幕間 女婿と上級女伯 ①
上半身は肌を晒し、重い訓練用の鉄塊を振るう北部上級女伯家が配。 滴り飛び散る汗が、周囲の地面すら濡らしていた。
たとえ、打突の型でさえ、空気を切り裂く音は実戦さながらにして、容赦のない斬撃と化し周囲に闘気を伝播している。 全身から揺らぐが如き鬼気を纏う上級女伯女婿に、上級女伯家が家人達は誰も何も言わない。 いや、言えない。 当主である上級女伯は未だ王都から帰還せず、王太子妃の側に善き相談役として留め置かれている現在、彼の行動を掣肘する者は、家内には居ない。
大いなる歓びとして、王太子殿下冊立と、御婚姻の晴れやかな儀式が挙行された。
それは、王国の国民、藩屏たる貴種貴顕の者達からすると慶び事に他ならなかった。 また、王太子妃となられた、大公家御令嬢が御自身の妹と認める上級女伯が、ブライドメイドとして王城に召し出されたのも、納得のいく話でも有る。御自身の配として、軍務卿家に養子として入られた女婿と、その生家の父母を伴い王都に向かわれたのも、高位貴族である上級女伯の感情の在処としては、間違いは無い。
歓びの儀式が終った後、女婿が生家たる北部辺境筆頭騎士爵家の面々と共に、女婿が領地に戻ってから、事態は急速に進んだ。
様々な思惑が絡み合い、商家を営む北部辺境筆頭騎士爵家だからこその判断が、そこに有ったのか…… 王都の貴種貴顕の思惑が引き起こした、『何か』が、激烈な貴族社会の反応を呼び寄せ…… それは、劇薬が齎す劇症を示すかの様な状況に至る。 北部辺境域、北端部の騎士爵家、男爵家、子爵家が度肝を抜かれる、事態が勃発した。
――― 女婿たる彼の実家が…… 潰えてしまった。
――― 北部辺境筆頭騎士爵家が継嗣が、北部辺境伯の寄り子として直参の騎士爵として叙爵された。
――― 今後、騎士爵の叙爵も又、国王陛下が専権事項と国法が変更された。
貴種貴顕。 それも、北部辺境域にその領地や支配地域を持つ者達にとって、青天の霹靂とも云える事態が、雪崩を打って発生したことに他ならない。 北部の政治的色合いが、この事柄により大きく変貌した。 先ず、北部辺境伯が、北部『魔の森』浅層域を領地として、封じられた事。 王国の爵位から鑑みると、上級女伯家がこの地に転封される前に、この地の盟主であった国務卿であった『侯爵閣下』よりも高位である為、新任の太夫である『辺境伯』が、この北部領域の盟主となる事を王家は意図していると見て間違いは無い。
その意図が透けて見えるのは、王国に新たに建軍された北方国軍の存在に有る。
『魔の森』浅層域を領地とする、辺境伯家。 その、存在を担保する為に、国王陛下が新たな軍を建軍された事。 北部辺境の果ての果てを衛戍地(国軍駐屯地)と定めた事。 旧北部辺境筆頭騎士爵家が統括していた北部辺境に在する騎士爵家群の保有していた戦力を糾合し、北方国軍の主たる戦力と成した事。 それらの事が、誰の目にも王国中枢が、北部の盟主を上級女伯家から北部辺境伯家に移管した事と考えるに至った。
北部の盟主たる地位から、北部の一家となってしまった上級女伯家。
その原因たるは…… やはり、女婿であった彼の生家が絡んでいる事は明白だと、北部辺境域の弱小貴族達は思いを深くする。 そして、彼の生家であった北部筆頭辺境騎士爵家は、王国貴族の名鑑からその名跡を消し去る事態となった。 さらに上級女伯家の当主は、王都から帰還せず当主の意向を持った使者が領地に頻繁に訪れていると、実しやかに『噂』が流れても居た。
つまり、上級女伯家の女婿たる者から、後ろ盾と云うモノが消失した云う事に他ならないと、そううわさが広がっている。 誰が見ても明らかな「事実」として、風評の流布は収まる事が無い。
