91 マチルダ・キンバリーとノンナ
「マチルダ、大変なことになった」
「顔色が悪いわ、サイラス。侯爵様はあなたになんのご用事だったの?」
「傭兵の件で実家にアシュベリーの伯爵が来たそうだ」
「は?」
帳簿に目を落としていたマチルダは顔を上げ、細い眉をギュッと寄せてサイラスを見た。
「傭兵を雇ったのがあなたの実家だってこと、もうバレたの? あの傭兵たちは仕事をしくじった上に尾行もされたのね? ったく、あいつら、使えないにもほどがあるわ!」
「その伯爵が言うには、君が始末しようとした女性は、その伯爵の弟で軍務副大臣を務めている子爵の妻だそうだ。俺たち、とんでもない相手を殺そうとしたんだ」
マチルダは目を大きく見開き、口も薄く開けた。
「驚いた。ずいぶん上等な服装をしているとは思ったけれど。そう。あの女、そんな大物を捕まえていたの……」
「マチルダ、アシュベリー王国の軍務副大臣の妻がハグルの元工作員なんてこと、ありえないよ」
「私の見間違いだと言うの?」
「い、いや、そうじゃないが、父と兄はあり得ないと言うんだ」
「はあっ?」
サイラスはマチルダの剣幕に圧倒され、そのまま黙り込んだ。
父親に呼び出されて実家に行ってみたら、父と兄が激怒していた。椅子に座ることも許されず、サイラスは父と兄の前に立たされ、最後通牒を突き付けられた。
「お前を陥れ、我が家の歴史に泥を塗ったハグルの工作員だというから傭兵を集めたんだ。なのに、相手はれっきとした貴族の妻だったぞ! しかもその夫は新国王の右腕だ。サイラス、もうここまでだ。我が家は金輪際、お前とは関りを持たない。今後、我が家に接触してきた場合は躊躇なく斬り捨てる」
「父上! そんな! 私は大臣の伯父上に頼まれて仕事をしただけの被害者ではありませんか!」
侯爵は冷たい目で息子を見た。
「傭兵を送り出す前まではな。だがもうお前は気の毒な次男坊ではなく、我がハロウズ家を潰しかねない災いとなった。サイラス、今日で終わりだ。もう二度と私たちに迷惑をかけるな。万が一我が家の名前を利用しようとしたら、命はないと思え。警備隊など頼らず、この手でお前を始末してくれる」
顔を見れば父も兄も本気だ。色濃い嫌悪が目の奥で揺らめいている。
サイラスはマチルダの提案に同意した自分を激しく後悔しながら帰ってきたのだ。
「マチルダ、俺たちここにいたらまずいんじゃないかな。その女が元工作員なら、仕返しに暗殺者を送ってくるかもしれないだろう? しばらくの間、どこか他の国に出たほうが安全じゃないかな」
マチルダは手に持っていたペンを机にバン! と叩きつけた。インクが飛び散ったが彼女は気にせず、目を吊り上げてサイラスを睨む。
「冗談じゃないわ。私がどんな思いをしてここまでのし上がったと思ってるの。勝手なことを言わないで。小遣いを貰って、ただ食べて寝て出すだけのあなたを支えてきたのは私でしょ? 嫌よ。どこにも行かないわ。あの女が来るなら来ればいい。返り討ちにしてやるだけよ」
爆発した怒りを抑えるべく、マチルダは立ち上がって自分の部屋に入って鍵をかけた。感情を落ち着かせようと努力しながらソファーに座る。
ハグルの組織から逃げ出し、生きるためになんでもしてきた。
ランダルの酒場で「俺は元貴族だ」とつまらない自慢をする男がサイラス・ハロウズだと聞いて驚いた。男はクロエが手柄を立てた仕事の対象者だった。
(こいつがクロエに騙されたこと、いつか利用できるかも。それに、貴族として育っているなら何かと便利ね。商売の表の顔として使えばいい)
サイラスと親しい関係を続けながら、酒場と闇賭博場を開いた。そこに到達するまでに、どれだけ努力し苦労したことか。
