7 エドワード・アッシャーの勘
歴史学者のバーナードは今、とても気分が高揚していた。
ビクトリアとノンナが帰った後、妻の肖像画が飾ってある居間に早足で入った。絵の正面に置いてある一人掛けのソファーに座り、絵に向かって話しかけた。
「ヘレン。お前はあの時、私が高額な古書を自分に相談せずに買ったと言って怒っていたなあ。十日も口を利いてくれなかった。だけどね、ヘレン。やっと私の願いが叶いそうだよ」
そこでバーナードは冷えてしまったお茶を飲んだ。
「私はビクトリアにあの本を届けるための中継ぎの役目だったらしい。あの本とビクトリアは、ここで出会う運命だったんだ。こんなに胸が躍ったのはいつ以来か。運命の神様はなかなか面白いことをお考えになる。ヘレン、私はこの結末を見届けたい。君を待たせることになるが、もう少しこっちにいるよ」
そう言ったところで玄関のドアがノックされた。
「ああ、鍵は開いてるぞ。勝手に入るといい」
「伯父上、相変わらず不用心ですね」
「おや、エドワードじゃないか。こんな時間に珍しいな。どうした」
「伯父上、ビクトリアに『失われた王冠』を渡したんですね?」
「ああ、結婚祝いに贈ったよ。あれは彼女が持っているべきものだ」
「ほぅ。それはどういう意味です?」
「私が二十年も解けなかったあの本の謎を、ビクトリアはたった数日で解いてくれた。あの本は二十年間、この家でビクトリアを待っていたとしか思えん」
エドワードの青い目がキラリと光った。
「本の謎を解いた、とは?」
「私がずっとあの本には暗号が書き込まれてるかもしれない、と言っていたのを覚えているかい?」
「ええ、覚えてますよ。私も見せてもらいましたが、あの誤字に特別な意味は無さそうでした」
「ビクトリアは暗号を解読してくれたんだ。言われてみたらずいぶん簡単な仕掛けだったよ。今日は彼女と二人でずっとあの本に隠されている暗号を解いていたんだ。いやあ、実に愉快だった。楽しい時間を過ごせたよ」
「それで、何が隠されていたんです?」
「これだよ。ビクトリアと私が二人で読み取り、ノンナが書きとってくれたんだ」
そう言ってバーナードはノンナの愛らしい文字が並ぶ紙をエドワードに手渡した。読んだエドワードの顔に小さく驚きが浮かぶ。
「伯父上、これが本当にあの冒険小説に隠されていたんですか?」
「そうだ」
「つまり、作者のエルマー・アーチボルトは王冠に例えた何かを見つけたというのですね? しかし持ち帰らなかった。または持ち帰れなかった。そしてそこにはもしかしたら失踪した王女が絡んでるかもしれないと」
「王女に関しては私の推測にしかすぎないよ」
「それで、ビクトリアはどうすると言ってましたか? そこに行くつもりだと?」
「まさか。彼女はもうすぐ子爵夫人だ。ノンナもいる。この暗号の示す場所はシビルだぞ?そんなところまでは行かないだろう。私は長年の謎を解いてもらっただけで大満足だよ」
「そうですか。では私はそろそろ帰ります」
「お前は何をしに来たんだ?」
「伯父上の様子を見に来たんですよ。では、おやすみなさい、伯父上」
バーナード・フィッチャーの屋敷を出たエドワードは家には帰らず、足早に王城に戻った。
たどり着いたのは王城の北棟の三階。資料管理部。通称第三騎士団と呼ばれる工作員組織の仕事場のひとつである。ドアを開けて中に入ると、男たちが一斉に驚いた顔をした。
「あれ? 部長、さっきお帰りになったのかと思ってましたが」
「ああ、ちょっと気になることがあってね。確認に行ったら勘が当たっていたものだから」
全員の顔にピリリと緊張が走る。
エドワード・アッシャーの勘は外れないことで知られているからだ。
男たちは資料を作りながら横目でチラチラとエドワードを見る。
エドワードは古い資料を収めてある奥の棚の前に立ち、せわしなく次々と資料を取り出しては開いて戻す、を繰り返していた。
やがて一冊の資料を手に取ると、ひとつ上の階の『諸制度維持管理部』のドアを開け、自分の机に向かった。エドワードは資料をめくり、じっくり読む。そこにマイクがやって来た。
「部長、どうかなさいましたか」
「ああ、マイク。どうも『彼女』がとあることを解決するかもしれないんだ」
マイクは当面の間、ビクトリアに関する全ての情報を管理する役目を任されている。彼女は今や自由の身だが、ハグルから彼女を守るためにエドワードとマイクがこっそり動いている。その彼女が元ハグル王国の特務隊のエースだったことと、ジェフリーの妻になっていることの両方を知っているのはエドワードとマイクだけである。王族や宰相もジェフリーの結婚相手がビクトリアであることは知らない。