彼が北部辺境筆頭騎士爵家から随身して来た者達を全て故郷に還してしまったのも、その時だった。全ての沙汰を待ち受けるが如く、上級女伯家に逼塞し、差し迫った決裁のみを執行する事の他は、蟄居したと言わざるを得ない状況が続いていた。
上級女伯家の家宰は、深い憂慮を心に秘めたまま、自身の職務を遂行していた。 女婿様が自身の進退伺を提出した後、個人訓練に明け暮れた事は、家宰としては忸怩たる思いを抱いている。 女婿様の生家が北部上級女伯家に対し、爵位を返却するに至った経緯を、彼は知っていた。
家宰は思う、良く上級女伯爵家に仕えてきた上級女伯の女婿として、北部辺境筆頭騎士爵家の次男の立場でモノ申しても、何らおかしいことではなかった。 がしかし、彼は進退伺を提出した後、粛々と蟄居するがごとく振舞う。
家宰を含む上級女伯爵家の領地の執政を司る者達、軍務卿家の一翼を担う上級女伯爵家の領軍指揮官達も、今後の事の推移に関し不安すら覚えている。
――― 当然の話ではある。
女婿の出自である元北部辺境筆頭騎士爵家は、北辺騎士爵家の傭兵軍の纏め役でもある。 生家の行う商売は北部辺境域に根を張り枝を伸ばし、王国北方に無くては成らない、経済の大動脈とも言えた。 そのあまりにも倖薄き土地という環境から、他に商いを継続的に、北方領域に寄添った形で行う商家は、王国中央にも他の辺境域にも存在しなかったからだ。
日々の日用品から始まり、「魔の森」産の魔物由来の素材、希少な薬草迄を一手に引き受け、運輸系の商いを行う各豪商や弱小の騎士爵家とも連携を取りつつ、比較的安価な運送費用を勝ち取り、倖薄き地に商品流通を計画し、実行していた事も厳然とした事実なのだ。
多くの北方弱小貴族家や、各地の都市に店を開く商家は、北方辺境筆頭騎士爵家の爵位返上と云う話を聴き付け、恐慌に至る事は必至。 しかし、そのうわさが広がる前に、北部辺境伯家が彼の家の継嗣を騎士爵に取り立てた事を大々的に広めた事により、大きな混乱の広がりは見られなかった。
安堵したのは、上級女伯家の家人達。 旧北部辺境筆頭騎士爵家の経済力は、北方辺境域に於いて一頭地を抜くものであった。隠然とした影響力は、それを誇示しなくても、知る者は知る。 それが故に、様々な思惑や、疑義の視線を向けた上級女伯家の家臣団は多い。 だが……
旧北部辺境筆頭騎士爵家の歴代当主達は、盟主の座に座ることもなく、その視線はずっと彼らの故郷の安寧だけに注がれ続けていた。 そのような北部辺境筆頭騎士爵家の在り方とは、一握りの貴族ではなく、広く北部騎士爵家群の各家々の当主、連枝、一門の者達だけではなく、市井の民草にまで知れ渡っていたからだ。北部辺境域に住まう者達の、精神的な背骨とも云える立場の騎士爵家だった事を、家臣団が認識できたのは最近の事だった。
――― しかし、その精神的な主柱は、潰えてしまった。
更なる衝撃が走った。 新たに王領となった北部「魔の森」を基盤とする『北部辺境伯』により、彼の家は、再興されてしまった。 当然のことながら…… そんな事態となれば、北部上級女伯爵家と、女婿の生家との間に何かしらの確執が有ったと推測される。いや、そう認識されてしかるべきなのだと、家宰は頭を抱える。
北部辺境筆頭騎士爵家には、大きな恩がある。領地替えの際、この北部辺境に近い領を拝領したことにより、それまで拝領していた南方の地とは全く違う風土や、その領地の執政に困難を感じていた際に手を差し伸べてくれたのが、彼の家だったのだ。 無償奉仕に近い協力。 善き『寄り親』に成って欲しいと、細々とした、様々な合力。 地元の商家と運輸業者達の紹介から始まり、北域の主たる農産物の指導、鞭撻は云うに及ばず、医療従事者の派遣まで行ってくれた。