マチルダはライバルを一人ずつこっそり始末しながら、裏社会の顔としてのし上がった。
『脱走工作員としては最高レベルの成功を手に入れた』と思っていたマチルダだったが、クロエの存在は彼女を妬みの深い穴に叩き落した。
クロエは養成所の同期で一番の出世頭で特務隊のエース。
自分をいつも冷ややかな目で見る嫌な女。
自分とランコムの結婚話のあと、気味が悪いほど痩せた挙句に崖から落ちて死んだはずの女。
なのにクロエは生きていた。しかも幸せそうだった。
「ああっ、忌々しい!」
街の中でクロエを見たとき、息が止まるほど驚いた。
クロエは視線を察知するのが誰よりも得意だったから、マチルダは逆に彼女から距離を取った。いつも持ち歩いているオペラグラスを使って、遠くから観察した。
何度見ても間違いない。女はクロエだった。髪が逆立つほどの腹立たしさを全力で落ち着かせ、マチルダは自分に言い聞かせた。
「やっとサイラスが役に立つわね」
サイラスをたきつけ、父親の名前で傭兵を雇わせた。資金はマチルダが金に糸目をつけずに提供した。
「十人も雇えば十分だろう?」というサイラスには「二十人だって足りないわよ!」としかりつけて五十人を用意させたのに、彼らはクロエを見失った。
マチルダは豪華な自室を見回す。ここはマチルダがコツコツと努力して手に入れた城だ。
「クロエのやつ、ここまで来るかしら」
たとえクロエが仕返しに来るとしても、逃げ出すつもりはない。
この場所を手放すのは、ここまでの苦労をドブに捨てることだ。それにあのクロエももう三十三歳。以前と同じではないだろう。
(でも油断は禁物。護衛を増やそう。暗殺専門の人間も雇ったほうがいいわね)
マチルダ・キンバリーことメアリーは、これから準備すべきことを頭の中で数え上げた。
◇ ◇ ◇
ノンナがビクトリアの置手紙を見て、茫然としたのは数分だけだ。
母と父は自分を置いて敵のところへ向かった、とすぐに理解した。
ノンナは急いでビクトリアの部屋に入ると、母の部屋は完璧に片付けられている。
普段よりも物が少なすぎる母の部屋を眺めて唇を噛む。
「そうだ、あそこは? なにか残っているかも」
タンスを動かして床板を外す。そこに隠し金庫があることをシェン国から帰国した直後の建物探検で発見していた。
金庫は鍵がかかっていたから、当時のノンナは開けようとも思わなかった。
だが、ビクトリアがデルフィーヌの影役を務めているときに、チェスターが開錠の知識と技術をたっぷり教えてくれた。
(今なら開けられる。お母さんもこの金庫を開けられたはず)
チェスターに教わって作っておいた細い金具を使い、あっさりと金庫の鍵を開けた。中には飾り紐で束ねられた何通かの手紙とメモ。ランダル語で書かれている手紙の内容は他愛ない季節の挨拶や、最近読んだ本の感想が書かれている。差出人の名前はなく、小鳥の絵が小さく描いてあるだけ。
メモは暗号を使っていないが、情報が断片過ぎて意味不明だ。
(用心深いお母さんが、なぜこれを残したのだろう)
手紙が残されている理由を考え、胸が痛んだ。
(お母さんには、アシュベリーに来てからの知り合いしかいない。この人はもしかしたら、ハグルにいたころからの知り合いなのかも。組織で育ち、組織で働き、組織から逃げたお母さんは、この小鳥の印の人との縁が大切だったのかもしれない)
そう思えば手紙を残した理由も納得できる。
