62 線
私とノンナは第三騎士団の馬車に送られて家に帰った。
門を入るか入らないかのうちに、バーサが大慌てで駆け寄って来る。
「奥様、お嬢様、お帰りなさいませ。奥様はお仕事が終わったのでございますね?」
「ただいま、バーサ。仕事は無事に終わったわよ」
「お嬢様もお帰りになったのですね。よかったですわ。奥様もお嬢様も旦那様もいらっしゃらなくて、お屋敷は火が消えたようでしたよ」
忙しくしゃべりながら、バーサが私の服装を見て怪訝そうな顔をしているが、私はいろんな出来事がありすぎて「はて。なんだろうか」としか思わなかった。
ノンナは何事もなかったような笑顔をバーサに向けている。
「ただいまバーサ。伯父様の家も楽しかったけれど、やっぱり自分の家が一番好き。あっ!」
「どうしたの?ノンナ」
「広場でエリザベスと離れ離れになって、そのままだった!」
「エリザベスさんの家に連絡を入れなきゃ」
「お母さん、ブライズ伯母様にも連絡をお願い。きっと心配していると思う」
「わかったわ。私がすぐに手紙を書く」
私の言葉を聞いて、バーサがすかさず笑顔で対応してくれる。
「奥様、連絡でしたらリードに入れさせますから。ご安心ください。久しぶりにお帰りになったのですから、どうぞゆっくりなさってください」
「でも、手紙だけは書くわ」
私はノンナがお世話になったお礼を書いた。それから私の仕事が終わったこと、広場でノンナに会ったこと、騒ぎから逃れて急いで家に一緒に帰ってきたことを手紙に書いた。
「じゃあ、これ。リードに頼むわね」
バーサは「渡して参ります」と言って部屋を出て行った。
ノンナ同様、私も久しぶりの我が家にほっとしている。
けれど、この家にジェフの姿がない。それがなんとも心許ない。ジェフは今頃どうしているのだろうか。スバルツ王国との話し合いは、うまくいっているのだろうか。話し合いがこじれて戦いになっていないといいのだが。
「お母さん? どうしたの?」
「ジェフがどうしているかなって、考えていたの」
「心配なら見に行く?」
私もそれは何度も考えた。そして何度も諦めた。
国同士の話し合いの場所に私がしゃしゃり出て行って、ジェフのためだと言って顔を晒すことの弊害が大きすぎる。
「ううん。それはだめ。今はそんなことをするべきじゃないわ。なんのためにシェン国まで行ったのか、わからなくなる。スバルツ王国とアシュベリー王国が、互いに数千という軍人を送り込んでいるんだもの、私一人が乗り込んだところで……」
「そっか。私とお母さんがそんなところに行ったら、むしろお父さんが困るかもね」
「そうよ。ノンナ、いつのまにかそんなふうに考えられるようになったのね。あなたにはゆっくり大人になってほしいと思っていたけれど、どんどん成長している。嬉しいけれど、少し寂しい」
「なんで?」
「十二歳のあなたが大人になるまで、あとほんの少ししか時間がないもの。大人になったら、いずれは私の手を離れてしまうでしょう? ゆっくり大人になってほしい」
「大人になっても私はお母さんの娘だよ?」
「そうね。ずっと娘だわね」
ノンナの身体に腕を回し、ギュッと抱きしめる。華奢な身体からいい匂いがする。ノンナは「むふう」と満足げな声を出した。
「それでお母さん、その侍女服、いつまで着ているの?」
「あっ! 大変。ずっとこの服を着ていたから、すっかり馴染んで忘れていたわよ。だからバーサが変な顔で私を見ていたのね。私ったら、なにをやっているのかしら」
「返しに行くの?」
「そうね。これはリードに持って行ってもらうわけにいかないわ。でも、まだお城は大騒ぎしているだろうから、落ち着いてからね」
その夜は料理人が腕をふるってご馳走を出してくれた。
