29 豹変
私は今、ノンナと二人、ザカリーさんの案内で美しい古書を見に行く途中だ。
ザカリーさんは店の看板を『閉めました』の表示に変えて、私たちを案内してくれている。
「夫人、御者の方は? 一緒じゃないんですか?」
「今日は運動がてら、二人で歩いて来ました」
「そうですか。古書を保存している部屋はすぐそこです。さあどうぞ」
そう言ってザカリーさんは私たちの前を歩いているのだが、これがなかなかどうしてたどり着かない。南区六番街からはだいぶ離れ、今は南区の外れまで来た。曲がり角を少し過ぎた所でノンナに声をかけた。
「ノンナ、あなたシビーのお散歩をする時間だわね?」
「シビー? ……あっ、そう言えばそうだった。残念だけど、先に帰るね」
「私もすぐに帰るから」
「はぁい。シビーのお散歩がんばってくる」
ザカリーさんが振り返る。ノンナを引き戻そうとしたらしく角を戻ったが、もうノンナの姿はないはずだ。おそらく塀を乗り越えて内側に隠れているだろう。
「お嬢さんは足が速いのですね」
「ええ、とても。ザカリーさん、本が置いてある場所はまだ遠いのですか?」
笑うと三日月のようになるザカリーさんの目が、真っすぐに私を見る。形だけ笑った目は、ヒンヤリと冷えていた。
「娘には逃げられたが、あんたは連れて行く」
「どういうことです? 本を見せてくださるのではないのですか?」
「いつまで演技するつもりだ? 王家の犬が」
豹変したザカリーさんはそう言うと、私の二の腕を強く掴み、ナイフをちらつかせた。
「お上品ぶってる顔に大きな傷をつけられたくないだろう? 大人しく歩け」
「やめてください! 王家の犬ってなんのことです? 帰してください!」
「静かにしろって言ってるだろうが」
一応怖がって見せた。どこへ連れて行かれるのか知りたかったから。
私とザカリーはぴたりと身体がくっついていて、知らない人が見たら仲の良い恋人同士に見えたかもしれない。
だが周囲に人はいない。この辺りはもうすぐ街道を広げるらしく、取り壊し予定の木造の古い家が並んでいる。あちこちに「空き家への立ち入りを禁ず」の立て札が。
やがて私は一軒の空き家に押し込まれた。
中には見るからに悪そうな男たちが四人。テーブルでカードをしていて、突き飛ばされて中に入った私を見ても驚かず、ニヤニヤしている。
「なんですかここは。ザカリーさん、私をどうなさるおつもり?」
「あんただろ? グッドウィル商会のことを騎士団に告げ口したのは。取り押さえの現場、馬車から見てたもんな? うちの書棚を毎回調べてたしさ」
「なんのことです?」
「なんでしょうねえ。あんたに説明する必要ある? 邪魔だから殺すのに!」
そう言ってザカリーは私に向かってナイフを振り下ろした。
サッとナイフを避けた。私の動きに驚いて立ち上がった男たちとザカリーは合わせて五人。手慣れた様子で窓とドアの前に立ち、逃げ口を塞いでいる。
「気丈なご婦人、さあどうする?」
ザカリーが薄笑いをし、男たちも気持ちの悪い笑い方をしている。
ノンナは今、どこまで行ったろうか。「シビーの散歩」というあり得ない言葉で非常事態だと気づいたはずだが、ちゃんと警備隊か騎士団を呼んで来るだろうか。私のドレスの中、腿にはナイフを括り付けてあるものの、できればこの連中は殺さずに逮捕させたいのだが。
男が近寄って私の腕を掴もうとした。素早く一歩下がると見せかけて、のけ反った反動を利用して男の顔を肘打ちした。思い切り体重をかけたから、鼻の骨は折れたはず。
「があああっ!」という悲鳴をあげて男がうずくまる。
それをきっかけに残り四人が私に飛び掛かって来た。 一人の腹に蹴りを入れて吹っ飛ばし、ザカリーの側頭部には回し蹴りをお見舞いした。
そこで突然、ドアが開いた。立っていたのはノンナだ。
