67 明日もきっと忙しい
「マイルズさあん!」
羊牧場の責任者が誰か気がついたとたんに、猛烈な勢いでノンナが突進した。
マイルズさんは問題なくノンナを受け止めただけでなく、走ってきた勢いを利用して、ノンナの身体を高く持ち上げながらくるりと回転して下ろした。さすがだ。
ノンナの突進をやめさせなければ。そのうち誰かが怪我をする。
「大きくなったなあ、ノンナ」
「育ち盛りだもん。マイルズさん、あの家から引っ越したんだね。今はチェスターさんていう人が住んでるよ」
「ほう。会ったのかい?」
「うん。いろいろ教わった」
チェスターさんに? ノンナが? 何を?
おそらく私が影を務めているときのことだろうが、ノンナはエドワード様の家に……。
そこまで考えて気がついた。元気を持て余しているノンナの面倒を見てくれたのだろう。エドワード様の采配で、上手にガス抜きさせられていたのかも。
エドワード様ならありそうだ。
私の中で、エドワード様は「何もかもご存じで、皆を手のひらの上で転がしている人」という印象になっている。
羊たちはノンナが来たとたんに、集団でジワジワと離れていく。
マイルズさん一人だと嬉しそうに近寄ってくるのが噓のように、今日は羊たちがよそよそしい。
「ちょっと、羊たち! 私に触らせてよ。そっちが来ないならこっちから行くから!」
ノンナがいつものように羊たちを追いかけ、嫌がられている。いい加減、そのやり方がだめなんだと気づけばいいのに。
笑いながらノンナを見ていたらマイルズさんが何か言いたそうだ。
「なんでしょう?」
「あんた、あの子をどれだけ鍛えたんだい? あの年頃の女の子とは思えないほど体幹がしっかりしていたぞ」
「シェン国で武術をかなり。あの子の希望で」
「ほぉ。どんな流儀なのか、見てみたいな」
「強いですよ。マイクさんが本気を出さないと、あの子が勝ちますね。マイクさんは専門家ですから、実戦の場ではノンナとは格が違うと思いますが。鍛錬だと遠慮がない分、ノンナが有利です」
「まさか。本当かい?」
「本当です」
そこからしばらくノンナと羊の群れの攻防を眺めていたが、マイルズさんがぽつりと漏らす。
「ああ、そういうことか」
「なんです?」
「俺が職業案内所に通い始めて五回目に、羊牧場の責任者の募集が出たんだよ。あれは第三騎士団の手配だったような気がしてきた」
「いえ……だって、あの募集は私が思いついて出した募集ですよ?」
「いや、あり得る。第三騎士団は、なぜかあんたを大切にしていた。変な人間が就職しないよう、手を回して募集を隠していた可能性がある。あの家に住むように言われた時も、何かあったらあんたとノンナを守ってほしいという指示だった。ここに俺が就職することになったのも、そういう意図かも知れないな。恐ろしい組織なんだよ、この国の特殊任務部隊は」
なるほど。エドワード様ならある話だ。
「そうですね。敵に回したらとんでもなく恐ろしいですね」
「気に入られているうちはいいがな」
「ええ」
エドワード様はこの国とジェフのために私とノンナを守ってくれている。それ以上でもそれ以下でもないだろう。私とノンナの存在が、この国とジェフにとって害になると判断したら、きっと……。
ふっ、と苦笑してしまう。私とノンナは、よく切れる刃物の上を歩いているのかもしれない。道を踏み外せば、あっという間に消されてしまう可能性だってある。
「せいぜい嫌われないように気をつけます」
「ああ、そうした方がいい。あまりに頭が切れる人間は、たいてい非情だよ」
「そうね」
おそらく、エドワード様はジェフに対して情がありすぎるのだ。情が深すぎて頭が切れすぎる。大変な人の義妹になったものだ。
「マイルズさんは積極的に第三騎士団に関わらないんですか?」
「そんな話もあったな。だが断った。あんたが俺のせいで隣国に逃げ出したらしいと知ってから、後悔したんだ。こうしてまた会えたからいいようなものの、あんたがランダルで命を落としていたら……。俺は暇つぶしであの仕事を引き受けたことを後悔して生きることになった。あんな思いはもうしたくない。俺の持ち時間はそんなに残っていない。後悔しながら生きるのはごめんだよ。羊牧場の責任者がせいぜいだ」
「頼りにしています。ここで働く女性たちを守ってください」
「ああ、任せろ」
ノンナがまだ小柄な羊に抱きついた。羊が猛烈に嫌がって暴れ、周囲の羊たちが怒ってノンナを威嚇している。数が数だけに危ない。
「ノンナ、戻ってらっしゃい!」
「はぁい」
ノンナが全力で走って戻ってくる。相変わらず元気が有り余っている様子。
「なんで私を怖がるかなあ。私、優しいのに」
「しつこくするからよ」
「むぅ」
「ねえ、ノンナ、チェスターさんに何を教わったの?」
はっきりとノンナがギクリとした。視線が泳いでいる。
「怒らないから言ってごらん」