私は久しぶりにゆっくりと食べ、のんびりと湯に浸かり、ノンナと二人で同じベッドに入った。疲れていたからすぐに眠れるかと思ったが、なかなか眠れない。
深夜、ベッドから抜け出して水差しの水を飲んでいたら、ノンナが声をかけてきた。
「お母さん? どうしたの? 眠れないの?」
「あら。起こしちゃった? そうね。疲れすぎて眠れないのかも」
「お母さんの仕事って、デルフィーヌ様の偽物の役だったんだね」
「ノンナ、そのことだけど」
私が口止めをしようとしたら、ノンナがニコッと笑う。
「絶対に誰にも言わないよ。お父さんはお母さんが何をしていたか、知っているの?」
「ええ。お父さんは反対していたわ。でも、最後はお母さんの気持ちを優先してくれたの」
「ふうん。私さ、仕事をしているお母さんを初めて見たけど、かっこよくて驚いちゃった。キリリとしていて、デル・ドルガーよりもずっとかっこよかった!」
「私、殺気立っていたかもね。そんなところはあまり見せたくなかったけど」
「私はデルフィーヌ様を守ったよ。シェン国で習ったことがとっても役に立ったの」
それは恐ろしくて、まだ聞けないでいたことだ。
ノンナは人の命を奪ったのだろうかと、ずっと心の中で疑問が渦を巻いていた。するとノンナは私の心を見透かしたように明るい声で教えてくれる。
「私、誰も殺してないよ。師匠が『人を簡単に殺すな。殺してしまっては相手が更生する機会も奪ってしまう』と言ってたの。あれ? お母さん? どうしたの? 大丈夫?」
「ずっとそれが気になっていたから、ちょっと力が抜けてしまった……。私があの仕事を引き受けたせいで、あなたを騒動に巻き込んだでしょう? 巻き込んだ結果、ノンナの人生を変えてしまっていたら、一生苦しむことになったわ」
「ああ、よかった!」
ノンナが胸を押さえて、大きくため息をついた。
「よかったって、なにが?」
「私があのとき敵を殺していたら、お母さんを一生苦しませることになったんだね。私、師匠の言葉もあったけど、命を奪うのは無理だと思ったの。とてもできそうになかった。でも、それでよかったんだなって、今すごくほっとしたよ」
あんなことがあったからこそ、今、伝えなければならないことがある。
「私がいたハグル王国の組織には、特殊任務部隊と暗殺部隊があったの。お母さんは特殊任務部隊。暗殺部隊の人は暗殺することが仕事だったから、ノンナとたいして歳が違わないような若者が、人を殺すことを仕事にしていたわ」
「うわぁ……」
「暗殺部隊の人たちは、人を殺すことをなんとも思わなくなっていくの。『線を超える』のよ。殺人をなんとも思わないようにしないと、自分の心が潰れちゃうから。その人たちは……」
「その人たちはなに?」
「人を殺すことをなんとも思わなくなった人たちは、仕事を終えて身体が線のこちら側に来たとしても、魂の一部は線の向こう側に残ったままになるの」
「ふうん」
「ノンナ、あなたにはその線を越えて欲しくない」
そこまでしゃべったら、なんだかとても寂しくなった。ジェフに会いたい。
思いがけず仕事中の私のところに来てしまったノンナ。あの場はああするしかなかったけれど、ジェフならどうしただろうか。ジェフの意見が知りたい。そしてなによりもジェフの声を聞きたい。
「お母さん?」
「大丈夫よ。ジェフに会いたいと思っただけ」
「私がいるよ。お父さんはきっと無事に帰ってくる。今は私がいるから。元気を出して」
「うん。うん……そうよね。ありがとう。あなたが私の娘でよかった」
「私もだよ。私もお母さんの娘でよかった」
私が落ち込んでもジェフが帰ってくるわけじゃない。しっかりしなくちゃ。それにしても、こんなに早くノンナに慰められる日がくるとは。
ノンナに背中をトントンされているうちに眠気が訪れ、私はいつの間にか眠っていた。
