案に同意する代わりに中年の女性は「好きになさい」と鼻を鳴らして持ち場へと戻っていった。
「歩けるか?」
煌に抱えられるようにしながら、耽さんはフラフラとした足取りで廊下を歩いていた。
「お前の部屋はどこだ?」
煌の質問に私は首をかしげる。
「宦官の部屋じゃないの?」
「正確には、耽は宦官じゃないんだ」
煌はそう言って残念そうに首を横に振った。
「宦官は正式な手続きを踏んで初めて、宦官として後宮で働ける。だが、耽は手術が失敗し、正式な手続きを踏めなかったのだろう?」
煌の言葉に耽は力なくうなずいた。
「なんで分かったの?」
「耽は今年で二十。その年齢からしたら、見習調理師って変だ。さらに食尚局長の態度を見ると、正規の宦官ではないだろうなって……」
後宮には幼少の頃から料理を学ぶために少女たちが入っていることもあり、見習調理師となると平均年齢は十代半ばだろう。
「おそらく冷宮あたりの廃墟で雨露をしのいでいるのだろう」
「そうです……」
冷宮は後宮の最果てにある廃墟が集まる一角だ。
「僕、本当に歌しか取り柄がなかったんです。楽器も弾けない、絵も描けない……。
あの調理場でできることだって、力仕事と雑用だけですよ」
自嘲的に笑いながら耽さんは、フラフラと歩みを進める。
「僕と歌をつなぐのは、もう蘭月様だったのに……。誰がこんなこと」
蘭月様が、耽の作る薬湯を必要としなくなれば、耽はおそらく後宮歌劇団に足を踏み入れることもなくなるだろう。
「毒なんて後宮で手に入らないだろうに」
耽の言葉に同意しつつ、煌もそう不思議そうにつぶやいた。
「アリよ」
私は思い切って、その事実を伝えることにした。
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