(自分の正体を話せる人がいないこの国で、さぞかし私は足手まといだったろうし、世話をかけたはず。今回のことだって、私を巻き込みたくないのはわかってる。でもね、お母さん、お母さんの命が危ない時に、黙って家で待っていることはできないよ。私、お母さんを守るために鍛錬し続けてきたんだから。足手まといにならないように、全力で頑張ったんだからね)
母が生きてきた人生の過酷さを思い、それでも赤の他人の自分を守って育ててくれた母の強さと優しさを思う。
手紙を読んでいる途中で、涙がぽたりと手紙に落ちた。
ノンナは慌てて袖口で拭いながら、「袖で拭うんじゃありません」と注意する母の声を思い出した。
次々にこぼれ落ちる涙をワンピースの袖口で拭いながら、手紙を読んだ。重要なことは暗号で手紙に書き込まれていた。
母の机に座り、母に教わった暗号解読の知識を使って、ノンナは手紙を読んだ。読み取った言葉を紙に書き取る。
しばらくして両親の行先を特定した。こんなこともあろうかと、荷づくりはとっくに済ませてある。
出発しようとして少し考え、馬でクラークの家に向かった。クラークは旅支度で馬に乗ってきたノンナを見て、すぐに事情を理解したらしい。
「先生はランダルに出かけたの?」
「うん。お父さんとお母さんは敵のところに行っちゃったの。私も行く。クラーク様、帰ってきたら、また歌劇を観に連れて行ってくれますか?」
「うん。もちろんだよ。ねえノンナ、僕が同行したら足手まといなんだろうか?」
「……はい。ごめんなさい」
申し訳なさそうな顔をするノンナの顔を、クラークはそっと両手で包んだ。
「ノンナ、だったらイルを連れて行ってくれ。彼はきっと君の役に立つ。エドワード伯父様が『イルはシェン武術の達人だ。とことん鍛えられて育ったそうだよ』と言っていたからね」
「私がイルと行って、クラーク様は嫌じゃないの?」
「ノンナが無事に戻るためだ、嫌じゃないさ。それに、十三歳の君が一人で旅をするより、十七歳のイルがいたほうがなにかと都合がいいはずだ。ノンナ、必ず帰ってくると約束してくれる?」
「はい。帰りは一番にクラーク様のところに来ます」
「うん。そうしてほしい。牧場のマイルズさんは連れて行けないかい? うちの護衛たちは?」
ノンナは首を振った。
「大人の男の人は、体重が軽い私より馬の進みが遅くなる。もう時間がないの」
「そうか……」
そう言うとクラークはノンナの額にそっと口づけた。
「君の帰りを待っているよ。行ってらっしゃい」
「はい。行ってきます」
クラークは笑顔で見送ったが、強く握った拳が震えていることにノンナは気づいていた。背中を向けてから、ノンナは前を向いたままクラークに感謝した。
「ごめんね、クラーク様。そして、私を止めないでくれて、ありがとうございます」
ノンナはイルを迎えに家に戻った。そして家の前で今にも出発しそうな旅支度のイルを見て笑ってしまう。イルはノンナを見て少しだけ驚いた顔をした。
「なんだノンナ、いたのか。とっくに出かけたと思ったが」
「そう思ったんだけどね、クラーク様がイルを連れて行けって」
「へえ。やわそうに見えて、懐の深い男だな」
「そうだよ。クラーク様はできる男だもん。さ、行こう。ぐずぐずしてるとリードに見つかっちゃう。私も置手紙はしてきたから、手紙が見つかる前に行かなきゃ」
「おう。アッシャー家の馬を借りたことだし、とがめられる前に出発しよう」
こうしてノンナとイルは素早く家を出て国境を目指した。
ご令嬢と使用人という設定で二人は旅を続け、順調に進んだ。少女と少年の二人旅は、金目当てで絡まれることもあったが、二人は毎回あっという間に撃退した。
ノンナとイルは今、ランダルの国内を移動している。明日には王都に着く予定だ。






