64 羊牧場の管理人
アシュベリー王国が派遣した使節団はまだ帰ってこない。
往復の距離を考えれば、実際にジェフがスバルツ王国側とかかわっている時間はそう長くない。
全部わかっているのに、毎日(今日もお城から連絡がない)と気落ちしながら眠る日々だ。
しょんぼりしているのは私だけでなく、ノンナも元気がない。
今日はエリザベス嬢が遊びに来たのに、ぼんやりしていて心配されている。
「ノンナさん。どうなさったんです? 具合でも悪いのですか?」
「なんか、元気が出ない」
「父に聞きましたけど、クラーク・アンダーソン様が、使節団に同行しているそうですわね?」
「うん」
「うちの父はその手の情報だけは早いのです。情報通、っていうのでしょうかしら」
ソファーにグダッと身体を預けていたノンナが、急に起き上がる。思わず私も居間の端から注目してしまった。私は朝から同じ場所でずっと刺繍をしていたのだが、そこにノンナとエリザベス嬢が入ってきて話をしている。
「そういえばクラーク様のお父さんて、外務大臣だよね。話を聞きに行ったら、なにか教えてくれるかな」
「なにかってなんですの?」
「アシュベリーとスバルツは戦争になるのか、とか」
「ノンナさん……」
いつもはノンナに押されがちなエリザベス嬢が、妙にお姉さん風の雰囲気で苦笑している。
「なによ」
「知り合いの子供に聞かれて、機密情報をペラペラしゃべる外務大臣なんていませんわよ。クラーク様はご自分の活躍すべき場所へ向かったのでしょう? だったら待てばいいのです。邪魔をせず、足を引っ張らず、待つ。それがノンナさんにとっての最良なのではありませんこと?」
「エリザベスって……」
「なんです?」
「意外にいいこと言うんだね」
「意外に、は余計ですわよ。さあ、うちの料理人が持たせてくれた焼き菓子でも食べましょう。甘いものを食べると元気が出ますわ」
私は静かに立ち上がり、部屋を出て、ノンナたちにお茶を出すようバーサに頼んだ。そして、「ちょっと出かけてくるわ」と声をかけて馬車に乗り、家を出た。
行き先は修道院。誰かと話をしたかった。
◇ ◇ ◇
「奥様、いらっしゃいませ。軟膏作りは順調に進んでおりますよ」
「ありがとうございます。ずっとこちらに来られず、失礼いたしました」
「いえ、子爵様から奥様がお忙しいことはうかがっております。ご心配なく」
軟膏作り工房は静かな活気があった。
鍋に入っている軟膏を混ぜている人、出来上がった軟膏を容器に詰める人、容器にラベルを貼る人、完成した軟膏を箱詰めする人。
私たちが見つけた金鉱が、少しでもここの女性たちの役に立っているのを見ると、(私が暗号なんて解かなければ、ジェフは……)という生産性のない泥沼の考えから浮上できる。
「羊牧場のほうも、順調ですよ。牧場の責任者を一人雇ったほうがいいとアッシャー子爵様がおっしゃっていたので、腕っぷしの強そうな経験者を雇いました」
「ああ、お手紙で連絡をいただいていましたね」
「その責任者がおりますので、顔を見てやってくださいな。温厚な方で、うちの修道院で暮らしている女性たちも、頼りにしているんです」
「そうでしたか」
修道院で暮らす女性たちの中から、希望者を募って任せていた羊牧場。
(そういえば責任者を雇ったと置手紙があったな)
二か月間の影生活で、すっかりご無沙汰していた軟膏工房と羊牧場。私が言い出した施設だ。しょんぼりしている場合じゃなかった。
修道院から羊牧場までは、馬車ならすぐだ。
「奥様、あの方ですわ」
牧場の管理棟の脇で、井戸水を汲んでいる短い白髪の男性。なんとなく見覚えがある気がして目を凝らした。白髪の男性は、私たちに気が付いて歩み寄ってくる。
「マイルズさん、奥様がいらっしゃいましたよ」
「奥様、はじめまして。マイルズと申します」
近づいてきたのは『あの』マイルズさんだ。なぜここにマイルズさんが?
