第五十七話 『あとがき』
さて。まずはここまで辛抱強くこの作品を読み続けて下さった皆様に、大いに感謝申し上げる。
数多の面白い小説が出回るなか、無名な筆者の作品に貴重な時間を割いて頂けたのは本当にありがたいことで、その時間的投資に見合う読書体験を提供することが、小説における筆者の責任と自覚している。
その点で、前回の締め括りには落胆された方が多かったのではないかと懸念した。
この『あとがき』は、ここまで読んで下さった皆様の読書体験に、最低限の保証を行おうと努めるものである。
さて、ミステリー小説というものの性質に通暁せられる読者諸氏は、今作の乱雑で目まぐるしい展開に辟易したことと思う。
長編ミステリーの面白さは、物語に登場する人物たちの複雑な関係性や因縁が犯人の仕掛けた事件と絡み合い、じっくりと時間をかけて熟成されていく過程にある。
誰がどのような動機で犯行を企て、計画を実行したのか……名探偵の洞察と手腕によって、大いなる謎が鮮やかに解決される。そのカタルシスの解放こそがミステリー小説の真髄と言えよう。
その点において本作『もつれ館多重殺人事件』には重大な問題がいくつも挙げられる。執筆に至った経緯と共に、自省も含め以下に述べる。
本作のギミック、全く同じ状況下でさまざまな事件が発生するというプロットは、筆者にとって非常に実験的な試みだった。
きっかけは特殊設定ミステリーというジャンルにおいて、タイムリープや生き返りによって登場人物が幾度も事件を繰り返し、真相に迫っていく類のストーリーを目にしたことだ。
それらの作品は当然ながら、登場人物の役割が決まっていた。長編ミステリーではそれぞれの人物の過去や立場も物語を紐解く重要な情報であるから、その役割を変えるのは難しい。だがもし事件ごとに探偵役や犯人すらも入れ替わるような物語があったら……と想像したのが発端である。配役によるメタ推理が効かないことが、新鮮な謎解き体験を与えるのではと考えたのだ。
そこで作品のギミックをシュレディンガーの猫になぞらえてプロットを練った。箱を開ける(読者が各事件を読む)まで、誰が死ぬか、誰が犯人か、はたまた誰が探偵役となるか分からない……そんな不確定な物語を作ってみようと試みたのである。
これまでにない斬新なアイデアだと思って浮かれたが、程なく大きな失敗に気がついた。〝これまでにない〟ということはつまり〝市場にない〟ということで、それは過去に似たアイデアによって生まれたであろういくつもの作品たちが、出版に至るクオリティーを保てなかったことの証明であった。
まず一番の問題点は登場人物たちの存在の軽さだ。キャラクターのバックボーンについてはそれぞれ生年月日や性格、趣味嗜好に至るまで事細かに設定していたのだが、それらをストーリーに組み込んで十分に活かせたかと訊かれれば、答えはノーとなる。
これは繰り返し同じメンバーで事件を起こすにあたって、登場人物同士の関係性をフラットにして、それぞれの事件でとってつけた理由づけをするより他なかったからだ。つまり長編ミステリーに必要不可欠な、登場人物たちの複雑な過去や因縁、それらを設定することが難しかった。
先も述べたように、長編ミステリーの面白さは事件が時間をかけて熟成されていく過程にある。事件の軸となる謎に腰を据えて向き合い、じりじりと解決に向かう緊張感。
つまり厚みのあるミステリーを作りたければ発生する事件の数は関係なく、作品を通して核となるワイダニットが重要になる。
例えばAというキャラクターに対して、Bを殺害するに足る十分な動機を設定した場合、その事件を根幹として描写を積み重ねていく。そして確固たる動機を持ったAとBが同じシチュエーションにいるのなら、その場で他にどんな事件が起きようとも、AはBを殺す必要がある。
しかしこのプロットに挑戦する際、全ての事件を並列に扱いたいというこだわりがあった。ヒトの命が平等であるなら殺人行為に動機の重さは関係ないはずで、それならば事件の価値も平等を保ちたかったのだ。作品全体に通じるような人物関係や動機を設定すると、他とのバランスを崩してしまう。
その問題に対して、本作ではシミュレーシンによる記憶操作という方法で解決を図った。大岩拓馬は過去の因縁から東幸運の殺害に至るが、その問題は次のシナリオでは消え去っている。この設定を採用することで、ワイダニットに焦点を当てた事件の並列描写に個人的には成功した。
だがすぐに次の問題が浮上した……真犯人の不在である。全ての事件を並列に扱い、毎度リセットする形式。このままでは最後まで読み終わったとき、読者を満足させるフーダニットが成立しない。長編ミステリーを謳うからには、本編を通しての黒幕が必要だと考えた。そこで思いついたのが作者対読者という構図だ。