「ナイフを投げたりとか、ええと、鍵の開け方とか」
「ぷっ」
マイルズさんが吹き出した。
「鍵開けの技術、お母さんはわざと教えなかったのに」
「鍵開けは便利だよ。悪いことに使うつもりはないし。きっといつか役に立つよ!」
「これだけは言っておくわ。悪いことに力を使う人は、いつかその力のせいで死ぬわよ」
「……うん」
「私はあなたに安全で幸せな暮らしをしてほしくて鍛えたの。私をがっかりさせないで」
「うん。わかった」
「ノンナ、今度俺と対戦してみないか?」
「してみる! いいの? お母さん」
「いいわよ」
ノンナは接近戦をマイルズさんに習う約束をして、別れた。
帰りの馬車でノンナは上機嫌だ。シェン国で鍛えられ、チェスターさんに鍛えられ、マイルズさんに鍛えられるノンナ。そのうち私の上をいくのだろう。まだ十二歳だ、十分に可能性はある。
ノンナが第三騎士団に取り込まれるのだけは避けたい。
エドワード様がそんなことをするとは思えないが、全くその可能性がないとも言えない。天秤がどっちに傾くかは、その時の状況次第だろう。
家に帰り、お茶を飲み、考える。
エドワード様がジェフとこの国を守るためなら手段を問わないように、私はノンナを守るためならなんだってする。
バーサが夕食の用意ができたと知らせに来た。
「さて。ジェフは帰りが遅いのかしら?」
「夕食は不要とのことでした」
「そう。では私は夜、ちょっと出かけてくるわ」
「かしこまりました」
夕食を終え、ノンナには「お菓子のおじさんのお店に行ってくる。なるべく早く帰るわ」と告げた。ノンナはアシュとベリーを相手に猫じゃらしで遊んでいる。
「わかった。お土産はいらないから」
「お土産はないわよ、酒場だもの」
「そっか。あのおじさんによろしく言っておいて」
「ええ」
平民風のワンピースに着替え、編み上げの短靴を履く。もう今後はいつどんな目に遭っても動けるようにしておこう。私がいなくなったら、ノンナが第三騎士団に取り込まれるかもしれない。
※……※……※
「よお、元気そうだな」
「ええ、元気よ」
いつもの蒸留酒が運ばれ、ザハーロさんが私の向かいに座る。黒ツグミの店内には他の客が二人。離れた席にいるから、私たちの会話は聞かれないだろう。
「身体は元気だが、ってところか」
「ええ。夫がもしかしたら要職に就くかもしれないの」
「そりゃ……あんたは困るんじゃないのか?」
「都合は悪いわね」
ザハーロさんは立ち上がり、自分用のグラスを持ってきてまた向かいに座る。
「優秀な人間は、望むか望まないかに関係なく動かされる」
「夫は王太子様のお気に入りだから。仕方ないわ」
「そうじゃない。俺が言ってるのはあんたのことだ。大丈夫か? 偉い人間に、便利に使われてないか?」
少しだけ笑ってグラスをあおる。
「使われるかも。それでもいい。ノンナを守るためなら、私は誰かの手駒になる覚悟はあるわ」
「おいおい」
「私はこの国に来る前、家族のために生きていたの。今もまた家族のために生きている」
「自分の人生だぞ?」
「私の人生は家族のためにあるの。それが幸せなの」
「そうか。きっと……」
グラスの酒を眺めていたザハーロさんが、そこで言葉を切る。
「あんたの人生はそう動くような運命なんだろうな。俺が力になれることなら協力するぜ?」
「ありがとう。でも、なぜ?」
「見返りを求めない親切もあるさ。俺はあんたのことを勝手に仲間だと思っている。そうしなきゃならない境遇に置かれて、生き延びている仲間」
嬉しかった。
「ありがとう。何かのときは頼らせてください」
「ああ、任せろ。とりあえずヘクターからは守ってやる」
「ヘクター? まだ私のことを探しているの?」
「ああ」
ザハーロさんが渋い顔だ。
「あの事件からもう五年、いや、そろそろ六年になるか。どうやらヘクターの組織と対立する組織が台頭しているらしくてな。欲しいんだとさ、腕の立つ赤髪の女が。脱獄させたい人間でもいるのかもしれないな」
「よっぽど手駒が少ないの?」
「自覚しろよ、あんたはありきたりの駒じゃない。『ものすごく使える駒』だ。しかも自分の意思を持っている怖い駒だよ」
「やめてよ」
苦笑し、最近の街の噂を聞き、三杯飲み終えて帰宅した。
ジェフはまだ帰っていない。
「お母さん、今夜一緒に寝ていい?」
「いいわよ」
ノンナのベッドに二人で入り、他愛のない話をしているうちにノンナが眠った。
そっとベッドを抜け出し、自分の寝室で筋肉を鍛える。
「そうね。私には意思がある。便利に働かされる使い捨ての手駒にはならないわよ」
汗をかくまで身体を動かし、お湯でさっぱりしてからベッドに入る。ジェフはまだ帰らない。「軍部副大臣は断る」と粘っている気がする。それはおそらく、いや、きっと無駄な抵抗に終わるだろう。
さあ、眠ろう。明日もきっと忙しい。






