49 自由
「あなたの名前はなんと呼べばいいかしら。自分で決めてくれる?」
「では、ケイトとお呼びください」
「わかったわ。私のことはデルフィーヌと呼ぶように。ケイト、私はね、ミアやあなたの命を危険に晒してでも、王太子妃を続けなければならない。私の母国であるイーガル王国は、アシュベリーとの強い連携を求めています。両国の平和の役に立つため、今死ぬわけにいかないのです」
「はい」
「イーガルから王太子妃を出す順番だったから、私はイーガルで最高の教育を受け、この国の未来の王妃になるべく、最高の人材と多額の費用を注ぎ込まれて育ちました」
それは息苦しくなかったのか、と思いながら聞いていた。
デルフィーヌ様は私を見て、(あなたの考えていることはわかっている)というように唇の両端を持ち上げた。
「そのくらいの重圧に負けるようでは将来の王妃は務まりません。私はイーガルとアシュベリーの平和を願い、この国の民と共に生きていく。それが私に与えられた使命なのです」
「はい」
「政治の世界は男だけが動かしているわけじゃないわ。表舞台では男が活躍しているけれど、私は私で国の役に立てる場所がある。ただ、身を守る技はあなたたちには敵わない。だから私に力を貸してほしいの」
「もちろんでございます」
「それで、あなたはなぜ影を引き受けたのか、聞かせてくれるかしら」
「引き受けた理由は……不敬を覚悟で申し上げます。自分のためでございます」
「ほぅ。自分のために命の危険を冒してまで私の影を務めると?」
デルフィーヌ様は興味深そうに青い瞳で私を見つめている。
「殿下の影を務められなくなった女性に事情を聞きました。私は人生のほとんどを彼女と同じような仕事をして生きて参りました。そのための技術は身に付けてあります。そんな私が自分と家族を優先して今回の依頼をお断りし、万が一にもデルフィーヌ様の身になにかあれば、私の半分が生きながら死んでいくように思いました。影を務めるはずだった彼女もまた、一生苦しむでしょう」
「……そう。もっと詳しく聞きたいけれど今日は初日。詳しい話はまた今度聞かせてもらうことにしましょう。私はこれから執務に戻らなくては」
そこでデルフィーヌ様は立ち上がった。部屋を出るのかと思ったら、言葉をイーガル語に変えて話しかけられた。
『私は毒への耐性もある程度はある。あなたも経験者でしょうからわかるだろうけれど、あれはつらいわね』
『はい。まだ若く、今よりずっと体力がある頃だったので耐えられたと思っています』
『今、我が子に少しずつ毒慣らしをさせているところです。我が子にそれをさせてみて、私の両親がどんな思いをしたかがわかりました』
『さようでございましたか』
デルフィーヌ様は再びアシュベリー語に言葉を戻された。
「ふふふ。素晴らしいわね。イーガル生まれだと言われたら信じてしまいそうよ。ただひとつ、あなたにイーガル語を教えた人は北部の話し方まで一緒に教えたようね。ほんの少しだけ、北部の人の癖があるわ」
「気がつきませんでした。失礼いたしました」
「ううん。ほぼ完璧です。私の祖母が北部の出身だから気づいたようなものよ。アシュベリーの人なら気づかないでしょう。とても上手です」
「ありがとうございます」
「ケイト、ときどきならあなたの家族に手紙を書いてもいいわよ? マイクの仲間に届けさせます」
そうしたいが、やめたほうがいいだろう。
二ヶ月も留守にして家族に寂しい思いをさせるのに、手紙を書くことでこの仕事に支障が出たら元も子もない。私と家族の絆は、たった二ヶ月で壊れたりはしないはず。
デルフィーヌ様にそう返事をすると、王太子妃殿下は「賢明な判断ね」と微笑み、部屋を出た。
※・・・※・・・※
「二ヶ月? お母さんは二ヶ月も帰って来ないの?」
「ああ、そうだ。仕事をすることになった」
「どんな仕事?」
「国からの依頼だ。それ以上詳しくは言えない」
「それ、お母さんが昔入っていたっていう組織と関係ある?」