目が覚めたらもう七時を過ぎていた。神経を張り詰めずに眠ったのは二ヶ月ぶりだ。ジェフの夢を見たかったけれど、なんの夢も見ずに熟睡した。
さあ、今日はなにをして過ごそうか、と思っているところにブライズ様からのお手紙が届けられた。手紙には『相談したいことがあります。都合がついたらでいいので、来てほしい』と書いてある。
「ノンナ、アッシャー様のお屋敷に行くわよ。あなたもお世話になったお礼を言わないとね」
「行く。おばあ様にお別れを言ってなかったから、ちょうどよかった」
じっとしているのが苦手なところが、私とノンナはよく似ている。
私たちはお出かけ用のドレスに着替え、アッシャー伯爵家のお屋敷を訪問した。
「いらっしゃい、アンナさん、ノンナさん」
「ブライズ様、ノンナがお世話になりました」
「伯母様、お祭りに出かけたままいきなり帰ってごめんなさい」
「無事でよかったわ、ノンナ。お祭りで大変なことが起きたと聞いて、本当に心配していたのよ。アンナさんが手紙で知らせてくれなかったら、人を出して捜しに行かせるところだったの」
「本当にごめんなさい。騒ぎでエリザベスと別れてしまって、たまたまお母さんと会えたのが嬉しくて、家に帰ってしまいました」
「アンナさんはお仕事が終わったのかしら」
「はい、無事に」
「そう……」
ブライズ様に元気がない。どうしたのだろうか。ノンナは気を利かせたらしく、「おばあ様にご挨拶して来ます」と言って部屋を出て行った。ブライズ様は侍女さんも下がらせ、部屋は私とブライズ様だけになった。
「ブライズ様? なにかありましたか?」
「実は、夫が帰って来ないの。連絡もなしに帰って来ないなんてこと、今まで一度もなかったのよ。お城で大変な騒ぎが起きたっていう噂だけど、私は事情がさっぱりわからなくて不安で。エドワードが無事なのかわからなくて、昨夜は眠れなかったの」
エドワード・アッシャー伯爵は諸制度維持管理部の部長だ。他に修繕部と資料管理部を兼任していると聞いている。どれも軍の反乱には関わり合いがない部署だ。
けれど、あんなことが起きた後だ。関係がない部署であっても駆り出されているのかもしれない。
そういえば騒動の最中に、一度エドワード様の仕事場に入った。北棟の三階のあの部屋だ。あの時は第三騎士団が集結していたから、エドワード様どころか文官が一人もいなかったっけ。全員で避難していたのだろうけど、エドワード様は、それからどうしたのだろう。
「ブライズ様、私、借りていた物を返す用事があって、いずれお城に行かねばならないのです。今はお城が大変なのかもしれませんから、二、三日して、それでもアッシャー様がお帰りにならないようでしたら、諸制度維持管理部をのぞいてみます」
「そうしてくれる? 助かるわ。きっと今夜には帰って来ると思っているけれど、万が一まだ帰って来なかったらお願いしたいわ。夫は私がお城に出向くのを酷く嫌うのよ。私は結婚以来、一度もお城に行ったことがないの」
「そうですか。着替えが必要かもしれませんしね。私がお預かりしてお届けしますわ。従者の方からも連絡がないんですか?」
ブライズ様がしょんぼりと首を振る。
「いつもなら何かしら知らせを届けてくれる人も、今回は来ないのよ」
「心配ですね」
「ええ。華々しくはないけれど、安全な部署で堅実に働いている人だから、今まで一度もこんな心配をしたことがなかったのに」
ジェフが帰って来ない今、私はブライズ様の不安がよくわかる。
「では、二、三日後と言わず、明日にでもお城に行ってみますわ」
「お願いします。でももしお城がまだ落ち着いてないようだったら、このことは気にせずに引き返してね」
「わかりました」
明日、諸制度維持管理部に行ってみよう。そしてブライズ様を安心させてあげたい。
私はお義母様にご挨拶をして、アッシャー伯爵家を後にした。