あれ? 戻って来ちゃったのか。
別れる前に目と目で『警備隊を呼んで来なさい』『わかった』と会話できたと思っていたのに。男たちが動きを止め、呆れたような顔でノンナを見ている。
「はあ? なんだこのガキ」
「この女の娘だ。ちょうどいい、捕まえろ」
ザカリーがうずくまって頭を押さえながら男たちに命令した。
その瞬間にノンナは飛び上がって右の男の胸を蹴り、振り返りざまに前にいた男の顔に拳を入れた。それからノンナはシェン武術の型を構え、ちょっとだけ怖い顔を作って低い声を出した。
「地獄からの使者、デル・ドルガー! の、子分参上」
こら。
(もういい、私が残りを倒す)と思ったら、ノンナが猛烈な速さで男たちに襲い掛かった。
近い位置にいた男の腹に踵からの回し蹴りを入れた。男が腹を押さえて前のめりになったところで首に飛びついた。飛びついた勢いを利用して足先からグルンと回転して男を引き倒し、頭を床に叩きつける。あ、それ、失敗すると自分の首の骨を折って死んじゃうやつなのに。危ない。
次にザカリーの胸に正拳突き、呼吸できずに苦しむザカリーの背後に回って後頭部に手刀。振り返りざまに左の手刀を別の男の喉に叩きつけた。それは一歩間違えると喉の骨を折って男が死ぬのに。ちゃんと急所は避けて攻撃してるのかしら。
残り二人も胸への蹴りで失神させ、あっという間に男たち全員が床に倒れた。
ノンナは大変に満足そうな顔で立っている。
「早く縛ろうよ、お母さん」
「そうね」
失神している男たちのズボンを脱がせ、ナイフを使って一気に引き裂く。次々にズボンを脱がせては引き裂いて、その布で両手両足をがっちりと縛った。途中で起き上がろうとした男の腹にはノンナが膝を落とし、再び意識を失わせる。私は男たちを縛りながらノンナに声をかけた。
「警備隊を連れてきてほしいんだけど」
「警備隊か騎士団かマイクさんかはわからないけど、誰かは来るはずだよ」
「どうして?呼びに行ってないじゃない」
「呼びに行ってないけど、今、この家の屋根から真っ赤な煙が上がってるから。誰かは駆けつけてくれると思う」
「そんなもの、なんで持ってるの?」
「帰国した時にマイクさんと鍛錬して勝ったでしょ?あの時のご褒美。ロウで張り付けてある紐を剥がして強く引っ張ると、火がついて真っ赤な煙が出るよって。マイクさんが言ってた。王城から見える範囲なら第三騎士団か第二騎士団が駆けつけてくれるんだって」
「ああ、あの時のきれいな赤い玉、へえ、そういう……」
ノンナとおしゃべりしているうちに全速力で走ってくる馬の蹄の音が聞こえてきた。ドアがバン!と押し開かれ、黒いニット帽を目深に被りスカーフで目から下を覆った男が一人、飛び込んできた。
「大丈夫ですか! って、なんだ、もう全員片付けちゃったんですね」
「その声はマイクさんですね。はい。片付けました。この人たちも契約書偽造の仲間です。主犯はこのザカリーと名乗ってる古書店の店主だと思います。本名かどうかわかりませんが」
「ええと、詳しいことはのちほどうかがいます。もうすぐ第三騎士団がやってきますので、お顔を見られる前に、とりあえずお帰り願ってもよろしいでしょうか」
「はい、そういたします。では、失礼」
私とノンナはそそくさと空き家を出た。建物を離れてすぐにドドドドと地響きを立てて走って来る第三騎士団の一行とすれ違った。
私は笑いたいのを我慢して無表情を装い、ノンナに話しかけた。
「ノンナ、ひと言いいかしら」
「ごめんなさい! でも一回やってみたかったんだもん、デル・ドルガー」
「あの『の、子分』って言葉は余計じゃない? デル・ドルガーでいいと思う」
「あれ? そこなの? ふふっ、お母さんて変わってる」
「あら、そう?」
私たちは手を繋ぎ、笑っておしゃべりしながら帰宅した。






