76 ランダルの王都に到着
「お母さん! ゆっくりでいいよ。私、イルと待ってるから」
「ありがとう」
ノンナはイルとおしゃべりしながら馬車の近くで私を待っている。私は玄関の中にいる。そしてジェフの腕の中だ。使用人は皆、気を利かせて玄関から姿を消している。
「ジェフ、心配しないでね。私はノンナと一緒にランダル王国で王都見物をするだけだわ」
「わかってる。でも、もう少しだけ腕の中にいてくれ。君が体術にも剣術にも優れていて、偽造された書類を見分けられることも、高い場所に素早く登れることも、見たことはないがナイフ投げに秀でていることも知っている」
「私、褒められてる? それとも『危ないことをするな』と戒められてる?」
「どっちもだ」
ジェフは心配性だ。私を失うことを恐れている。私を失ったら何年も立ち直れなくなるのではないか。自惚れではなくそう思う。影役のときもこの人は酷くそれを恐れていた。今回は私がハグル王国に近寄ることになるのも、不安にさせている原因だろう。
「ジェフ、ランダル王国の王都は何十万人も住んでいる巨大な都市だわ」
「わかっている。君が知り合いに会うことはないだろうと、頭ではわかってるさ。ああ、だめだな。こうしていると君を手放したくなくなる」
そう言って私の両肩に置いた手で、私を自分から引き離して顔を覗き込んでくる。ジェフの目が「心配だ」と言っている。
「必ずまたここに帰って来ます。ここが私の帰るべき場所ですもの」
「そうだな。お土産話を楽しみにしている。気をつけて。そして楽しんできてくれ」
「ええ。あなたもお体に気をつけて」
外に出て馬車に乗り込み、さあ出発と言うところで小型の馬車がガラガラと走ってきた。アンダーソン家の馬車だ。馬車が止まると同時にドアが開き、クラーク様が飛び降りて走ってくる。それを見たノンナも無言で扉を開け、飛び降りた。
「クラーク様! 見送りに来てくれてありがとうございます」
「最近なかなか会えなかったから、今日は絶対に見送りをしたかった」
「お土産を買ってきますね」
「お土産も嬉しいけど、無事に帰っておいで。ノンナが帰ってくれば、僕はそれでいい」
「私なら大丈夫です。ちゃんと帰って来ます」
クラーク様に挨拶をするため、私も馬車から降りた。
「クラーク様、お忙しいでしょうに、お見送りをありがとうございます」
「先生、お気をつけて。ランダル王国の王都は治安がいいと言われていますが、それでもどうか気をつけてください」
「ありがとうございます。気をつけます」
クラーク様はノンナと握手しようと右手を伸ばしたけれど、ノンナは止める間もなくクラーク様に抱きついて背中をポンポンしている。
「行ってきます。お土産もお土産話も楽しみにしていてくださいね。あと石も拾ってきます」
「あっ、うん」
ノンナを抱きしめ返すこともなく、クラーク様が両腕を中途半端に伸ばしたまま返事をしている。
ジェフが苦笑して「ノンナ、クラークが困ってるぞ」とノンナを引き剝がした。赤くなっているクラーク様が初々しい。ノンナはケロリとしている。
馬車が出発し、ノンナは窓に顔を押し付けてクラーク様を見ている。そんなノンナをイルがニヤニヤしながら見ている。シェン国滞在中は兄妹みたいにノンナと仲が良かったイル。ノンナとクラーク様の関係をどう見ているのだろうか。ノンナが窓から顔を離したところでイルが話しかけた。
「ノンナ、あいつはいいやつか?」
「うん。いいやつって言葉はクラーク様のためにあるような言葉だよ」
「そうか。よかったな。兄としてはちょっと寂しいけどな」
「いつ私の兄になったのよ」
「最初に会ったときからだよ」
「嘘だね。初めて会った日に私のこと、ヒヨコって呼んで嫌な感じに笑ったくせに」
「お前……相当執念深いな」
馬車の中はほのぼのしている。
ランダル王国の王都を目指し、宿に泊まりながら旅は続く。整備されたアシュベリーの街道を順調に進み、国境を超えた。そこからまたランダル王国の王都まで移動を続け、出発から二週間かけてランダルの王都に着いた。
私がこの王都に来るのは三度目。工作員時代に仕事で滞在したことが二度。そのときは街の中を散策することもなく立ち去ったから、三回目といえども新鮮な気持ちで景色を楽しめる。
「へえ、アシュベリーとはまた雰囲気が違うんだな、ノンナ」
「そうだね。なんか、街の色が濃いよね」
アシュベリーの王都は全体的に白っぽい。街路の石畳が白く、建物の壁の色は白や淡い色が基本だ。それに比べてランダルの石畳はやや濃い目の灰色で建物の外壁は紺色や茶色、暗い赤、深緑に塗られ、その代わりに窓枠が全部白い。
「おとぎ話の街みたいな感じね」
「お母さんもそう思った? 私もそう思った」
前を走るマグレイ伯爵家の馬車が、大きなホテルの前に止まり、私たちの馬車も止まった。私たちは馬車を降り、リードが荷物を下ろしている。
「長旅の御者役をお疲れ様だったわね、リード」
「他国に出るのは初めてでしたから、楽しかったです」