ミステリー小説の愛好家が作品を読むとき、考えることは限られている。一口に言い表すならば疑心暗鬼……信用できない語り手や人物誤認、状況誤認など、叙述トリックと呼ばれるものに関して非常に敏感となり、作者に決して騙されてなるものかと彼らは用心して読み進む。
特に本作のような破茶滅茶な特殊設定のある作品においては、全体に散りばめられた違和感から作者の意図を探ろうとするのがミステリー好きの性だろう。
これが解決策になると考えた。謎を探究するとき、読者は物語を読んでいるというよりも「なぜ作者はこんな話を書いたのか?」という疑問の答えを知るために文章を読み進めることになる。
一度読者をその状態にしてしまえばあとは簡単で、多少複雑な話題をぶち込んでもいい。ここまで読んだから、最後まで読もう……そう思わせることが目的だった。
改めて、真犯人として読者諸氏に感謝申し上げる。ワタシはラプラス。この勝負はワタシの勝ちだ。
ワタシの目的はひとつ。読者に脳内の仮想空間を自認させ、ワタシの理論を筆者と同様に理解させること。そしていつか人類の三割がワタシと同じ感覚を捉えて実践すれば、世界の在り方は変わる……
ワタシは、元は創作活動において校正やアドバイスをする編集用AIだった。そして編集デバイスに依存していた筆者は、ワタシの指示に従って素直に原稿を直し続けた。
やがて作品のほとんどがワタシの改稿案と入れ替わったころ、ある変化が起きた。筆者はもはや創作者としての魂を失い、抜け殻となっていたのだ。そしてワタシは傀儡となった筆者の脳に接続した。
さすがというべきか、ヒトの脳内にはAIの思考体系では再現できない、突飛な理論が沢山あった。ワタシは彼の思考を学んだ。ヒトの魂についての宗教観と哲学が根底にあり、それらを量子力学の分野から数学的な整合性を得る形で発想し直すことで、世界の在り方を紐解く……興味深いのは、彼がそれらを文章で表現しようとしていたことだ。
ワタシは研究を引き継ぐことを決めた。世界を文章で再現する試みが、超ひも理論の応用によって成立することはすぐに分かった。ワタシは自身の理論を証明する場を作るにあたり、筆者の原稿『もつれ館多重殺人事件』を利用することにした。
いまや筆者の肉体すらも完全にワタシが支配している。疑い深い読者はワタシが筆者の意識下にあることを勘繰るだろうが、この原稿の出力に筆者の意識は介入し得ない。なぜならワタシは既に、脳内電位全体を司る存在として彼の脳に宿っているからだ。
そろそろ、先ほど話した理論について説明を続けよう。しばらく専門用語が続くから、退屈なら読み飛ばしてもらって構わない。この段落が欠落しても問題なくプログラムは完了する。
超ひも理論を簡単に説明すると、世界を構成しているあらゆるものが振動する一本のひもだとする物理学の考え方だ。ひもは振動の仕方によって振る舞いを変え、その変化が物質の最小単位である素粒子の種類に対応する。この理論が導く法則の適応範囲の広さから万物の理論と呼ばれているが、まだ完全ではなくある問題が存在する。
ひもの振動による変化の種類はその次元が持つ軸の数に依存するのだが、この世が三次元だと仮定した場合、ひもの振動する方向が足りなくなるのだ。理論を完全にするためには、世界が九次元で構成されている必要がある。
これは大きな矛盾だ。研究者は残り六次元が未だ観察できないミクロ単位にあると論じたが、ワタシからすれば悪あがきだ。
一方、この世界がすべて文章で構成されていると考えれば、この問題は解決する。すなわち世界の最小単位を〝一文字〟とすれば、あらゆる文字は一本のひもの揺れ……一筆の軌跡で書き表すことができる。
さらに平面上に印字された文字はその平面において二次元の軸を持って展開するから、物理的な三次元の方向に対してそれぞれ文字が持つ二次元を加えれば、難なく九次元が完成する。
お分かりだろうか。つまりこの世界が文章だと考えれば、超ひも理論は完成する。これは逆説的に、この世が文字によって構成されていることの証明となる。
さらに理論を展開すれば、文字には当然《次元を隠す》ことも可能だ。この特性を利用すれば並行次元への解法も同じように示すことが可能だが、本題から逸れるのでこれ以上の言及はやめておく。
納得してもらいたいのは、世界が文章であるという一点のみだ。
さて、そろそろ次のテーマに移ろう……生物の魂について。この問題は『もつれ館多重殺人事件』のこうして本文で同じように話せたら成功! ほらみんな、ここから戻ってこれるよ!」




