56 ジェフリーの出発
ツイッターには既に書いたのですが、ノンナの動きを書くにあたって参考にしている動画がこれです。女子高生(当時)がキレッキレの動きで高い塀に登り、前方宙返り、後方宙返り、狭い足場から飛び移り、飛び下りる。ノンナがやっているところを想像しながら観ると萌えます。音が出ます。
https://youtu.be/9ftxDsHM6X8
「ビクトリアさん、グンターことグレイソンの尋問で、かなりいろいろわかりました」
「……まだ尋問していたのですか。とっくにイーガルに帰国させたかと思っていましたよ」
「上司の判断です。シェン国の自白剤が極めて優秀な働きをしましたよ」
「あの薬を使ったんですか! 彼はイーガル王家の親戚なのに?」
「身分を偽って我が国の王族に近寄ったんですから、そのくらいは当然です」
当然ではないでしょうに。
彼を帰国させてイーガルに貸しを作ることもできたし、国家間の交渉の材料に使うこともできただろう。なのに罪人扱いで自白剤を使いましたか。
第三騎士団の長が誰かは知らないが、誰に対しても遠慮も容赦もしない人物だということは十分わかった。
シェン国に滞在中、自白剤を犯罪者に使う場面に立ち会ったことがある。あの薬の、ゾッとするほどの効果をこの目で見た。
質問されればすぐにスラスラ白状する。本人は情報を漏らしている自覚がないまま、しゃべってしまう。その代わりに目の玉が飛び出るほど値段が高い。製造方法は極秘中の極秘だ。
「デルフィーヌ様が狙われている件ですが、あまり時間がありません」
「もしかして、あの金の鉱脈が関係していますか?」
「いいえ。イーガルでは水面下で王位争いが始まっているのです」
「ああ、イーガルの国王は高齢でしたね」
「そうです。デルフィーヌ様が王太子妃である限り、イーガルに内戦があれば我が国の軍はイーガル王家の援軍として乗り込みます」
「そうさせないためにデルフィーヌ様を亡き者にしたい人たち。つまり反王家一派ですか」
「ええ。イーガル国王の体調はかなり悪いようなので、デルフィーヌ様を狙う側もあまり時間の猶予はないでしょう。だから手っ取り早く毒薬を使ったのかと」
あちらに急ぐ事情があるのなら、こちらも急がないと。
「まだ確実な証拠はつかんでいませんが、デルフィーヌ様のお食事に毒が仕込まれた経緯はおおよそわかりました」
「……ビクトリアさんはほとんど出歩く時間がないでしょうに。さすがですね。ぜひ聞かせてください」
「その前に、マイクさんに質問したいことがあります。第三騎士団は王家の安全管理に関与していないか、関与できない状態なんですね?」
「そんなことはありませんよ」
マイクさんは表情を変えず、目も動かさずにそう即答したが、それは嘘だ。今更ながら(訓練されている人だなあ)と思う。
王族の安全管理に第三騎士団がほとんど関与していないのは間違いない。
毒はエリーさんが自分で入れたはずだ。
王族周辺の管理が緩いから、城から出ずに暮らしているエリーさんでも毒物を手に入れることができた。王太子妃付きのエリーさんに会える人物はかなり限られる。
つまり、城の中にエリーさんに毒を渡した人物がいる。
「エリーさんは自分で毒を飲んだのです。敬愛しているデルフィーヌ様を殺すことができず、自分がただの自殺で終われば実家は無事では済まない。だからデルフィーヌ様の毒殺を試みて失敗した、という形で解決しようとしたのでしょう。それで実家の借金が消えるわけがないのに。よほど思い詰めたのです」
「ふむ」
「ところがエリーさんが口にした毒は、誰かの手によって弱い毒にすり替えられていました。死ぬ覚悟だったエリーさんは今、困惑しているでしょう。今もどうすべきか悩んでいるはずです。彼女が思い余って、他の手段で自殺したりする前に手を打たなければ」