彼はヨラナ様の家の裏隣に住んでいた人。
マイルズさんは退役軍人でありつつ第三騎士団の仕事を請け負って私を見張っていた人だ。まさかまた私を見張るためにここの責任者に? そう思うと一気に心が引き締まる。
だが作り物の笑顔を浮かべて挨拶をする私に比べ、マイルズさんの笑顔はごく自然だ。
「奥様、せっかくいらっしゃったのですから、牧場を歩いてみませんか。羊たちの健康状態について詳しくご説明いたしましょう」
「ええ。ぜひ」
「院長様、では私は奥様をご案内します。ここはお任せください」
「はい。では私は修道院に戻りますね」
マイルズさんと二人で院長様を見送り、二人同時に互いの顔を見る。薄い水色の瞳が楽し気に笑っている。
「いやいや、違うって。偶然なんだ。あの仕事はあれが最初で最後だ」
「ではなぜここに?」
「王都の職業紹介所さ。羊牧場の責任者、しかも四十五歳以上。住み込み。これは俺のための募集だなと思ってね。俺の父親は羊牧場の主だった。俺はその三男坊さ」
「そうですか」
なぜか笑いが込み上げる。
この人がヨラナ様の家の裏通りに住んでいたから、私はノンナを連れてアシュベリーを脱出した。
その直後にハグルの暗殺部隊が私を狙ってやって来たことは、後から聞いた話。
「マイルズさんは私の命の恩人ですものね」
「その件はね……大変に後味が悪かったよ。あの後、あなたはずっと隣国を転々としていたそうだね。俺を疑ったから、逃げ出したんだろう?」
「ええ。そうです。私が隣国に逃げ出したこと、マイクさんから聞いたんですね、それとも、エドワード様から聞いたのかしら」
「エドワード様? 誰だい、そりゃ。私にあの仕事を依頼してきたのは、マイクという名の眼鏡の男だったが」
「そうでしたか」
マイルズさんの表情に嘘はない。エドワード様は徹底して表には出ないようにしているのね。
「私、あれから結婚したんです。あの頃、第二騎士団の団長を務めていた人です」
「第二……ああ、銀髪の大男か? あなたの置手紙を眺めながら、死にそうな顔をしてたな」
「死にそう……そんなでした?」
「そんなだったよ。あなたを宝物みたいに思っている男なんだろう? あんな純粋そうな男を泣かすものじゃない」
「ええ。本当にそうですね。その夫は今、スバルツ王国との交渉に立ち会うため、使節団に同行しています」
マイルズさんは羊に愛されているらしく、じわじわと近寄って来ていた羊たちが、マイルズさんのズボンにグイグイと頭をこすりつけている。ノンナが近寄るとサーッと逃げていく羊たちなのに。ノンナがこの状況を見たら、きっと悔しがるだろう。
「スバルツ王国は、しんどい国だ。これといった輸出品はないし、国の中はいつもごたついている。政治が安定しないから、治安もよくない。そこへ持ってきて、国境のすぐ近くで金鉱脈が発見されただろう? 貧しい国としては、アシュベリーにちょっかい出したくなったんだろうな」
「なるほど」
「あなたは、きっちり組織から抜け出せたのかい?」
「どうでしょう。私は母国に対しては死んだことになっているそうですが、それが本当に通用しているのかどうかは、わかりません」
「そうか。あなたもなかなかしんどい人生だな」
冬の空のような水色の目が、同情を滲ませて私を見つめている。
「小さな雑貨屋の娘に生まれた身にしては、波乱万丈の人生です」
「そうだな」
マイルズさんと二人で並んで空を見上げながら会話をする。こんな日がまた来るなんてね。
「夫になにかあったら、私はどうしたらいいのか。こんなこと、口にすべきではないのでしょうけど。あまりにいろいろなことがあった人生なので、ついそんなことを考えてしまいます」
私、だいぶ心が弱っている。こんな愚痴めいたことをマイルズさんに言うなんて。
「きっと大丈夫さ。スバルツ側だって馬鹿じゃない。もう両国が戦争した昔とは国力が違う。豊かなアシュベリーと戦争をすれば、自分たちが負けることぐらいわかってるよ。きっと少しでもいい条件を引き出したくて、なんだかんだとごねてはいるだろうけどな」
「そうだといいのですけど」
「そうだよ。安心しなさい。戦争にはならない」
マイルズさんは羊たちの頭をワシャワシャと撫でる。
「俺は生きているだけで感謝しているよ。最後の一秒まで人生を味わい尽くすつもりだ」
「最後の一秒まで……」
「ああ、最後の最後まで生きていることを楽しむさ。そういや、あの嬢ちゃんはどうした?」
「家にいます。今日はお友達が遊びに来ているので」
「嬢ちゃんを連れて、ここに来てくれよ」
「ええ。ぜひ」
マイルズさんにノンナを連れてくることを約束して、羊牧場を後にした。
家に帰ると、バーサが涙ぐみながら駆け寄ってきた。
「奥様! 手紙が届きました。近いうちに旦那様がお帰りになるそうです!」
神様。
信仰心のない私ですが、今日ばかりはあなたに感謝を捧げます。
私はバーサを抱きしめ、泣いてしまった。ノンナも駆け寄って来て、私に抱きついて泣いている。エリザベス嬢が「わたくしまでもらい泣きしてしまいますわね」と言いながら一緒に泣いている。
私は波乱万丈の人生を歩んでいる。
そして、生きていれば、こんな素敵な日がやってくる。






