5 暗号の鍵
「お母さん、この本読んでもいい?」
「いいわよ。ただ、その本とても高価な本だと思うから、できれば手袋をしたほうがいいわ」
「えぇ、面倒くさい」
「そう言わないで。汚したらバーナード様に申し訳ないわ」
「はぁい」
ノンナは「言葉遣いが変」「字が読みにくい」と文句を言いつつも熱心に『失われた王冠』を読んでいたが、私が使用人たちと食事や就寝などの生活時間の確認をしてから居間に戻ったら長椅子で眠っていた。
ノンナの長い金色の髪は三つ編みを解かれ、つやつやとソファーから流れ落ちている。金色の小川みたいだ。まつ毛も眉毛も金色。唇はさくらんぼみたいな赤。頬は産毛の生えている桃みたい。私の可愛いノンナ。
ノンナに毛布を掛けて、しばらく寝顔を眺めた。ほんとに可愛いと思うのは親ばかだからだろうか。私はノンナの隣の椅子に座って本を手に取った。羊皮紙の本から漂う革の匂い。手書きの流麗な文字。手作業の丁寧さが伝わる格調高い装丁。古書収集家の気持ちが少しわかる気がした。
私は文章の綴り間違いで気づいたことを、全部書き出した。
ページ数、行数、単語の位置、間違い方。いろんな角度から規則性を見つけようとした。
だけどどんな角度から探しても、単語の間違いからは一定のルールを見いだせなかった。
「やっぱり単なる書き間違いなのかしら」
そう思い始めた頃にジェフが帰って来た。
「おかえりなさい」
「ただいま。シェン国で作った商会の報告書を出してきたよ。叙爵式までしばらくは自由だ。ゆっくりできる」
「あちらでは私たち、五年間ほとんど休みらしい休みを取らなかったものね」
「そうだね。俺は君と一緒に暮らせるから、休まなくてもずっと浮かれてたけどね」
そう言って私を優しく抱きしめてくれる。ジェフの使っているグリーン系のコロンとジェフの匂いが混じってとてもいい匂いだ。
最近はさすがに慣れてきたけれど、結婚したばかりの頃の私は頻繁に抱きしめられたりキスをされたりされるたびに、毎回少し慌てていた。慌てる私をジェフリーはいつも楽しそうに眺めていたものだ。
いつだったか、それが不思議でジェフに尋ねたことがある。
「あなたがこんなに頻繁に甘いことをする人だとは思わなかったのだけど」
「俺は、俺の気持ちを伝えられる時に伝えておきたいんだよ」
それは、ジェフリーが婚約者に突然先立たれているからだろうか。それとも、ひとかけらの愛も存在しない両親を見て育ったからだろうか。
ジェフリーの過去を思い出して切なくなり、私もそっとジェフリーを抱きしめ返したっけ。
「そうだ、今夜兄がうちに来るんだ。俺たちが行った時に留守にしていたからって。それと、兄がこの家を選んでくれたから、住み心地を聞きたいそうだよ」
「わかったわ」
エドワード様は夕食が終わったころにいらっしゃった。
「やあ、ビクトリア。元気そうでなによりだ。この家の住み心地はどう?」
「エドワード様、とても快適です。ありがとうございます」
「この家にはあちこちに小部屋があって楽しいです!」
「ノンナはきっとそう言うと思ったよ。かくれんぼするにはぴったりだろう?」
「かくれんぼって、私もう十二歳ですから。それに一緒に遊んでくれる人もいないし」
「うん?」
「クラーク様は大人になっちゃったもの」
「あっはっは」とエドワード様は笑い、「これは秘密だよ」と言いながらクラーク様は私たちが急にいなくなった後にとても落ち込んでいたこと、寂しがっていたことを話してくれた。
「本当ですか?」
「本当だともノンナ」
ノンナが満更でもない顔になった。それを見ている私にエドワード様が話しかけてきた。
「おや?その本は伯父の本じゃないかい?」
「あっ、はい。結婚祝いに頂きました」
「それはそれは。こんなこと言うと伯父が『余計なことを』と怒るかもしれないが、その本は多分、王都でそこそこの屋敷が買えるほどの値がつく代物だよ。大切に扱うといい」
「えっ」
「ええ?」
私とノンナが同時に声を出し、ジェフリーは額に指先を当てて目を閉じてしまった。
「いいんじゃないか?伯父が君たちに贈りたいというならありがたく貰っておけばいいよ」
「そんな、エドワード様。触るのも恐ろしいですよ」
「手袋して読んでよかったぁ」
エドワード様は笑い出し、「遠慮しないで貰っておきなさい」と機嫌よくお帰りになった。
私は夜、ジェフと一緒のベッドであの本についてバーナード様と話したことを伝えた。
「そうか。伯父はそんなことを君に託したのか」
