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手札が多めのビクトリア 2 【書籍化・コミカライズ・アニメ化】  作者: 守雨
【王太子妃の影】

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55 チェスターとノンナ

本作のブクマが1万を超えました。ありがとうございます。この先も更新してまいりますので、どうぞご贔屓に。

 話はノンナがエドワード・アッシャーの屋敷に来る前日に遡る。

 ビクトリアとマイクを結ぶ連絡係のチェスターは、家を訪れたマイクの言葉に驚いて思わず聞き返した。


「見張るんですか? 十二歳の少女を?」

「チェスター、普通の十二歳じゃない。私と対戦して勝つ十二歳だ。油断しないでしばらく見張ってもらいたい。特に夜だ。抜け出されたら困る」

「マイクさんに勝つ? どうやってです?」

「体術で。とんでもない腕前の持ち主だ。五人の男を武器も使わずに一人で倒したことがある。武器を持たせたら私や君より強いかもしれないな。残念だが」

「マイクさんより……」


 まさか、嘘でしょうと言いかけたチェスターは、マイクが本気の顔なので口をつぐんだ。

 チェスターは五十五歳。特殊任務は引退している。結婚をせず任務ひと筋だったチェスターは、引退後の生活を持て余していた。なので、マイクの誘いに二つ返事で乗り、連絡係を引き受けた。

 

 しかし連絡係の重要性は理解しているものの、ビクトリアが家を訪れることはほとんどない。結局は趣味の木彫りで鳥や動物を彫り続ける生活だ。

 そんな退屈な生活をしていたところにマイクから新たな指令がきたから俄然やる気になったが、その指令の内容を聞いて失望している。


「とにかくしばらく見張ってほしい。ビクトリアさんの娘だ。安全第一で頼む」

「それはかまいませんが、万が一その少女が抜け出して来たらどう対処すればいいんです?」

「間違いなく元気を持て余しているだろうから、体術の相手をしてやってくれ。そうでもして発散させないと、その少女は我々の任務の邪魔をしかねない……予感がする」

「了解です」


(そんな馬鹿な)と思いながら翌日の夜に出動し、エドワード・アッシャーの屋敷の脇まで来た。教えてもらった少女の部屋を見上げると、その部屋は二階でベランダも手すりもない。

(どうやってあそこから抜け出すっていうんだ?)と夜道の端に立って眺めていたら、初日からその少女は部屋を抜け出した。細い身体が窓枠に立ったと思ったら、すぐに近くのニレの大木に飛び移った。


「危ない! なんてことをする!」


 少女はニレの木を滑り降りたので、塀で姿が見えなくなった。

 この後、塀のどの部分から出てくるのか。使用人用の出入り口は角を曲がったところで、ここからは距離がある。

(どうする? 出入口へ回るか? ここにいた方がいいか?)と忙しく思案する。

 だが少女はすぐに塀の上に姿を現した。チェスターは慌てて近くの角を曲がり、隠れて様子をうかがう。

 二メートル半はある高い石塀から音もなく飛び下り、少女はスタスタ歩き出した。少女は濃い色の服装で、夜の闇に紛れている。貴族街はどこも塀だらけ。隠れて尾行するような場所がない。


「仕方ない。相手は子供だし、正々堂々と近寄るか」


 チェスターは足音を隠さずに少女に近づくことにした。

 少女はすぐに足音に気がついて、振り返る。そして腰を落として奇妙な構えを取ってこちらを凝視している。


「俺は怪しい者じゃない。安心してくれ」

「そのセリフがもう怪しい」

「いやいや、本当だって。俺は君のお母さんを知っている。君はビクトリアさんの娘だろう?」


 これで安心してくれるかと思ったのに、少女から強い殺気が生まれた。


「はっはぁぁん。お前、お母さんをしつこく狙ってるヤツらか?」

「違うって。違う違う。本当だ」

「止まれ。近寄るな。それ以上近寄ったら攻撃する」


(いっちょ前に殺気を出しまくっているな。だがあの体格じゃ蹴られても殴られてもどうってことないだろう。ナイフは……持ってなさそうだな)

 チェスターはゆっくり歩み寄った。

 少女はその場でゆらゆらと揺れ始めた。相変わらず見慣れぬ型を構え、全身から強い殺気を放っている。

 少女まであと三歩というところで、突然華奢な姿が消えた。左斜め上に向かって跳んだはずなのに、その方向に姿がない。


(どこへ行った?)と思いつつチェスターは油断なく周囲を見回した。

 次の瞬間、少女が背中に飛びついてきた。同時に首に紐を巻き付けられる。


「動くな。動くと喉の骨を折る。嘘だと思う?」


 チェスターは小さく頭を振る。喉に食い込んでいる細い紐のせいで声を出せないし息も上手く吸えない。


「このまま私が飛び下りたら、喉の小さな骨が折れる。息ができずに苦しみまくって死ぬらしいよ。だから動くな」


 コクコクとうなずくチェスターの口からヒューヒューと不快な音が漏れる。欲しいだけの空気が入ってこない。(反撃するべきか?)と思うがこの少女がどう出るのか読めない。万が一本当に首に紐をかけたまま飛び下りられたら終わりだ、と本能が騒ぐ。息ができず、焦る。