「毒をすり替えた人間に心当たりは?」
「すり替えたのは私の交代要員のニーナさんかと。エリーさんの私室に入っても怪しまれないのは、あの人しかいませんから」
「いや、しかし……」
「彼女は私のように、この国の貴族に成りすましているのでしょうけれどね。イーガルの王位争いが落ち着くまで、一時的にデルフィーヌ様を守るためにイーガル王家派から送り込まれた人だと考えれば、つじつまが合います。マイクさんたちも気づいているのでは?」
「……」
「私は部外者ですが、こうも秘密が多くては影の役目をまともに務められません。情報の共有無しにデルフィーヌ様を守ることなんてできませんよ。敵はもう動いているんです。マイクさん、ニーナさんはイーガルの人間なんですよね?」
「ええ……そうです」
「しかも、エリーさんはそのことを知らないのでしょう? そうでなければ、毒をすり替えられるような油断をしないはず」
私がなぜニーナがイーガルの人間だと気づいたか。理由は簡単だ。
私が最初にデルフィーヌ様と会話したときに指摘されたイーガル王国北部の訛り。彼女があれによく似た発音でしゃべってしまうことが二度あったからだ。
体に染み込んだ訛りは、何気ない会話で出やすい。私が工作員時代に各国で働くことができたのは、ハグル風の発音を滲ませずにしゃべることができたからだ。
「彼女はアシュベリー語に堪能なところを見込まれてこの国に差し向けられたのでしょうが、イーガル北部の訛りを消しきれていません」
「ふむ」
「エリーさんとお話をした時、デルフィーヌ様の実家から付いてきたのはエリーさんだけのような話しぶりでした。それらを考え併せてニーナさんの素性に気がつきました」
マイクさんはなぜか「はぁぁ」と小さくため息をついた。そのため息はなに? と聞きたいのは我慢して話を続ける。
「マイクさん、エリーさんが思い詰めて他の方法で自殺を図る前に私が手を打ちます。いいですよね?」
「わかりました。ビクトリアさんなら間違いはないでしょうが、エリーもニーナも死なないようにしてくださいよ。王族の近くで不審死があると、あなたまで調べられることになりますから。あなたは我々の仲間ということになっているのです。正体を知られたら、アッシャー卿の妻がなんでそんなことをしているんだという話になってしまいます」
「もちろん誰も死なせません」
「ではその件はビクトリアさんにお任せします。私は王族の居住区域に気安く入るわけにはいかないのです。それと、今日はもうひとつ大切な要件があります。あなたにお客様です」
マイクさんがドアに近寄り、少しだけドアを開けた。すぐにドアが勢いよく開かれ、大きな身体がするりと入って来た。
「ジェフ!」
「久しぶりだね、アンナ。一ヶ月ぶりか」
駆け寄ってジェフの首に抱きついた。懐かしいジェフの匂いを深く嗅ぐ。私の夫は相変わらずいい匂いだ。マイクさんが静かに部屋を出て行った。
「どうしたの? ノンナに何かあったんじゃないでしょうね」
「ノンナは兄の家で大人しくしているよ。母と仲良くなって相手をしてくれている。今日ここに来たのは、俺もしばらく出かけることになったからだ」
「あなたが? どこへ?」
「西の森だ」
「西の森って。まさかスバルツと戦争になるの?」
「そうならないための使節団に同行することになった。貴族議会のご指名だ」
「そんな。あなたはもう近衛騎士でも第二騎士団長でもないのに!」
思わずマイクさんが出て行ったドアをキッと睨んだ。
