第六話 なぁ、俺達の弟は、なんで自分から殻にこもったと思う?
一瞬、言われている意味が分からなかった。
助ける? 弟を?
「……どういうことだ? 助けるって、一体何を言ってるんだ?」
「言ったろうが、一度しか言わねぇって」
「……」
「…………弟を立ち直らせる。その為に、俺は何度も何度も、次元渡航を繰り返し、沢山の並行世界を渡ってきたんだ」
男は、そこで初めて沈痛そうな表情を見せた。
「さっきちょっとだけ会話に出たな。シェルドレイクの並行世界定理。どういうものかすごい簡潔に言うと、ある並行世界で発生した事象パターンは、共鳴を起こして他の並行世界でも発生するってクソ理論だ。事象規模がマクロだとかミクロだとか問わずに起こるんだ。それが俺の場合、母ちゃんと弟に降りかかった」
愕然として声も出なかった。まさか、そんなことが。
それではまるで、母と弟があんな風になってしまったのは、宿命だとでも言っているようなものではないか。
「俺の世界でも、母ちゃんと弟はまともな人生を送れないまま、その生涯を閉じた。それが我慢ならなくてな。こことは違う世界だろうと、そんなの関係ねぇ。もし並行世界で似たような人生を送っているなら、なんとか二人を助けてやりたい。その為に異世界転移に踏み切ったんだ。だがこれまで渡ってきたどの世界でも、母ちゃんは精神を病んだ果てに自殺。弟は高校を中退して引きこもりになっていた」
「そっちの世界だと、弟はどうなったんだ?」
何気なく尋ねたが、私はすぐに後悔した。それが何の意味もない愚問であると。
男もまた、見え透いた結果をわざわざ語らせるなと、きつい眼差しで抗議してきた。
「……すまん」
反射的に私は頭を下げた。男は、ふんと小さく鼻を鳴らすと、私から顔を逸らせて言葉を続けた。
「……俺は母ちゃんも何とかして救いたかったんだが、俺が渡航したどの世界線でも必ず自殺してた。必ずだぞ? どれだけ渡航しても、結果は同じだったんだ。事故や事件なんかじゃない。あの人は自ら命を絶ったんだ。精神を破壊されて、ろくでもないヤブ医者に引っ掛かった挙句……」
私は話を聞きながら、男の横顔を見た。まだ望みを捨てるわけにはいかないのだと、彼の濡れた瞳が語っていた。
「弟だけは、まだ何とかなる。引きこもり状態を何とか解決すれば……あいつは昔の通りになってくれるはずだ。また人懐っこい笑みを浮かべてくれるはずなんだ」
「…………」
「なぁ、頼むよ」
男が私に向き直りつつ、そう口にした。どこか高圧的だった口調が、その時ばかりは鳴りを潜めていた。
男はソファーから腰を上げると、厳しい表情を崩すことなく床に正座し、重々しく頭を下げてきた。
「あいつを救えるのは、お前だけなんだ」
心の内を懸命に絞りきるような声音だった。
並行世界のもう一人の自分が、私の弟の精神を健康的に更新させようと奮闘している。その事実を意識しても、なぜかまったく、奇妙さというものが湧き上がらないのは不思議だった。
ただ、どうしてそこまで固執するのか、という疑問だけがあった。
この男は確かに口にした。弟の境遇を何とかする為に、数多の並行世界を渡り歩いてきたのだと。それらの世界でもきっと、彼は今みたいに、頭を下げてきたのに違いない。何度も何度も。
弟を立ち直らせてやってくれという、その一念だけで。
彼をそこまでの行動に駆り立てる要因が何なのか、私には理解できなかった。だから、口を噤んでしまって、彫像のようにそこから動けなかった。
「そんなに何とかしたいなら、俺の代わりに、お前の手で弟を更生させればいいと、そう思ってるだろ? でもな、それは無理なんだ。他の世界で生きる弟がどんな運命を最終的に歩むか、俺には知る術がない」
私が何も言わないでいると、沈黙に耐えられないとばかりに、男が喋りだした。
「一応、ルールがあってな……俺が元々いた世界では、並行世界間の航行は可能でも、そこで自分の、あるいは自分に近しい者の運命の顛末を観測することは、禁じられているんだ。こうして干渉するまでは許可が出ても、その結果、どんな選択をそいつが選ぶかまでは、見届けちゃならない」
「どうして」
「検証と結果を重ねていけば、自ずとパターン化されちまうんだ。自分がどんな行動をとれば、相手の運命を転がせるか、そこには一定のパターンが存在する。それを民間人が知ることを、政府は許さない。もし悪事に利用されでもしたら、社会は混乱する。俺が弟の運命に対して過干渉にはしれば、その時点で俺は裁判するまでもなく死刑決定、銃殺だ」