 チェスターはこんな無様な失敗をするのは初めてだった。


 ドンッ!と背中を両足で蹴り飛ばされ、タタッとつんのめった。同時に呼吸が楽になる。

 盛大に咳き込みながら背後を振り返ると、少女は隣家の塀の上にいた。


「お前は誰?」

「ゲホッ、私はゲホッ、チェスター。マイクさんに頼まれた。君がゴホォッ、家を抜け出すかもしれないって、ゲッホゲッホ、ゴホッ」

「あ、そうなの? ごめんね、知らなかったから。今下りる」


 そう言うと少女は目の前に飛び降りた。相変わらず音が全くしない。


「で、あなたがマイクさんを知ってる悪者じゃないって証明できる?」

「証明……」

「私が読んでる小説だとね、悪者はそう言って相手を油断させる。知ってる? 『地獄からの使者 デル・ドルガー』」

「いや、知らないが」

「なぁんだ、読んでないのか」

「私の家はヨラナ・ヘインズ前伯爵夫人の家の裏隣だ。ゴホッ、そこに案内すれば信用してもらえるだろうか」

「ああ、あの家! 前にマイルズさんが住んでたとこね」

「そうだ」

「じゃ、今から行こうよ」

「その家の住人とわかったら信用してくれるかい?」

「うん。それまでに何かしたら、遠慮なく攻撃するけど」

「わかったわかった。俺が前を歩けばいいかい?」

「うん」


 少女の前を歩きながら、チェスターは込み上げてくる笑いを必死に我慢した。

 こんなに面白い出来事は、工作員を引退してから初めてのこと。華奢な少女に後れを取って殺されそうになったことも、後ろから少女に見張られながら家に案内することも、情けないが滑稽で面白い。(何者だよ、この子。こんな少女が身近にいたとは!)と思いながら歩く。

 頭の中でマイクの言葉が甦る。

『私と対戦して勝つ十二歳』『武器を持たせたら、おそらく私や君より強い』


(武器どころか、紐一本で殺されそうになりました、マイクさん)

 そこまで我慢していたが、思わず「クッ」と笑いが漏れた。すると即座に背後から殺気が放たれる。


「なに、やる気?」

「やらないって! 勘弁してくれよ」


 そこまで言ってからチェスターは歩く。笑いたいのを必死に我慢する。殺気は背後から放たれ続けている。


「頼むよ、何もしないから背後から殺気をぶつけるなよ。疲れるわ!」

「やっぱり怪しい」

「怪しくないって。クックックック、ハッハッハッハ」


 抑えようとしても次々笑いが込み上げてきて抑えられない。笑いすぎて腹が痛い。滲む涙を指で拭いながら(いい仕事を貰ったなあ)とチェスターは笑いながら歩く。少女からの殺気は消えていない。

 家に入り、間違いなくチェスターがこの家の住人だとわかると、少女はやっと殺気を引っ込めてくれた。


 その夜からほぼ毎晩、少女は部屋を抜け出してくる。

 チェスターは馬で迎えに行き、一時間みっちり体術の相手をしてから送り届ける。シェン国仕込みという武術は、チェスターが知っている武術とはかなり違う。柔らかく動きながら確実に急所を狙ってくる。動きが不気味で容赦ない。

 おかげでチェスターは毎日が楽しい。夜が待ち遠しくなった。

 二週間が過ぎた頃に「チェスターさん、鍵の開け方教えてくれる?」とノンナに頼まれた。


「今まで教わらなかったのかい?」

「一度教わったような気もするけど、忘れちゃった」

「ああ、そういうことか。じゃあ、まずはこの家の鍵で練習してごらん」


 チェスターはビクトリアがノンナには工作員としての技術をひと通り教えているのだと思い込んでいた。なので疑うことなく開錠の技術を詳しく教えた。

 ごく普通の鍵なら手間取ることなく開錠できるようになってから、ノンナがこんなことを言い出した。


「鍵の開け方、なんでお母さんは教えてくれなかったのかな。簡単な上に役立つのに」

「はあ?」


 チェスターが驚いてノンナを見る。ノンナはスッとチェスターから視線を逸らした。


「ノンナ、教わったことがあるって言ったよな?」

「ううん。教わったような気がするって言ったんだよ? でも、勘違いだったかも。教わってなかったような気がしてきた。でもチェスターさん、心配しなくても大丈夫。私、泥棒はしないから」

「そういうことじゃないだろ! はぁぁ。しまったなぁ、くそぅ」

「お母さんには私がチェスターさんにお願いしたって言っておくよ」

「だからそういう問題じゃないって。大人としてだな……はぁ、もう教えちまったものは仕方ないか」

「そうだよ」

「そうだよじゃないわ!」


(いつかビクトリアさんに謝罪せねば。開錠の技術は敢えて教えていなかったんだろうに。余計なことをしてしまった)

 チェスターは、頭が痛い。その一方でノンナが可愛いし、どこまで知識や技術を吸収するのか楽しみでもある。

 最近のチェスターは、『今まで誰にも教えなかった得意技をノンナに伝授したい』という誘惑に駆られている。


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