33 エルマーとカロライナ
『妻の最後は病気との闘いだった』
最初がこの文章だった。(ああ、やっぱり)と思う。暗号にして書き記しても世の中に出す気になれないような内容が書いてあるのだろうと思っていた。
新作にはぎっしりと暗号が織り込まれていた。エルマーは小説の中に暗号として書いて吐き出して、そのまま森の家に隠してしまった。そこにはエルマーの晩年の感情が切々と綴られている。
『妻は新しい記憶から失っていく。今日は息子がいない、と恐慌をきたした。息子はもう四十二歳。とっくに結婚して家から出て行っているのに、妻は少年の息子を探し回る。明日はどこまで記憶が戻っているのか。眠るのが恐ろしい』
それでも時々はカロライナの記憶がしっかりすることもあり、エルマーは『もしやこのまま落ち着くか』と期待する。だが『期待は繰り返し裏切られた』ようだ。
エルマーは次第に現実を受け入れていく。
ある時は悩みを抱えているのに耐えかねて、開拓団の教会の司祭に打ち明けたようだ。
『司祭様、妻の記憶が少しずつ消えていくのです。少しずつ昔に戻っています』
そう悩みを打ち明けたエルマーを司祭は優しく慰める。
『あなたの妻は生まれた時に向かって戻っているのでしょう。悲しまないで。清い魂は神に愛されますから』
四年間の介護を経て、エルマーの妻、六十代後半のカロライナ王女の魂は十代の少女に戻った。彼女はエルマーにしばしば泣いて頼んだようだ。
『どうして私はここにいるの? お城に帰りたい。お願い、私をお城に帰して』
『王女様、明日にはお城に帰りましょう。私が必ずお連れします』
エルマーは妻を何時間も慰めて眠らせる。
眠った老妻を抱きしめて泣くエルマー。『カロライナにはもう、私を愛し私に愛されてきた夫婦の記憶がない』
(エルマーはどれだけ寂しく悲しかっただろう)と読みながら何度も涙を拭いた。
『馬車で王都に向かった。もう歩けない妻を抱いて、王城が見えるそこに立った』
カロライナは遠くに見える王城を見て
『ありがとう。あなたには褒美を出さなくてはね。早くお城に行きましょう?』
と王女の口調で言う。カロライナはエルマーを使用人と思っているのだ。
『王女様、明日は美しいドレスを着て舞踏会に参加しましょう』
『ええ、私にティアラを用意してね。どこかの国の王子様が私を見てくれるように』
『はい。王女様がお美しくて、全ての貴公子が虜になりましょう』
『そうだといいわね。ありがとう』
エルマーを見て微笑んだカロライナは目を閉じ、眠る。眠ったまま少しずつ呼吸が浅くなり、やがてカロライナの胸は動かなくなる。
『すっかり軽くなった妻を抱いて、私は長い時間そこに座り込み続けた。最後に、妻に心行くまで城を見せてやりたかった』
『私は妻が城に帰りたいと言い始めた時に、家にあった金鉱石を売り、城が見えるその土地を購入した。そこに妻の墓穴を掘り、埋葬した。私は王冠を失い、ただの老人になった』
組織を裏切って脱走し、愛する妻と生きたエルマー・アーチボルト。
長く幸せな人生を送り、最後に悲しみと共に妻の隣で眠った人。他人事とは思えず、胸が締め付けられる。
しばらく時間をおいて、泣き腫らした目が落ち着いてから外出の準備をした。
「リード、ヨラナ様の裏隣の家に向かってね」
「裏隣ですね。はい、奥様」
ヨラナ夫人の家と背中合わせに建てられている家。
以前、マイルズさんという私の動向を監視していた人が住んでいた家だ。今回出迎えてくれた男性も軍人風の外見。その男性はチェスターと名乗った。見たところ五十代後半くらいの年齢だ。
「初めまして、アッシャー夫人。本日は『連絡』をご希望でしょうか」
「はい。マイクさんに。すぐに連絡はつくのでしょうか」
「今すぐ向かいますが、ここに呼べばよろしいのでしょうか?」
「いえ、このメモに書いてある場所に来てくれるよう伝えてください」
チェスターさんにメモを渡した。そこには読み解いて把握した二人のお墓の場所が書いてある。
◇ ◇ ◇
「お待たせしました、アッシャー夫人」
「お忙しいところを申し訳ありません」
「ここがカロライナ王女の墓、ですか」
「はい」
高い丘の上。眼下に王都を見下ろすそこは道の行き止まりにある林を抜けた所だ。
丘の一番高い場所には、四角い白い石が置かれている。
「これは、あの火口の石ですね」
「ええ。よく見ると二人の名前が刻んであります。刻んだのはおそらくエルマー本人かと」
「エルマーは自分の墓石まで用意していたのですか」
「彼はカロライナ王女を失ってからは、彼女の隣に眠ることだけが生き甲斐だったようです」
マイクさんは二つの墓石の前で祈りを捧げた。
「実は我々もあの新刊に何か仕込んであるかもと思い、読み解こうとしたのです。しかし鍵となる言葉がわかりませんでした。暗号解読の鍵の言葉は何だったんですか?」
