番外編:ヴィオラ、着物デビュー?
東京暮らしにも慣れ、すっかり行きつけになった呉服屋の店内は、集まった人々の熱気に対応すべく備え付けの空調設備以外にも二機の扇風機が設置されるという徹底ぶりだった。
店の外には「盛夏の装い展」と銘打たれたのぼりが翻っている。そう、催事イベントだ。
五月下旬に盛夏と聞けば早いと感じる人も居るかもしれない。けれど反物を購入してこれから仕立てると考えれば、むしろ遅いくらいだ。この催事の賑わいっぷりを見るに、今から仕立てても今年の夏に着るのは難しいかもしれない。
とはいえ、ここ最近の僕の体感では一年なんて瞬きをする間に過ぎてしまうもの。今年が駄目なら来年着れば良い、くらいの感覚で、むしろ僕は普段店頭に置かれていないあれやこれやを見られて内心ほくほくだった。
隣には、貴重な休みなのに何故か僕の買い物についてきた洋士。彼の目からは既に半分光が失われている。この混雑具合に辟易しているのかもしれない。……そんなに暇ならどこか好きな場所へ行けば良いのに。「さてどうしたものか」と考えあぐねているところへ、背後から声をかけてきたのはヴィオラだった。
「はあ、想像以上に良かったわ……! お陰で散財しちゃったけど」
振り向くと彼女の両手には、半分紙袋からはみ出している可愛らしい人型のぬいぐるみがちらほら。この近くでやっているというイベントで買ったものなのだろう。
「お目当てのものが買えたみたいでなにより」
「そういう蓮華くんは? 良いもの見つかった?」
「ありすぎてなにを買おうか迷ってるくらいだよ。ごめんね、まだまだかかりそうで……」
「この人混みじゃ品物を見るのも一苦労しそうだものね。……それにしても、盛夏用?の着物って凄く薄いのね。後ろが透けて見えるわ」
「ああ、それは紗だからだね。盛夏用の透ける生地には主に絽と紗があって、紗の方が透け感が強いんだ。だから絽と紗を重ねたり、紗と紗を重ねて、下の模様が見えるような着こなしをしたりもする。……盛夏用なのに重ね着するなんて本末転倒かもしれないけどね」
「これだけ透けてたら重ね着するくらいが丁度良いのかもしれないわね? 見た目は涼しげでお洒落だし……」
そう言いながら紗の反物を眺めるヴィオラ。ところが、反物につけられたタグを見た瞬間よろよろと一歩後ろへ下がってしまった。
「ちょ、ちょっとこれ、軽自動車が買える値段じゃない! 重ね着すると二倍の値段ってこと……? 和服に憧れはあったけど、私には到底無理な世界だったわ……」
落胆したヴィオラの様子に、近くに居た店員さんが声をかける。
「ふふ、びっくりしてしまいますよね……。ですがそちらは今回の展示の目玉なのでご安心ください。奥にはもっと手頃の価格のものがございます。見て行かれませんか?」
「いえ、いくら手頃でも私にとっては大金だと思うので……。頑張れば買えるでしょうけど、汚すのが怖くて外食も出来そうにありませんから」
「でしたらポリエステル素材で作られた、洗える着物はいかがでしょうか? ご自宅の洗濯機で洗えますし、数千円から始められます」
「洗える……着物?」
「はい。こちらの商品がそうなんですが……、ふふ、こう言ってはなんですが、見た感じそんなに違わないと思いませんか? 気軽に着物を始めたい方にはぴったりだと思います」
「へえ、これなら……。あ、でも着物だけじゃ済まないんですよね? 帯とか足袋とか、草履……でしたっけ? 全部そろえたらそれなりの額になりますよね。そうなるといくら洗えても、結局食事のときに気を遣うと思うので……」
「しつこかったら申し訳ありません。ですがお食事が気がかりでしたら丁度良いアクセサリーもございますよ」
そう言って店員が奥から持ち出したのは、両端にクリップがついた紐だった。ナプキンクリップと言って、紐を首からかけ、先端のクリップに手ぬぐいやハンカチを挟んで簡易エプロンのように使用するのだと説明してくれる。
「色や装飾違い、チェーンと色石で作られたものなど種類がございますし、挟むハンカチによってもまた雰囲気が変わるので色々楽しめるかと。カバンにも楽々入るサイズですし」
「確かに、これなら着物でも安心して食事ができるかも」
目を輝かせるヴィオラの横で、僕も店員さんに断りを入れてナプキンクリップを手に取ってみた。長いこと自宅で食事をする毎日で、着物の上に割烹着を着っぱなしだった僕はこんな道具があることを全然知らなかったのだ。
「……残念、女性向けのデザインばかりか。もっとシンプルなデザインがあったら買いたかったんだけど」
「そうですね……、どうしても着物人口の比率的に、女性向けが多くなってしまうようで」
