31 勇気が出ない
エルマー・アーチボルトの『長い旅の終わり』を読む勇気が出ないという私に、ジェフリーは
「気が進まないうちは読まなければいい。読みたくなったら読めばいい。君にはエルマーの暗号を解かねばならないなんて義務はないんだからね。責任感で自分を追い詰めちゃだめだよ」
と言ってくれた。
なぜ勇気が必要なのか、何が書いてあると思うのか、などと私を深くは問い詰めない。私は読む勇気が出ないまま、今も本は机の上に置いたままだ。
そんなある日、侍女のバーサが子猫の話を仕入れて来た。飼い猫が生んだ子猫の貰い手を探している人が近所にいるらしい。
◇ ◇ ◇
「お母さん、可愛いねえ!」
「可愛いわねえ。五匹もいるわよ。どの子でもいいんですって」
「うわあ、迷う! どの子も可愛い! 一匹だけなんて選べないよ」
「二匹でもいいわよ」
「ほんとに? 二匹もいいの?」
「遊び相手がいた方が、子猫も楽しいわよきっと」
ご近所の老婦人は「何匹でもいい。どの子でもいい」と言ってくれている。
「じゃあ、この子とこの子で!」
「そう。じゃあそうしましょう」
私とノンナは子猫を籠に入れて抱いて家に帰った。名前はノンナが決めた。「アシュ」と「ベリー」だ。アシュベリーの王都で手に入れたから、という一貫した名付け方だ。アシュとベリーは乳離れがそろそろ終わりで、柔らかいものなら自分で食べるらしい。
ノンナは
「私に慣れるまで絶対にエリザベスに見せない。エリザベスは猫の扱いが慣れているから、この子たちがエリザベスに懐いたら悔しい」
と言う。案外彼女と張り合っている部分もあるらしい。ああいうタイプは相手にしないのかと思っていたから意外で面白い。
◇ ◇ ◇
「アッシャー夫人、どうお思いになります?」
「え? ごめんなさい、ちゃんと聞いてなかったわ、エリザベス様。なんでしたかしら」
「ですからノンナさんのペットのアシュとベリーのことですわ。わたくしに一度も見せてくださらないんです。本当に子猫はいますの? もしや以前ペットだと言って見せてくれた石ころの類ではありませんの?」
「エリザベス様、ノンナの猫は本当にいますよ」
「あら、そうなんですか」
「そうだよ。子猫はいるけど、もっと私に懐くまではエリザベスには会わせたくないんだもん」
「出し惜しみですか! いずれ必ず見せていただきますわ! それと、どうしてこの方がここにいらっしゃるのかしら。今日は女性だけのお茶会かと思っておりましたのに」
この方、とはクラーク様だ。
ノンナがエリザベス嬢と頻繁にあちこちのお茶会に参加していると知ってから、クラーク様はノンナのエスコート役を毎回引き受けてくださるようになった。今日も我が家でお茶会を開くとお知らせしたら来てくださった。
「僕のことはいないものと思っていればいいのですよ、エリザベス嬢」
「目の前にいらっしゃるのに、そんなこと無理ですわ。それとクラーク様、お茶会にノンナさんが参加なさるたび、番犬のようにノンナさんにくっついていらっしゃるの、どうかと思います。他のご令息をノンナさんに寄せ付けないようになさってるの、見え見えですのよ? 婚約者でもないのに」
「僕とノンナは幼馴染みだからね。いいんだよ」
「そうそう、クラーク様と私は兄と妹みたいなものだから」
「……」
クラーク様のお顔が引きつっているように見える。やはりノンナに幼馴染み以上のお気持ちがおありなのだろうか。
それにしても。
番犬みたいなクラーク様を見てみたい。凛々しく成長なさったクラーク様は、ノンナに膝蹴りをされていた頃の面影は消えてしまっている。そんなクラーク様がノンナの番犬。ああ、見てみたい。
賑やかなお茶会が終わり、夕方にジェフリーが第二騎士団から帰ってきた。
ジェフリーは最近、第二騎士団相談役という肩書を貰ったそうだ。現場に出動はしないが剣の稽古はつけるし、何かあれば助力する、という立場らしい。
「俺が立ち上げた商会は国が管理するからね。俺は肩書きばかりで基本やることがないんだよ」
「お暇でしたら私の軟膏と飲み薬の商会を立ち上げますか?」
「ああ、いいぞ」