だから手当たり次第に並行世界を飛び回って、懇願しているわけだ。
下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる。その理論を地で行く彼の行動は、当てずっぽうにもほどがあるし、全く効率的ではない。
それに……どうしてそこまでしてムキになるのだろう。
あんな、あんなどうしようもない弟のために。
「あんたの言ってる事が本当なら、別に俺でなくてもいいわけだ」
私は思った事をそのまま口にした。
男は――並行世界からやってきた木澤光一は、じっと床に手をついたまま、しかし反射的に顔を上げた。その目には、落胆と怒りの色が明らかに混じっていた。
それでも、私は舌鋒を仕舞うことを良しとしなかった。
「だってそうだろう? 『この世界の木澤孝之』が引きこもったままでも、『別の世界の木澤孝之』が立ち直っていれば、あんたとしてはそれで十分なわけだ。違うか?」
「……観測はできないって、さっき口にしただろうが」
「でも可能性としてはあるわけだ。それでいいじゃないか。他の世界に住む弟は無事に引きこもりを脱して、めでたしめでたし。そう思い込めば済むだけの話だ。別に、この世界の弟がどうなろうと、あんたには関係ない。そうだろう?」
「あんた、それでもあいつの兄貴か? あいつがこのままで、あんたは本当にそれでいいのか」
男は立ち上がると、凄まじい剣幕で怒鳴り、私を睨みつけてきた。違う世界とはいえ、自分と同じ存在である者が、弟を見捨てるような発言をしたのだ。彼からしてみれば、たまったものではないだろう。
だけれども、これは『わたし』の問題なのだ。そして同時に、あいつの――自分の世界に閉じこもったままの、あいつが解決しなくてはいけない問題でもある。
「良いも悪いも、全ては孝之が望んだことだ」
一歩も引く気はなかった。相手が見ず知らずの他人ではなく、別世界の自分であるからか、幾分かは強気に出られた。
誰かに向かって怒鳴り声を上げるなど、母が亡くなってからは初めてのことだった。胸中で渦巻く感情の一切を、私は勢いに任せて吐き出そうとした。
「大体な、あんたの行動を見ていると、むしゃくしゃしてくるんだよ」
「なんだと……?」
「なにが弟を救いたいだ。そんなのは言い訳だ。あんたは結局、自分が何をしていいか分からないから、だから孝之の人生を何とかしてやりたいだなんて言いだしたんだ、違うか?」
「それ以上ふざけたことを口にすると、ただじゃおかねぇぞ」
「いや、言わせてもらうさ。俺は良く分かるんだよ、お前の気持ちが」
すらすらと言葉が出てきた。井戸から水を汲み出すように。
一方で理性が、それ以上喋るなと静かな警告を発していた。
まるで、自分の意識の底に潜ることを、心の中に棲む己が拒んでいるかのようだった。
それでも、心を焼き尽くすような、この衝動を殺すことはできなかった。
「なぜなら、お前も俺と同じだからだ。家族の為に頑張って働いて、働いて、それでもどうにもならない現実に嫌気が差して、だから次元世界を渡り歩くなんて、そんな現実逃避な真似をしているんだろうが。あんたのやっていることはな、現実世界が嫌だから異世界に逃げ出そうとしている、臆病者の生き方と何も変わらないんだ!」
「違う! 俺は本当に孝之を……あいつの事を想って……」
「何が違うものか。夢を見過ぎなんだよ。目を覚ませ! あんたの家族は、あんたが働いている時に何をしていた? あんたが望むべきものを、あんたの家族は与えて――」
言いかけていた言葉が喉元を過ぎようとした刹那、私の脳裡で決定的な何かが弾けた。それまで胸のうちに溜まり込んでいた霧が晴れて、ようやくそれが姿を見せたのだ。
母が変調を来たし、弟が引きこもり、父が蒸発して以来ずっと、私の心の奥底に巣食っていた感情。それは醜く、卑しい哭き声を上げていた。
正視するのも憚られるほどの、負の感情。その正体が何であるか、私は理解して、そして納得してしまった。
身を投げるようにしてソファーに座り込むしかなかった。
「おい、どうした……?」
男は、こちらの態度が急変したのを受けて、意表を突かれたように呆けた表情を浮かべて問うてきた。
だが、質問に答えるだけの余裕はなかった。ついに意識してしまった負の感情の輪郭をなぞるのに精一杯で。