そんな店員さんと僕とのやりとりを聞いているのかいないのか。ヴィオラはすっかり洗える着物に夢中で、単衣着物も含めて二枚、襦袢や小物と合わせて選んでいた。僕はそれをヴィオラの着物デビュー祝いと称し、自分用の反物数反と共に購入。反物は着物と羽織としてそれぞれ仕立ての依頼を出して店をあとにした。
その間洋士は相当暇だったようで時々話しかける僕やヴィオラに対しても心ここにあらずといった様子だった。既に日は暮れていたし、長いこと連れ回してしまって申し訳ないと思いつつも、僕自身は充実した一日を過ごしたのだった。
妙に改まった様子の洋士が僕に化粧箱を渡してきたのは、数日後のことだった。
「……これは?」
「まあ、その、父さんに……、とにかく開けてみてくれ」
洋士に頷き箱を開ければ、中にはナプキンクリップが数本収められていた。大きく違うところと言えば、紐が明らかに伝統工芸品の紐で作られており、色も黒や紺、灰色など落ち着いた色合いになっていることと、装飾がちょっとした刺繍だけに留められていることだろうか。
「ど、どうしたのこれ……」
「知り合いに作ってもらったんだ。あの店にあったものは装飾が華やかで、父さんには似合わなかったからな」
「凄く嬉しいけど、僕の為にわざわざ知り合いに頼んでくれたの? なんだか申し訳ない……」
「い、いや……、店で見たときにあれは売れると思ったんだ。イニシャル刻印や、装飾と紐の色を自由に選べるセミオーダー式の展開を考えている。サンプルとして対仕様のものを全面に押し出せばパートナーとお揃いにしたい層にも刺さるだろうしな。……あれはなにも、着物のときだけ使うものじゃない。洋服でも需用はあるはずだ。それに男性だって昼食中に服を汚すことはあるだろう。午後一で商談が控えていたら、替えのシャツを買いに行く時間もないだろうしな」
その後も、まさに立て板に水といった様子で「初デート中に服を汚して大失敗した男性が、このアイテムと出会って以降服を汚さずスマートに食事が出来るようになりモテ始める」という若干喜劇混じりのCMシナリオを説明する洋士。話をまとめるとつまり、僕に渡したものは試供品で、テスターとして協力してほしい、と言いたかったようだ。
「わ、分かったよ……暫く使ってみて、使い心地とかを報告すればいいんだね?」
まったく、そんなに僕への贈り物だと言うのが恥ずかしいんだろうか。十分も熱弁したところで、耳の赤さで全部バレバレなのに。
そんなことがあった数日後の夕食時。「今日は帰らない」と洋士が言った日を見計らって、僕は手作りの包装紙をヴィオラへと手渡した。
「良かったら受け取ってくれる?」
「え、どうしたの急に? 本当に私に? ……開けるわよ?」
「勿論」
不思議そうな顔でヴィオラが包装紙から取り出したのは、淡い染めの上に刺繍が入ったハンカチ。実は、用意したきっかけは洋士からのプレゼントだった。人からなにかを貰うのは、やっぱり自分で買うより何倍も嬉しいものだと再認識した結果「ハンカチなら汚れたら捨てれば良いし、ずっと残るものよりも気を遣わせずに済むか」と考えて作ったのだ。あの日ヴィオラがナプキンクリップを購入したのも、ハンカチを選んだ理由の一つだったりする。
「……これ、もしかして手作り……?」
「うん。汚れる前提だし、何枚あっても困らないかなって。……あの、ね。そんなつもりはなかったのかもしれないけど、ヴィオラが着物に興味を持ってくれて、僕は凄く嬉しかったんだ。だから感謝の印。日本ではハンカチを贈ることについて悪い意味もあるけれど、全然そういうつもりで渡したわけじゃないから誤解しないで」
「そんなの、当たり前じゃない。でも、こんなに綺麗なハンカチを汚す前提で使うのは悪いわ……」
ヴィオラがためらうように言うので、僕は思わず笑ってしまった。
「汚れたらまた作るよ。僕の趣味が手芸なのは、ヴィオラも知ってるでしょう?」
その一言に、ふっとヴィオラの表情が緩むのが分かった。
「じゃあ……遠慮なく汚すわね」
少し照れ混じりの声音に安心しながら僕は「いつか、意味を誤解されないくらい洋士との仲が修復出来たら、洋士にもハンカチを渡したいな」と心の中で呟いたのだった。
だいぶ日が開いてしまい、本当に!すみません!
6月1日の技術書典に向けて技術同人誌の執筆&諸事情で引っ越し準備に追われておりました(こちらはまだまだかかる予定)。
さてさて、間があいておきながら宣伝も申し訳ないのですが、6月1日、池袋サンシャインシティにて開催の技術書典18に、暁月紅蓮、サークル参加いたします!
ブースは、「す08:ソロギルド紅蓮地獄」です。入場券は必要ですが、購入は無料です。
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興味のある方は是非遊びに来てください。