「冗談ですよ。そんなに大量に作れませんから。我が家はお金の不安はなくなりましたけど、退屈でしたら何かお仕事を始めたらどうかしら」
「そうだな。なにか考えてみるよ。だが、しばらくはのんびりする。あんなに働き続けたんだ」
「それもそうね」
そこで昼間に聞いたクラーク様の話をした。
「クラークに恋愛感情があるかなあ。可愛い妹みたいに思ってるんじゃないか?」
「でもノンナが兄妹って言ったら絶句なさってたわ」
「貴族の婚約は五、六歳くらいで決まることも珍しくないから、年齢的には問題ないが」
「ノンナはまだそういう感情を持っているようには見えないけど」
「何しろデル・ドルガーと子猫に夢中だからな」
「ふふふ」
そこにノンナがやって来た。
「お母さん。アシュとベリーが芸を覚えたの。見て」
「あら。どんな芸かしら」
ノンナがベリーを床に置き、自分も離れた場所に座る。すると二匹の子猫が競うようにノンナの身体をよじ登り、襟の背中側部分から何かを咥えて引っ張り出し、ヨチヨチとノンナの手まで運んだ。
「すごい。ところでそれは、なあに?」
「糸のこぎりの歯。リードに折れたのをもらったの」
「そんなのを襟の内側に隠してたら肌に傷がつくわよ!」
「そう言うと思ってバーサに小さい袋を縫い付けてもらってる。バーサがなんでここにポケットを? って尋ねるからちょっと困っちゃったけど」
「ノンナ、なんで糸のこぎりのかけらなんだい?」
「両手両足を縛られても縄を切って抜け出せるように!」
ジェフリーが苦笑する。
「ノンナ、誰かに縛られることを当然のように言うのはどうかと思うぞ」
「そうよノンナ、私ならもっと簡単な方法が使えるけど。見てて」
私はハンカチを取り出してジェフリーに背中側で手首を縛ってもらう。そのままぐるりと腕を回して前に持ってきて、歯でハンカチを解いた。
「あああ、そっか。この子たちを仕込まなくても自分でやれるのか」
「関節が柔らかい人だけが使える技だけどね」
「いや、猿ぐつわをされていたら歯は使えないぞ」
「あっ、そうだったわ」
「そうだよお母さん。やっぱりこの子たちは役に立つよ」
私たち一家は親子揃って何をしゃべっているんだか。でもノンナの案は悪くないと思った。
小さかったアシュとベリーはあっという間に大きくなった。猫がこんなに早く成長するとは思わず、私も驚いている。
「私の肩にも乗ってくれるかしら」
「ベリー、お母さんの肩に乗ってごらん」
ベリーはヒクヒクと鼻を動かして私の身体の匂いを嗅いだ後で、ササッとノンナの元へと駆け戻ってしまった。アシュも同じく。ノンナの顔が嬉しそうだ。
「この子たち、お父さんもクラーク様もダメだったの。私だけなの」
「クラーク様に猫たちを見せたの?」
「うん。この前クラーク様のお屋敷に連れて行った。可愛いって言ってくれたよ」
「そう言えば私もペットって飼ったことがなかったわ」
「お母さんも猫を飼いたいなら、あの家に行ってお願いしてこようか?」
「えーと、この子たちがいるからいいかな。欲しくなったら頼むかも」
「ふうん。わかった」
夜、自室でひとりになると、『長い旅の終わり』に目が行く。いまだに手が出ないままだが、ずっとこのまま横目で睨んだまま置いておくのも負担だった。
「どうしたものやら」
私の声が部屋に吸い込まれる。夜になって雨が降って来た。
オーリはどうしているだろう、と雨を見ながら思う。私が苦境から助け出そうとした少女。
ジェフリーが第二騎士団経由で聞いて来た話では、オーリの身元を照会したところ、スバルツ王国で雇い主の持ち物とお金の窃盗を働いている現場を見られて脱走したのだとか。
身柄引き渡しの請求が無いのでこのままアシュベリーで刑に服することになったらしい。
オーリのことは忘れようと思う。だが、忘れられないだろうことはわかっている。胸にまたひとつ忘れられない苦い思い出ができてしまったけれど、それもまた人生だ、と窓を開けて雨の音を聞きながら思う。
雨に濡れた暗い庭をながめながら候補生だった時の教官の「人生は思い通りにいかないものだよ」という言葉を思い出した。
「本当ですね、教官」
苦い経験をして初めて、心に沁みる言葉だった。