エリザベス嬢とマグレイ伯爵が歩み寄って来た。
「ノンナさん、イルさん、座りっぱなしで疲れたでしょう? 今から王都見物をしませんか? 歩いたほうが早く疲れが取れますわよ。わたくし、ここの道案内ならできますわ」
「うん、お願い、エリザベス。お母さん、いいよね?」
イルとノンナが一緒だから安心なような、逆に不安なような。迷っていたらマグレイ伯爵がノンナに助け舟を出した。
「我が家の護衛を二人同行させますので、ご安心を」
「そうですか、ではよろしくお願いいたします」
ノンナたち三人はホテルに入ることもなく、屈強な護衛二人と王都見物に出かけて行った。私は部屋で荷物をトランクから出し、これから一ヶ月快適に逗留できるように動いていた。人数は少ない方がいいと判断して、バーサは連れて来ていない。
荷物から衣類をとりだしてクローゼットに収納し、一階にあるレストランでお茶でもと下りて行ったら、マグレイ伯爵が所在なさげにロビーに座っている。
「伯爵様、どうなさいました?」
「一緒に商取引をする方に、到着の知らせを届けに行った者がなかなか戻ってこないのです。すぐ近くのホテルにいるはずなのに、なにを手間取っているのか」
「そうでしたか」
「いや、これは失礼。つまらぬ愚痴を。お疲れでしょう、どうぞ私のことはお気になさらず」
レストランでお茶を飲んでひと休みした私は、平民風の服装に着替えて街歩きをすることにした。路地には近寄らず、大通りの書店をはしごしてみようと思っている。
ランダルの王都は活気があった。人々の表情も明るい。書店が何軒もあり、本の品揃えも豊富だ。
八歳のときからずっと必要最低限の物しか持たない生活だった。
大人になってそれなりの収入を手にしても、いつでも逃げられることを一番に心掛けて暮らしてきた。
でも今は自分の家がある。好きなだけ本を買って、身近に置いておける。
(私、贅沢な暮らしをしている)
私は読書が大好きだ。気に入った本を好きなだけ身近に置いて暮らせるなんて、夢の暮らしだ。工作員だったころは、そんな生活はあり得ないことだったから、想像したことも憧れたこともなかった。
書店から書店へと歩き回り、手には三冊の本。
歴史小説、騎士の物語、ノンナが好きそうな冒険小説を買って、次の書店を探して歩いている間も心が浮き立つ。
四店目の書店で、独創的な刺繍柄を集めた本を見つけた。
「まあ、素敵」
「奥様、お目が高い。それはスバルツ王国の伝統的な柄を集めたものなんですよ」
「スバルツの? そうですか。デザインも色の組み合わせも、とても斬新ですね」
「森を守っている民が、何種類もの土や木の汁、花の汁などを使って手足や顔に描いている柄だそうです。それを、アシュベリーの女性が刺繍の図案にした本でございます」
「それをランダル語で出版ですか」
「そうです。国と国の間には国境がありますが、こうした文化に国境はありませんから」
「これ、いただきます。胸の躍る背景を教えてくださって、ありがとうございます」
「いえいえ。お買い上げありがとうございます」
四冊の本を抱え、ホテルへと戻るべく大通りをゆっくり歩いている。歩きながらふと実家の家族を思う。
父、母、妹にもこんな幸せを味わわせてやりたかった。
働くばかりで人生を終えたであろう両親。妹は恋心の煌めきを知っていただろうか。
一番苦労するはずだった私がこうして幸せな暮らしを送り、平凡で穏やかな人生を送るのだろうと思っていた家族は先に人生の幕を閉じた。
神の庭へと旅立った三人の時間は止まり、私はもうすぐ別れたころの両親の年齢と肩を並べる。
「もっと早く家族のところに顔を出して、もっとたくさん仕送りをしていたら、みんな火事で死なずに済んでいたのかな。……ううん、やめよう。何万回後悔したところで何も生まれない。後悔は毒にしかならないもの」
『反省するのはいいが、後悔はやめておけ。後悔は毒にしかならない』
そう言って私を慰めてくれたランコムは今、どうしているだろうか。今も室長なのだろうか。それとも、もっと出世しているのだろうか。彼は今、四十五才。現場から離れた人だから、生きてはいるだろう。
「私ったらどうしたのかしら。なんだか昔のことばかり思い出してしまう。疲れていないつもりでも疲れているのかしら。ホテルで少し横になろう」
ホテルに戻ると、伯爵がロビーの隅の席で深刻な顔をして使用人と話し込んでいる。一応声をかけたほうがいいだろうと近寄った。
「マグレイ伯爵、ただいま戻りました。私は部屋で休んでおりますね」
「ああ、お帰りなさい」
そう言う伯爵の顔に焦燥が浮かんでいる。
「まだ連絡が取れないのですか?」
「ランダル王国での新規の商売を取り持ってくれるはずの人物が……行方知れずだそうで、困っております。いつもはその方が通訳をしてくれましたのでね。私も日常会話なら問題はありませんが……。商売の通訳ですので曖昧に済ませるわけにもいかず、大金が動く話ですので見ず知らずの人物に頼むわけにもいかず、ほとほと困っております」