エドワードはこれを知られたら『公務に私情を挟んだ』と見なされることは十分承知の上だから慎重に動いている。
「で、彼女は今回何を?」
「マイク、君は百年ほど前の王女失踪事件を知ってるかい?」
「えーと、第五王女が失踪してそれきりになった件ですか」
「もしかしたらその第五王女の行方がわかるかもしれないんだ。だから」
そこまで言ってエドワードは口を閉じた。
「いや、やめておこう。一度にあんまり欲張るのはよくない」
「なんですか部長。そこまで聞かせておいて途中でやめないでくださいよ」
エドワードはじっとマイクを見た。
「なんです?」
「君じゃなあ。ジェフリーが嫌がるだろうなあ」
「ですから、なんのことです?」
「これはただの勘なんだけどね。彼女は失われた王冠を探しに行くような気がするんだ。彼女の才能が彼女を突き動かす気がするんだよ。特務隊でエースになったような女性が、このまま諦めるとは思えないんだ。そして彼女の才能なら、本当に何かを見つけてしまうような気がするんだよね」
「失われた王冠て、あの小説のですか? 諦めるって何をです?」
「君はもう戻っていいよ」
「はあ。そうですか」
マイクは首を傾げながら自分の席に戻った。
エドワードは第五王女失踪事件の資料を眺めながら考えていた。
自分の身を守って敵と戦える人はたくさんいる。
暗号解読に優れる人はそこそこいる。
高価な古書を手に入れられる人はわずかだがいる。
しかし、その三つ全部に当てはまる人はまずいない。ビクトリアはその稀有な人だ。その上、貴重な古書を結婚祝いで贈られてしまうような強運と人間的な魅力も併せ持っている。
弟は、普通の男では到底太刀打ちできない女性、同時に大変に素晴らしい女性を妻にしたのだ。
「いやぁ、大変だねえジェフリー」
堅物で真面目な弟を思いやってしまう。きっと魅力がありすぎる彼女を失いたくなくて、弟の心配は尽きないことだろう。
自分の勘が「彼女はきっと王冠を探しに行くだろう。その過程を見聞きして記録できる人物を付けておけ」と騒ぐ。
この国の歴史に残る謎がひとつ、解決されるかもしれない。こんな好機を見逃す手はない。エドワードは彼女に同行させても嫌がられず、記録係として役に立つ人間を脳内で次々思い浮かべた。
「マイクじゃジェフリーが嫌がる。マイルズだと彼の正体に気づいているビクトリアが困るだろう」
しばらく思案していたエドワードだったが、結論が出せないので一度家に帰ってじっくり考えることにした。
「ただいま帰りましたよ、母上」
「お帰りエドワード。今日もお仕事は忙しかったの?」
「ええ、まあ、そこそこに」
「ジェフは騎士団長の仕事が忙しいのかしら。早く結婚できるといいわねえ」
「母上、ジェフは結婚したんですよ」
「あら。そうだったの。私ったら、またうっかり忘れてしまったのね」
「母上。ジェフリーの妻になった女性はとてもいい人です。安心してください」
「そう。よかった。あの子は可哀そうな目に遭っていたから。私が守ってやれなかったばかりに気の毒な育ち方をしたわ」
そう言って母がほろほろと涙を流すのを、背中をさすりながら慰める。
母はこうして時間の川を遡ったり下ったりする。今はきっと記憶の川の上流にいて、ジェフリーはまだ若い独身だと思っているのだ。
父は己の心を制御できず、まともな家庭を築けなかっただけではない。母の心を破壊し、自分と弟からは幸せな子ども時代を奪った。
だが、そんな父がいなければ自分がこの世に生まれていなかった、という事実がなんともやりきれない。
エドワードは母の部屋を出て、自室に入った。妻のブライズが甲斐甲斐しく自分の世話を焼いてくれる。
「母の調子があまり良くないね」
「そんな日もありますわ。人間ですもの」
「そうか。いつもありがとう。君と結婚して本当によかったよ」
「まあ。ずいぶん大げさね」
大げさではない。地獄のような家庭で育った身としては、愛し愛されて幸せに育った妻が当然のように作る家庭がどれだけありがたいか。エドワードにとっては経験したことがないものであり、理想の家庭であり天国だった。
その天国のような家庭でくつろいでいたら急に一人の顔が浮かんだ。
「そうだ、クラークがいたじゃないか。文官だし、記録係にはちょうどいい」
そう決めたところで使用人が手紙を運んできた。手紙はジェフリーからだった。
『シェン国では五年間まともに休まなかったので、近々骨休めに家族旅行に行って来る。行き先はシビルの森の辺り。叙爵までには戻れると思う』
どうやら今回も自分の勘は正しかったらしいと、エドワードは微笑んだ。
本日16時に次話を投稿します。