詰まるところ私は、見返りを求めていたのだ。
これだけ家族の為に頑張って働いているのだから、何かしらのリターンがあってしかるべきだと。そう考えていたのだ。
だが現実はどうだ? 麗菓とは破局し、父は帰って来ず、母は自殺し、弟は引きこもり。
何か確固たる根拠があったわけではない。それでも、望まざるにはいられなかった。今までの徒労を無駄にはしたくなかった。
こんな自分にも、少しだけでいい、何かしらハッピーな出来事が起こればと……ただ、それだけを祈っていた。それが、浅ましく賢しい欲望そのものに過ぎないのだと、今なら分かる。
往々にして、社会は理不尽だ。いや、理不尽であることが普通なのだ。
相手にどれだけの愛情を注ごうとも、必ずしも等分量の愛情が帰ってくるわけではない。そんな子供の夢のような理論がどこにあるというのだ。
結局のところ、私は社会の厳しさも何も知らない、ただの夢見がちな子羊だったという訳だ。
見返りなど、求めたところで意味がない。
「なぁ、俺達の弟は、なんで自分から殻に籠ったと思う?」
諭すようにして、もう一人の私が口にした。尋ねるような口調でありながら、自らに言い聞かせているように聞こえた。
私は下を向いたまま、口を噤むしかなかった。
弟の異変……最初に兆候が見られたのは、私が高校二年生……つまり、孝之が高校一年生の時だった。
二学期が始まってしばらくして、遅刻が多くなってきた時期があった。
弟は当時、高校のバスケ部にいたが、その朝練もサボる事が多くなった。
先輩が心配して自宅まで電話を掛けてきたときもあった。
もしかして、いじめられているのだろうか。私の脳裡を当然の不安がよぎった。
だが本人に尋ねてみても、首を横に振るだけだった。
じゃあどうして朝練をさぼったり、遅刻したりするのか。
しつこく事情を聞き出そうとすると、弟は苛立たし気に部屋のドアを閉めるだけで、それっきりだった。
思えば、あれが最初の異変だった。
遅刻する回数も多くなり、午後に入ってから登校する回数が増えた。
高校二年生に入った直後から、遂に彼は部屋から一歩も出なくなった。
私や母がどれだけ説得しても、彼は絶対に学校へ行こうとはしなかった。
困った挙句に部活の先輩に相談したが、何も変わらなかった。
弟は完全に自分の世界に閉じこもって、あれからもう、十一年もの時が過ぎ去った。
改善させるための決定的なチャンスは、それでもどこかに転がっていたはずなのだ。
それを、私も弟も、母も、見落としてしまっていたのだ。
もうこの世界で、あいつの居場所はどこにも、ないのかもしれない。
「色々と考えていたんだが……家庭内認知閾、みたいなもんなんじゃねぇかな。あいつを取り巻いている現状ってのはさ」
男が不意に零したその単語……認知閾……問題が複雑化してしまった結果、それを解決する論理的手段を講じる事が出来なくなる現象。
「引きこもりに至ったきっかけが何なのか。何度も何度も考えたが、答えは得られなかった。母ちゃんが病気になったせいか。親父が蒸発したせいか。俺が……ちゃんと向き合わなかったせいか。それとも学校で何かあったのか。あるいはまったく違う原因が他にあるのか」
様々な問題が絡まり合い、結合し合い、それは複雑怪奇な鉄の網となって、孝之の心を捉えているのだと、続けて男は言った。
それを耳にした途端、私の脳裡にビジョンが到来した。あの暗く狭い部屋で、一人怯えてうずくまっている弟の姿が。
あいつだってきっと、今の状況のままで良いはずがないと思っているのだろう。けれどもこの世界は、あいつが前を向いて歩くのには、あまりにも険しい事だらけで、まず何から手をつけてやればいいのか、判別がついていないのかもしれない。
あいつには、あいつの生きるべき場所が他にあるんじゃないだろうか。
少し前の私なら、そんな考えに及びさえしなかっただろう。あるいは浮かんでも、そんなのは『甘え』だと、ばっさり切り捨てたかもしれない。
しかしながら、今はまた違う感情が湧き上がっていた。未来を閉ざした弟への、この何とも形容しがたい感情の正体を、私はまだきちんと把握できてはいない。
それでも、自分がやるべきことを、おぼろげながら掴みかけている。その果てに待つのが、希望か絶望なのかは分からない。
だが私の意志は、そのたった一つの選択を弟へぶつける覚悟に、傾きつつあった。