「『私の王冠』でした」
「ああ……。そうでしたか」
「エルマーにとって、カロライナ王女こそが輝かしい王冠だったのでしょう」
「あの大ベストセラー『失われた王冠』の王冠とは、金鉱石かと思ってました」
「壺の中の暗号文書に、妻カロライナについて書いてあるのはごくわずかでした。彼女のために人生を捧げたにしてはずいぶんあっさりしてるな、と思ったのです」
私はエルマーの墓に近寄り、そっと指先でその名前をなぞった。
「本の中でも暗号文書の中でも、妻を愛しているのが伝わるわりには彼女の描写が少なくて。書きたくない何かがあったのだろうと思ったんです。新刊を読むのには勇気が必要でした」
「それにしてもさすがです。うちの連中にこのことを知らせたらきっと驚くでしょう」
「解読してこのお墓を見つけたのはマイクさんということにしてくださいね。バーナード様にはマイクさんに教えてもらった、ということにしますから」
マイクさんは「自分の手柄にするのは気が引ける」と言っていたが、最後は私にお礼を述べて帰って行った。
私は離れた場所で待っていたリードと合流した。行く先はバーナード様のお屋敷。連絡なしで訪れたら、バーナード様は居間で読書をなさっていたようだった。
「どうしたんだい、ビクトリア。今日は助手の日じゃないぞ」
「バーナード様、エルマーのお話をお届けに参りました」
「ん? エルマーかい?」
お茶を淹れ、途中で買って来た焼き菓子を皿に並べてから私は席に着いた。
「バーナード様、エルマーの新刊にも暗号文書が隠されていたんです」
「なんと! その内容は?」
私は自分が読み解いたエルマーの晩年のことを話した。
悲しい物語だと思って話したのだが、バーナード様から返ってきたのは意外な言葉だった。
「幸せな男だな」
そう言ったきり目頭を押さえて沈黙なさった。
「バーナード様?」
「ああ、すまない。それは夫婦の深い愛の物語だ、ビクトリア。君はまだ若いからわからんかもしれんが、そこまで愛せる女性と巡り会えた幸せな男の記録だよ」
「そう、でしょうか」
「私にはわかる。カロライナに先立たれてさぞかし寂しかったろうが、妻の最後の一秒まで愛を捧げ続けることができたエルマーは、幸せでもあったはずだ」
「そういうものなのですか」
「善き伴侶に巡り会えれば、その人の人生は成功したも同然なのだよ」
(自分との思い出を忘れられたのに)と思ったが、私は何も言わなかった。
「君にとって死は永遠の別れ、絶望かもしれないが、私たち老人にとって、死は最後の安息の地だ。そこに行けば妻に会える、と思えば寿命を全うすることは恐ろしいものではないのだ。エルマーもきっと妻に会える日を希望の灯りにして暮らしていただろう」
私には絶望の記録に見えたエルマーの暗号が、急に温かいものに感じられてホッとする。
「そういうものだよ。妻を失ってからのエルマーは寂しかったろうが、惨めではなかったはずだ。最後の暗号文章は、弱音を吐いた自分を人に見せたくない、我が子にだって見せたくはない、だけど自分を忘れていく妻と二人の、苦しんだ気持ちを書き記して吐き出したい、というところだよ。彼は書かずにはいられないタイプの人だったのだろうな。私が歴史の謎を調べずにはいられないのと同じさ」
バーナード様は壁に掛けられている奥様の絵姿に目をやって微笑まれた。
「夫婦は一緒には旅立てない。だがそれも少しの辛抱なんだよ。愛する人にいつかはまた会える。エルマーはきっとそう思いながら暮らしたことだろう」
そして晴れ晴れと笑って私に頭を下げた。
「ありがとう、ビクトリア。君がいたから私はカロライナ王女の人生を知ることができた。彼女のお墓に行って挨拶もできる。『はじめまして。私はあなたのことを三十年以上も調べ続けてきた歴史学者です』とね」
暗号解読と言う私の手札が、役に立った。
少年のようにはしゃいで嬉しそうなバーナード様を見ていたら、(この方を残して旅立った奥様はさぞかし心残りだったろうに)と思った。奥様はご自分が死ぬことより残されるバーナード様を案じたのではないか。
そう思ったら不覚にも涙がこぼれて、バーナード様を慌てさせてしまった。
私がカロライナと同じ状態になったら、ジェフリーもきっとエルマーと同じように私を最後の一秒まで愛してくれるだろう。
「でもジェフリーは寂しがりやだもの。私が先立ったらきっと酷く寂しがる。私が長生きをしてジェフリーを最後の一秒まで幸せな夫でいさせたい」
私に大切な目標ができた。
この目標があれば、年齢を重ねることも最後に自分が一人で残されることも恐ろしくはない、と思った。
「そうか、エルマー、あなたもこんな気持ちだったのね」