喰うに困らぬ様に、民が困らぬ様にと、北域における生活の基盤となる事柄を、何一つ隠すことなく開陳してくれたのだ。 そして、あの戦役が勃発する。 それまで、北域の兵や貴族家の者達を侮っていた、上級女伯家の領軍指揮官たちの目から、偏見の視線が失われ信頼と敬愛の視線に取って代わったのだ。
どんなに困難な状況に於いても、北部辺境筆頭騎士爵家の次男が率いる軍勢は、諦める事が無かった。 可能性を追求し、穴を見つけ、押し広げ、そして吶喊する。 まさしく武人の在り方を体現したようなモノだった。 徐々に、彼等に心酔する者達も出始める。 彼の指揮下で働いた男達に顕著であった。 賛辞を軽妙にいなした彼は殊更、平易に言葉を紡ぐ。
“ 民草が困らぬようにしたまでだ ”
と。 優し気な視線を、特筆するような事が一つもない新たな北辺の領地に向けながら…… その地に生きるすべての市井の者たちに、生活の安全と幸福を見出せるようにするのが、この倖薄い王国北辺の貴種の家に生まれた男児の矜持であると、行動で示していたのだ。
彼が最も敬愛するは兄である、元北部辺境筆頭騎士爵家が継嗣。 最もその才を愛しているのは、三男。
彼等の間にある自分は、北方の領域に居る理由として、絶対的な戦力となり、此処に棲む者達に加えられる物理的脅威を排除する為の戦力となる事だと、そう思い決めていたかのように、家宰の目には映っていた。 その彼が、彼に付き従っていた、騎士爵家由来の者達を全て、故郷に還した事は、家宰にとって憂慮せざるを得ない事態でも有った。 離縁の準備に他ならないのだ。
そう、女婿の目から見て、上級女伯領は既に王国北方域に在する、倖薄き領地では無くなったと、そう云われてたのも同然かと思う。 成程、熟達の官吏である、上級女伯家の家臣団達は領地の立て直しを完遂し、上級女伯家の金蔵に、資金の流入は太く確実になさしめた。懸案事項であった、北部筆頭騎士爵家に対する、援助も彼の地が抱える『魔の森』支配地域が全て丸ごと「王領」となった為に、案は案でしか無くなり、実行は停止されるに至った。 これにより、膨大とも云える金穀の流出は消え去り、その分が自領の発展の為に消費される事となる。
つまりは…… もう、北部辺境筆頭騎士爵家の助けを借りずとも、上級女伯家は立ち行くという事に他ならない。 そう、女婿様は決めてしまわれたのだ。 そして、自身が上級女伯領に居る意味すら既に無いのだと、そう思われているのだ。 状況を鑑みれば、しがみ付かれるよりは遥かにマシであると云える。 上級女伯様には新たな女婿を迎えられ、より高みを望まれる事も考えられるのだ。 いや、それが、中央に在した高位の貴種貴顕の在り方としては、正解でも有るのだ。
しかし……
ここで、女婿殿を切れば、北域における上級女伯家の評判は地に落ちる。 落ち切ってしまう。 此れからは、もう、女婿が生家からの、有形無形の援助は期待できない。北部筆頭騎士爵家は既に亡失してしまっていたのだから。 亡失した騎士爵家に心酔する者達は数多い。 北部辺境域の中で、有力と思われる貴種に特に多い。女婿殿を切れば、彼等からの合力、協力が必然的に消失する事は、火を見るよりも明らか。 そうとなれば、王国北部辺境域に領地を持つ上級女伯家の限界は、すぐそこに有るのだ。
王国北部、山脈から北の版図の中で、最大の力を持つに至った上級女伯家は、今まさに、孤立無援の状態に落ち込んでいるとも云えるのだ。
家宰の憂慮は深く……
脱出する道は、未だ……
……見えてこない。