「託したってほどではないけど、あの綴り間違いは暗号ではないような気がしたわ。一定の間隔で誤字があって、とてもそれっぽかったけど。それよりも」
「うん?」
二人で天井を向いて会話していたのだけれど、ジェフが私の方に身体の向きを変えた。ベッド脇のランプの光を反射してジェフの銀髪がキラキラ光る。
「バーナード様はあの冒険小説の舞台を訪れてみたかったそうよ。でももう、厳しいわよね」
「そうだな。足腰が弱って来てる。もしかして君は、伯父の代わりにあの小説の舞台に行ってみたいのかい?」
「あー、ううん。家のことでやらなきゃいけないことがたくさんあるもの。いつかのお楽しみにとっておくわ」
ジェフは何も言わなかった。
本当はかなり行ってみたい。
だけどあの森はジェフのつらい過去に結び付く場所だ。ジェフを連れて行くのは申し訳なさすぎる。かと言ってジェフを置いて私とノンナだけで行くのも気が引ける。
そんなことを考えているうちに私は眠ってしまった。
翌日、居間に行くとノンナがいて、また『失われた王冠』を読んでいた。
「おはよう、ノンナ。その本面白いでしょう?」
「おはよう、お母さん。言葉遣いが面倒くさいけど、面白い」
「それ、私も読んでみたいの。ノンナは栞を挟んでおいてね」
「わかった」
その夜、ノンナが寝たのを見計らって、私は『失われた王冠』を手に取った。紙とペンを用意して誤字の位置、間隔をもう一度書き出し、そこに一定の規則性がないかを探す。
古い暗号法をひとつひとつ試すがどれも当てはまらない。
「あなたは何を伝えたいの?誰かに何かを伝えたいんじゃないの?」
独り言を言いながら古い暗号を試し続けた。
三日かけて知っている限りの暗号法を試すが全滅だった。
最初は興味深そうに見ていたノンナは飽きたらしく、いなくなってしまった。今頃自室でシェン国武術のおさらいをしているに違いない。
私は本を開いたまま本を汚さないように少し離れた位置でお茶を飲んだ。
どのページを開いてもきれいな絵が左上に描かれている。最初は桃の花と小鳥。次のページは小川の小魚。桃の木に止まっている小鳥は五羽いて、三羽が下を向いていた。小川の小魚はたくさんいて、みんなが川上を向いているが、二匹だけは左右の川岸を見ている。
挿絵を見ていてふと思いつくことがあり、もう一度文章を読む。思いついた方法を試してみた。四回目の挑戦で、意味を成す文章が浮かび上がってきた。
私の心臓がトクンと跳ねる。
「この本、やっぱり暗号が組み込まれてる。それもすごく簡単な暗号。私ったらなんで気づかなかったのかしら」
暗号を読み解く鍵は誤字ではなかったのだ。誤字はそちらに読み手を誘導するための罠なのだろう。鍵は見開きの左上に描かれている挿絵にあった。あまりに初歩的な鍵だったから疑うのを忘れていた。
(挿絵、美しいんだけど少しごちゃごちゃしてるわよね)と気になって眺めていてやっと気が付いたのだ。
挿絵にはページごとに小鳥、魚、木の実などいろんな絵が描いてある。あまり文章には関係のない挿絵だ。
その中のいくつかの小鳥、魚、木の実の向きが違うのだ。向きが違う物の数だけ文章を飛ばし、次の文章の頭の文字を拾い上げていくと、言葉が出て来るではないか。養成所で習う最初の暗号法より易しい仕組みだった。
それに気づいたら心が躍り出した。現役だった頃の、苦労して暗号を解読できた時の興奮が甦る。
『失われた 王冠 発見 私 裏切り 怪我 アシュベリー王国 優しき 王女 看病 怪我 戻る 王冠 知らせ アシュベリー 民 残す』
文章にすると
『失われた王冠を見つけた。だが私は裏切りに遭い、怪我をした。アシュベリー王国の心優しい王女に看病されて私は怪我から回復した。だから王冠の情報はアシュベリーの人に向けて残そう』
ああ、楽しい。
王冠とはどんなものだろうか。バーナード様が推測した通りに戦場となった深い森に王冠はあるのだろうか。今すぐ行って確かめてみたい。
だがそう思った直後にすぐに自分を戒めた。
「行けるわけがないじゃない。私はジェフリーの妻でノンナの母で、子爵家夫人になるんだもの。もうとっくに工作員じゃないんだもの」
私の居場所を陽の当たる世界に作ってくれたジェフリー。
彼をがっかりさせたり心配させたりしたくない。何よりもジェフリーに愛想を尽かされたくない。彼を失った人生を想像すると、目の前に大きな暗い穴が広がるような思いがする。
私は『失われた王冠』を閉じ、暗号の解読に使った紙を全部重ねて本の下に置いた。