「それも言えない。二ヶ月後には帰って来る。それまで待てるな?」
しばらく黙って考え込むノンナを、ジェフリーが見つめる。
ノンナは少しの間考え込んでいたが、視線をジェフリーに向けた。
「お母さんに会えないのは寂しいけど、二ヶ月ならすぐだと思う。シェン国の五年間だって、行く前はものすごく長いと思ったけど、行ってみたらそうでもなかった」
「そうだな」
ノンナは三つ編みの毛先を触りながら、ジェフリーをジッと見ている。
「どうした」
「お父さんはお母さんが二ヶ月間、外で仕事をするのが気に入らないんだね?」
「そんなことはないぞ。俺はアンナに自由に生きてほしいと思ってる」
「じゃあなんでそんなにイライラしてるの? アシュとベリーが怖がって逃げて行ったよ?」
そう言われてジェフリーは思わず言葉に詰まった。
「ノンナ。俺は機嫌が悪いわけじゃない、アンナが心配なんだ」
「お母さんはその仕事をやりたいと言ったんでしょう? じゃあ、応援してあげてよ。お母さんなら大丈夫だよ。ここで私とお父さんがどれだけ心配したって、お母さんは安全にはならないんだし」
「それはそうなんだが」
ノンナは心に生まれた疑問を言おうか言うまいか、悩む。ジェフリーはそれをすぐに見抜いた。
「言いたいことは言いなさい」
「うん。あの、これは貴族が使う遠回しな嫌味とかじゃないからね? 本当に知りたいから聞くんだけど」
「なんだい?」
「お母さんはお父さんが『君は自由に生きていいんだよ』って言ってくれたって、すごく嬉しそうに何度も私に話してくれた。でもさ、もしかしてお父さんのいう『自由』って、『お父さんが許せるところまでなら自由にしてもいいよ』って意味だったの?」
「……」
ノンナの思わぬ質問に再び言葉が詰まるジェフリー。
「もしそういう意味ならちゃんとお母さんに伝わってない気がするけど。もしだけど、もしお母さんに『普通の女の人や世間の人が思う自由ならあげるよ』って言ったんだとしたら、お母さんは苦しむような気がするけどな」
「……」
「私、お母さんがやりたいことがあるんなら待つよ。私なら大丈夫。もうすぐ十三歳だもの。お母さんはずーっと私とお父さんのためにすごく頑張ってた。お母さんがやりたいことができたのなら、やってほしい。お母さんはちゃんと帰って来るよ、お父さん」
「そうだな。イライラしていたのなら、お父さんが悪かった。ノンナ、いつの間にかずいぶん大人になったな」
「えへっ」
ノンナは立ち上がり「部屋で本を読んでるね」と言って居間を出た。
しかし自分の部屋に入ってドアに鍵を掛けると、本を読まずに動きやすいシャツとズボンに素早く着替えた。
猫のアシュとベリーが猫用ドアから部屋に入って来て見守るなか、長い金髪の三つ編みはゆったりしたキャスケット帽に入れた。一見華奢な少年に見えなくもない。
窓を開けてスルリと窓枠を乗り越える。窓の下には幅十五センチほどの細い梁。
ノンナはそこに立ち、壁に沿って移動した。建物の角の部分には太い鉄の輪が目立たぬように埋め込まれている。外壁修理の際に梯子を固定するためのものだ。
ノンナはそこにつかまり、ぶら下がって次の金具の位置を確認した。
「いけるいける」
そう言うとパッと手を放す。壁に沿って落ちながら次の金具を素早くつかんだ。
「よしよし」
にんまりと笑うと、金具につかまりながら身体全体を左右に振った。勢いをつけて右斜め下にある一階の庇の上へと飛び下りてから、その上で首をかしげる。
「あれ? こっそり一階の窓から抜け出したほうが早くて簡単だった? ……ま、いいか、一度やってみたかったんだし」
そう言って庇から地面へと飛び下りた。そのまま庭の端に向かい、石塀のわずかな凸凹に爪先をかけ、指と爪先で身体を引っ張り上げる。これは六歳の時から練習してきた得意技だ。
あっという間に石塀を乗り越え、塀の向こう側に飛び降りると、ノンナは走りだした。
行き先はヨラナ・ヘインズ元伯爵夫人の屋敷だ。