「マイクも第三騎士団も関係ないから睨むな。俺はシェン国での商会設立で叙爵したし、金鉱発見の褒美まで貰って目立ったからな。出る杭扱いされるのは仕方ないさ。それに、西の森に関しては、貴族の中で今一番詳しいのは俺だ。案内役兼スバルツ軍の責任者と使節団の橋渡し役だよ」
「その使節団にはアシュベリーの軍隊が同行するんじゃないの?」
ジェフリーが小さくうなずいた。
「そうだ。我が国の軍も同行する。スバルツ王国軍はだいぶ前から西の森の近くに集結している。使節団が丸腰で出向いて捕虜にされるわけにはいかないんだよ」
「話が拗れた場合に、そのまま戦闘になる可能性は?」
ジェフは返事をしなかった。
きっとその可能性が十分あるのだ。だからジェフの活躍を面白く思っていない貴族たちがこれ幸いと彼を指名したのではないか。
戦争に絶対はない。ジェフリーがどんなに剣豪でも、絶対に死なないなんて保証はどこにもない。
影を務める私に最悪のことがあってもノンナとジェフは無事に生きていく、そう思っていたのに。
私はジェフリーを失うかもしれない恐怖と、ノンナをまた独りにさせてしまうのではないかという不安で一瞬思考が停止した。
「わかってるよ。君は俺のことも心配だし、ノンナが両親を失うかもしれないことが恐ろしいんだろう?」
「ジェフ、私、あなたが戦争に参加するなんて考えてもみなかった。それに、ノンナをまた独りにするのだけは……」
「落ち着け。君はデルフィーヌ様の影役を全うすることに専念しろ。ノンナのことは俺も考えた。俺たち二人に何かあった場合のことは兄夫婦に頼んだ。兄は『万が一の場合はノンナの後見人にでも養父にでもなる、安心して大役を果たして来い』と言ってくれたよ」
「そう……それは……ありがたいこと、よね」
ジェフがシェン国で働くことになったのも、金鉱脈を発見したのも、私がきっかけだ。
胸の中にいきなり真っ黒な後悔がもくもくと湧き出てくる。
私だ。
私がジェフを危険な場所に送り込むきっかけになっている。
胸の中の後悔を悟られないよう、私はジェフの胸に顔を埋めて甘える振りをした。なのに、ジェフは私を引き剥がし、顔を覗き込んでくる。
「アンナ、聞いてくれ。俺は君のことだけは誰よりも知っている。俺が危険な場所に送られるからといって、自分を責めるのはやめてくれ。俺は必ず無事に戻ってくる。だから俺のためだと言って、いきなり姿を消すのもやめてほしい。あんな思いをするのはもう二度とごめんだよ。俺の前からいなくなることは絶対に許さない。君は俺と生涯共に生きると約束してくれただろう?」
唇を噛んで黙り込む私を、ジェフリーが優しい笑顔で抱きしめてくれる。
「そんな顔を見るのは、カディスの海岸で再会したとき以来だな。知ってるかい? 普段は冷静な君が泣きべそをかくと、とんでもなく可愛いんだ。全力で腕の中に閉じ込めておきたくなる」
「ジェフ……」
私はジェフリーの顔を両手で挟み、決してその顔を忘れないように見つめた。ジェフリーが優しく口づけてきた。
ジェフリーとの長い口づけのあと、ジェフリーは「じゃあ、行ってくるよ。君も気をつけて」と散歩にでも行くかのように明るく言い残して部屋を出て行った。
明るく『行ってくるよ』と言ったジェフの気持ちが手に取るようにわかる。ジェフリーはきっと、明るい顔の自分を覚えていてほしいのだ。これが最後の別れになるかもしれないから。
ジェフリーが出て行ったドアを見ながら、私は八歳だったあの日のことを思い出している。
私がランコムに手を引かれて家を出るとき、母は私の頭を撫でながら何も言わずに私の顔を見ていた。あのときの母がどんな気持ちで何を願っていたのか、今ならわかる。
「母さん……私を売る時、つらかったわね」
私はジェフリーと亡き母を思って目を閉じた。
泣くもんかと思っているのに、目を閉じた拍子に涙がこぼれ落ちた。






